<rss version="2.0" xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/" xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/" xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"><channel><title>対話シリーズ | log</title><link>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/categories/4899301</link><description>対話シリーズの一覧</description><atom:link href="https://smaltshobo.themedia.jp/rss.xml?categoryId=4899301" rel="self" type="application/rss+xml"></atom:link><atom:link href="http://pubsubhubbub.appspot.com/" rel="hub"></atom:link><item><title>対話Ⅱ</title><link>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/20300634</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;(対話シリーズ③)コンサートホールのピアノを弾く燎。非日常感強め。勝手な曲解釈。モブ男女少し(恋愛要素なし)。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　上りエスカレーターの終点を境目に空気の匂いが変わった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　空調で均一に整えられた空間が、天井にあるファンでゆっくりと撹拌されている。微かな機械音が切れ目無く続いている以外に音を立てるものはなく、革靴の発する音すらカーペットに吸い込まれてしまう。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　だだっ広いロビーはほぼ無人だった。彼は左右を見渡して目的の掲示物を見つけると、床一面に敷き詰められた毛足の短い灰色のカーペットを進んだ。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　扉は不規則に点在し、上方に数字のプレートを掲げている。彼は二番ホールの表示の前で足を止めた。大きな四角い両開き扉の脇に簡易的な折り畳みテーブルとパイプ椅子が据えられており、黒いジャケットに身を包む女性が腰掛けている。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　彼が女性に会釈すると、彼女は両手をきちんと揃え膝の上で重ねて丁寧に一礼した。彼女は脇の紙束の上から紙片を一枚取り、テーブルに滑らせて彼に差し出す。黒いボールペンも即座に出てきた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　彼はペンを右手に取り検分する。どんな店でも買えそうなごく普通のノック式ボールペンだ。手を返して先端を手前に向ける。ペン先は既に出ている。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　彼は手を戻して必要事項を記入した。フリーピアノ貸出票。住所、氏名、年齢、職業、演奏歴。彼は最後の来館動機の項目に丸を付け、少し迷ってからペン先をそのままにテーブルへ置いた。紙片を逆に回して女性に差し出す。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ありがとうございます。整理番号は九番です。中の係員にお渡し下さい」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　代わりに出てきたのは小さなプラスチック製のプレートだった。白くのっぺりした楕円形に、黒い文字で9と書かれている。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ありがとうございます」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　彼は礼を返してプレートをポケットにしまい扉へ向かった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　木製の大扉は艶めいた深い茶色で、中央には湾曲した真鍮の長い取っ手がある。彼は右側に手を掛けた。ひやりとした感触には無数の擦り傷が様々な方向に巡っており、とうに本来の輝きは失われている。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　温度と明度が一段階落ちる。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ダウンライトが一つきりの小部屋の奥にはもう一つ同様の扉がある。彼は再び右手を伸ばし、徐々に力を込めて手前に引いた。かなりの重量にもかかわらず一切の抵抗なくスムーズに彼を招き入れた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　その光景に、彼の視線はある一点でピン留めされた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　前方から真っ直ぐにこちらへ伸びた細長い上り階段が、彼の背中の中心を辿って駆け上った。ゆっくりとした呼吸に合わせて、身体の奥がざわりと蠢いて全身の皮膚を震わせる。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　眩いライトが前方上空から照射され、薄暗がりの奥だけを横長の長方形に切り離している。その中央に、黒いそれはあった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　幾度目かも分からない息を吐き出し切った拍子に、手の中から鞄が滑り落ちそうになった。彼は辛うじて指先をフックにしそれを食い止め、一段目へ踏み降りた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　通路の両脇にずらりと並ぶ無数の椅子が沈黙の波を割る。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　この階段も隙間なくカーペットで埋められている。彼は前方に焦点を合わせたまま、意識のみを記憶に傾ける。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　最後にこういった場所を訪れたのはいつだったか。小学生の頃のスクールの発表会か、中学生の頃のコンテストか、母親のコンサートか。