<rss version="2.0" xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/" xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/" xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"><channel><title>メイン | log</title><link>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/categories/4901416</link><description>メインの一覧</description><atom:link href="https://smaltshobo.themedia.jp/rss.xml?categoryId=4901416" rel="self" type="application/rss+xml"></atom:link><atom:link href="http://pubsubhubbub.appspot.com/" rel="hub"></atom:link><item><title>[25]作品という広大な宇宙に比べれば、僕らは所詮ちっぽけなオタクにすぎない</title><link>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/38174322</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;オタク度500%の新とロラン。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;自分が今めちゃくちゃ読みたいものを書いた結果、新は暴走し、ロランの神性がログアウトしました。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;※解釈違い多発の可能性大&lt;/div&gt;&lt;div&gt;※作中のアニメタイトルは全部パロですが、元ネタはわからなくても大丈夫です&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「なななな鳴海くーーーーん！！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　突如、部室の引き戸がものすごい勢いで全開になった。疾走した扉が枠に激突し、雷のような轟音を上げる。その衝撃でガラスも揺れ、甲高い音が響いた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　どうしよう、と僕は考えてしまう。これだけの音だ。校舎中に聞こえているかもしれない。下手したら先生がひとりふたり飛んでくる。そうなれば、またジャズ部かと言われるのは目に見えている。問題行動を起こしているつもりは全くないのに。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　僕らはただジャズを楽しみ、その喜びをみんなと共有しようとしているだけだ。もしルールを破れば星屑旅団の評判は下がり、喜んでくれる人も減ってしまう。だから僕は定期的に生徒手帳を読み返している。すみずみまで。部活説明会のステージだって校則の範囲内だ。どうもこの学校には頭の固い教師が何人かいるらしい。多少派手な演出だったのは認めるけれど、意表をつかれて驚いたのを八つ当たりに変えるのはいただけない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　日本という国は大好きだ。でも、教育の現場はちょっとだけ窮屈に感じてしまう。ただそれはそれで型を破る楽しみができていいのかもしれない。もちろんルールの許す限りで。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　そういえば、さっきの音。マンガの擬音で表現するなら何だろう。『バーン！！』だろうか。『ピシャーン！！』だろうか。僕は改めて少し考え込んだ。うん、きっとどちらも違う。『ガラガラッ！　ズバアアアン！！』だ。引き戸が下敷きみたいにしなってる感じの絵だ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　しまったな。先生への言い訳を考えるつもりが。まあ、アドリブでどうにかなるだろう。このくらいじゃ僕は折れないし、理解のない人間に星屑旅団の名を汚させるつもりもない。僕は気持ちを切り替えて新を見つめた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　新は引き戸を開けたっきり、部室の入り口から一歩も動かない。ひょろりとした上半身を大きく上下させながら、ぜえ、はあ、と体で息をしているだけだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　新がそこまで血相を変えるなんて、一体何があったのだろう。よほど困ったことか、慌てるほどいいことのどちらか……。もう少し待ってみようかな。いや、直接聞いてみたほうがいいかもしれない。そのほうが新は喜びそうだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「新、どうしたんだい。そんなに慌てて」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「はあ、はあ、な、なるみく、あのね、とんっっでもないことになったんだよ！！　どうしよう！！　もうだめかもしれない！！　あーーーー！！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　うわずった叫び声が天井を突き破る。その瞬間、僕の頭の中にイメージが湧いた。深夜の暗い部屋。PCに向かって編集に没頭する新、その画面が突如ブルースクリーンに襲われ……。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「新……それは本当に辛かったね」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　見当をつけて新に優しく声をかける。新は先週から編集の追い込みに入っていた。手伝おうかと声をかけても、神の手をわずらわせたくないと首を振るばかり。本人にもPCにも相当の負荷がかかっているのは簡単に想像できる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　そんな僕の予想通り、新は今にも泣きだしそうな顔で叫んだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そうなんだよ鳴海くん！　これからどうしたらいいと思う！？　『ジュジュの奇天烈な作戦第八部〜断崖と海〜』二期が十月からって！！　早すぎるよね！？　分割二クールでやるとは言ってたけど二クール目がいつからとは明かされてなかった！　クオリティがすごいぶん時間がかかるんじゃないかってみんな言ってたよね？　だから俺も原作を読み返しながらゆっくり待っとこうと思ってたのに、十月のアニメどうなってんの！？　おかしいよね！？　『ノコギリウーマン』に『転生しても僕でした』に『スパイスファミリア』と『彼女のヒロインカレッジ』だけでも無理なのに、最近『アイドルエイト』と『強がりサイクリスト』も決まったし、そこにジュジュ八部だよ！？　時間が足りるわけないよ！　一日を二百四十時間にしてくれないと俺は死んじゃうよおおおお鳴海くううううん！！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　新はくしゃくしゃの髪を振り乱し、長い両腕をバタバタさせたかと思うと、断末魔のような金切り声を上げた。そしてその場に崩れ落ち、むせび泣き始めた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　新を助けないと。僕の頭の片隅で誰かが叫んでいる。なのに僕の体はピクリとも動かない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　新は今……何て？&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ブルースクリーン……違う。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　一日を二百四十時間に？　いや、もっと前だ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　『ジュジュの奇天烈な作戦第八部〜断崖と海〜』二期が？　十月に？　制作は気でもふれたのか？　それともテレビ局が無茶ぶりしたのか？　理解できない。断崖と海の二期をこのタイミングでねじ込むなんてどうかしている。大体、ジュジュの出版社は『スパイスファミリア』と『ノコギリウーマン』と同じ翔栄社じゃないか。一クールずらす手もあっただろうに。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　いよいよ本気を出してきた、ということだろうか。あそこは昔からの大手。けれど紙媒体にこだわらず新規開拓も惜しまない。特に最近のマンガアプリの伸びは目覚ましい。予算も相当潤沢と見た。その気になれば