思い当たる記憶の後端は酷く茫漠としており、曖昧な境界の先は音楽室と部室とジャズ喫茶の鮮明な光景が占拠するばかりだ。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;最後の段に到達したところで彼は初めて係員に気付いた。舞台袖の小さな階段の下に立ってこちらを見ている。会釈をして歩み寄り、短い挨拶と共にポケットのプレートを手渡し、ステージに上がった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　煌々とした舞台でその一部分だけが際立った存在感を持って彼を迎えた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　確かめるまでもない、完璧なグランドピアノ。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　黒いボディは隅々まで磨き上げられており、細かな光彩を放っている。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　その陰で椅子に腰掛けていたのは、母だった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　微かな機械音が次第に曖昧になり、消失した。早まりそうになる足を懸命に堪えて彼は一直線に向かい、その空席を確かめた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　椅子を引く。腰を下ろす。足を定位置に据える。光る床面はその一挙手一投足を拾い上げて響かせる。ルーティンの鋭い呼吸すら別人のものに変えるさまに、指先が跳ねる。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　静かな予感が走った。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ラフマニノフ　エチュード「音の絵」Op.39-2 海とかもめ。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　鍵盤は燃えるようだった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　神々しさすら湛えていた黄金色の照明は一転して無慈悲に象牙色を焼き、乱反射した光の粒が目を射る。それでも冷たいさざ波を起こさなければならない。そのさざ波は繊細でなければならない。彼は全神経を手指に集約させ力を制御しながら、注意深く鍵盤を撫で波間を揺らがせる。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　一滴が広げる波紋のように、僅かなタッチの差が幾重にも増幅され鳴り響く。指先から伝える意思の一切が、寸分の狂いもなく吸収され反芻され形となって拡大していく。呼吸すらも音色として取り込まれそうな錯覚に彼は口をつぐみ、淡々と規則的に左手を動かしながら旋律をなぞる。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　次第に弦が呼び始めた。早く次を。呼応が応酬へと変容する。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　楽譜通りに正確に弾く意思を許容しながら否定され、期待されていく。彼は急かす声に抗いながら鍵盤の上の譜面を追う。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　極光には暗礁を。暴風には波濤を。支配されるのはどちらなのか。あるいはどちらでもないのか。無機の根底が巻き起こす渦に彼は雷鳴を振り翳す。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　右手をしなやかに往復させて波の形を変え、一定のリズムで空間を広げていく。遠ざかる雷鳴に混じって高い鳴き声が聞こえた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　再び彼は左手をひたりと白鍵に這わせた。最後に数度和音を重ねて静寂を呼び戻し、右手をそっと引き上げる。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　もう、眩しくはなかった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Sun, 25 Apr 2021 19:50:50 +0000</pubDate><guid>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/20300634</guid><dc:creator>h</dc:creator><category>対話シリーズ</category><category>桜シリーズ</category></item><item><title>花の舞</title><link>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/20300612</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;(対話シリーズ②)駅ピアノを弾く輝之進。鍵盤シンメ少し。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「対話」の続編のようで少し違う。ふんわり別軸。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　遠ざかる黒い背中を、私は口紅の広告が掲示された柱の陰からじっと見つめていた。人ごみから頭ひとつ抜け出た長身が小さくなって見えなくなるまで。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　彼が後にした空席の周りには何人か知らない人達が立っている。その人達は顔を見合わせ、手を広げたり首を振ったりして何事か話をしていた。私は髪に手櫛を入れて整え、背筋を正してまっすぐにその方向へ歩き出した。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　正直、彼の演奏はあまりはっきりとは聴き取れなかった。このヒールよりもずっと大きな音が出せる楽器なのに。彼のことだからきっと原曲に忠実に弾いたのだろう。場所がガラッと変わるんだから演奏だって変えちゃえばいいのに、相変わらずクソがつくほどの大真面目な堅物だ。でも選曲は彼にしては悪くなかったと思う。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　近付く私に気が付いて、みんながこちらを向いた。半分くらいの人が少し後ずさりする。慣れた光景だ。昔に比べれば。今日はサロンのために気合を入れて高いヒールにしたんだから当然だ。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　私はいつもよりちょっとだけ低い椅子を見下ろした。どこにでもある平凡なアップライトピアノ。でも、パッと見て何となく弾きにくそうだと直感した。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　視線が伝わってくる。私はぎゅっと両の拳を握ってから強く息を吐いて手を開いた。ロングスカートを巻き込まないよう手を差し入れながらサッと腰掛ける。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　椅子の高さがバッチリなのが小憎らしい。でもありがたい。私は一度目を閉じ、表情を描き変え、目を開けた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　エレガントに力をかけようとした指に黒鍵が抵抗した。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　重い！　あいつこんな鍵盤で弾いてたの！？　いや違う、重いからあんなに辛気臭い曲にしたんだわ！&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　私は自分の選曲を後悔した。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ショパン。子犬のワルツ。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　よりによって何でこんな可愛くて速い曲にしたのよ。可愛いからよ。いつだって私は弾きたい曲しか選ばない。今日は子犬のワルツの気分だった。それだけだ。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　サロンで塗り替えてもらったばかりの白い爪に火がついた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　何となく思い付いて、私はちょっとだけ姿勢を前にずらした。限界まで速く弾いてみたり、これでもかと目いっぱい溜めてみたり。子犬なんだから転んだっていいでしょう。うまく走れない鍵盤ならこうしてやるわ。人間ヒールでも走ろうと思えば走れるの。舐めないで。今日は八センチよ。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ここはコンクールじゃない。ただのいつもの駅に、たまたま平凡なピアノがあっただけ。それだけなんだから。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　鍵盤の上で小さな花びらのようなピンクのホロがきらきらと舞っている。気持ちが良い。ピアノを弾いてこんなに心が躍ったのは久しぶりかもしれない。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　こんなものかしら。ううん、上出来。すごく。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　私は顔を上げて肩で息をした。いつの間にか周りの人はさっきの倍くらいになっていた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　拍手と笑顔と言葉。私は咄嗟に口元を右手で覆って顔を背けて、それから両手で乱れた髪に手櫛を入れた。急いで立ち上がり、さあ次の方どうぞと椅子を引く。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　私の出番はもうおしまい。ここはそう振る舞うべき場所だ。私は鍵盤に背を向けた。すると、&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「あの」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　学ランに身を包んだ小柄な男の子がおずおずとこちらを見上げている。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「その……お姉さん、爪が綺麗ですね」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ありがとう。嬉しいわ」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　私は今日一番の笑顔で答えた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Tue, 23 Mar 2021 19:48:48 +0000</pubDate><guid>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/20300612</guid><dc:creator>h</dc:creator><category>対話シリーズ</category><category>桜シリーズ</category></item><item><title>対話</title><link>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/20300568</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;(対話シリーズ①)日常における非日常。抽象的。調査0の曲解釈。モブ少し(恋愛描写なし)。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;駅ピアノネタをお借りしました。ありがとうございました。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　箱の中に流し込まれた無数の豆が、ゆったりとした僅かな傾きの中でざあざあと音を立てているようだった。生命が起こす不定形な波打ち際のようでいて、限りなく人為的で人工的なものだった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;span style=&#34;-webkit-text-size-adjust: 100%;&#34;&gt;　だだっ広い構内に鎮座したそれは、彼にとってあまりにも馴染み深く、だからこそこの場には相応しくないものだ。しかし周囲を歩く人々がそれを意に介している様子はない。そこにおかしな物などないかのように、あるいは元からそこには何もなかったかのように速足で通り過ぎていく。確かにここは本来何もないただの駅の通路なのだから間違ってはいないのだが。&lt;/span&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　疑っていた目が釘付けになり、確かめようと歩み寄る足がその場に縫いとめられる。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;初めは脇を通る人間のうち何人かがぶつかりそうになり、怪訝そうな顔をした。だがすぐに彼もまたそこにある物体のように、元から何もなかった存在と化した。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　眼前を行き交う往来の向こうで、その黒い箱はただ黙して透明な誘いの霧を周囲に滲ませている。それは待っているのではなく、分かる者にだけ分かるある種の暗号だった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　霧が瞬く間に収束し、彼だけに向けて放射される。全ての選択肢が消え去り、風景は箱と彼だけになった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　まばたきの中に、かしゃりとシャッターが押された瞬間の液晶画面のように、一瞬だけ男の姿が見えた。指で素早く画面をなぞった時のように次々と譜面が現れ、無数のイントロが早送りで切り替わっていく。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　靴音が響くことはない。聴こうとする者はおろか見ようとする者もいない。それでも、無音の呼び声に選ばれてしまった。何をもってしても切り離せない細い糸が伸びてきて胸の奥の小さな穴を通り抜け、結ばれた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　蓋にそっと手をのせる。箱の向こう側で流れる小さな影のいくつかが次第に澱んで、じいっとこちらに視線を投げかける。彼は努めて意識しないようにして指先を縁に掛けた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;それは彼の人生において最も慣れ親しんだ蓋だった。にもかかわらず、今までに一度も感じたことのない滑らかさと生温かさがあった。彼は持ち上げた蓋の先に刻まれたアルファベットを見やり、そこで初めて全貌を確かめた。ごくごくありふれたアップライトピアノだった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　椅子を引いて腰掛ける。床が変わるだけでこうも感覚が変わるのか。彼は二度の座り直しを余儀なくされた。この世で彼に安らぎと快い緊張をもたらしてくれる最たる場所のはずが、ひどく落ち着かない。吸い込んだ息の猥雑さに顔をしかめる。それでもルーティンをこなさずにはいられなかった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　鈍く光る鍵盤に指をのせる。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　吐き出した鋭い息が紛れて消えるのに合わせて、彼はいつもより僅かに早く踏み切った。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　一音目を静かに押し込む。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　フランツ・リスト。暗い雲S.199。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　放たれた音の小ささと響きのなさに彼は愕然とした。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　批評や採点はない。なのに重々しく垂れ込め周囲を取り巻くこれは何なのだろう。彼は自問への自答を諦め、左手の和音をさざめかせる。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　次第に雑踏のざわめきが遠のいていく。自分とピアノだけが周囲から切り離され、独立した一つの物質になっているような錯覚に陥る。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　彼は灰色の和音を投げかける。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ここはアウェーでもなければ戦場でもない。なのにこの場所で頼れる者はただ一人の己とこの物言わぬ黒い箱しかいない。その当然の事実が彼を追い詰める。しかし静かなホールで弾く時とは全く違う奇妙な一体感が、覚えのない高揚に変わって薄らと胸の底を浸した。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　右手の音階が少しずつ高度を上げ、暗雲にか細い手先を伸ばしていく。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　最後の白鍵から音が消えても、彼はなかなか指先を離せずにいた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　しばらく経って胸の奥の糸がふつりと切れた。急速に辺りの風景が動き出し、ざあざあと豆の擦れるような音が戻り出す。そこで彼は額に右手を当てて俯き、はあと呼吸をした。冷え切った指先に一向に熱が戻らない。なのに身体の芯は酷く熱く、喉の奥が渇き切っている。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ぱちぱち、と波の弾ける音に彼はやっと顔を上げた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　くたびれた帽子をかぶった初老の男性が、うんうんと頷きながら手を叩いている。ネクタイを緩めた男性、派手な髪の女性、穴の空いたジーンズの男性。その誰もが、黒い椅子に呆然と腰掛けたままの彼に思い思いのささやかな称賛を送っていた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　彼は背もたれに体重をかけてゆっくりと立ち上がり、一人一人に頭を下げた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　それが終わったのを見計らって、温かな言葉の中から杖をついた年配の女性が歩み寄ってきた。彼女は白髪混じりの頭を上げ彼に一言二言声を発すると、皺の目立つ手を持ち上げ幾分高いところにある彼の肩をぽんと叩いた。彼は目を丸くして数秒呆気に取られていたが、彼女が黒い椅子に杖を引っ掛けて置き、覚束ない足取りで座ろうとしているのに気付き慌てて手助けをした。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　彼女の目配せに彼は黙って頷いて背を向けた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　雑踏に埋もれていくピアノに耳を傾けながら、彼は出口に向かった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Tue, 23 Mar 2021 16:02:07 +0000</pubDate><guid>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/20300568</guid><dc:creator>h</dc:creator><category>対話シリーズ</category><category>桜シリーズ</category></item></channel></rss>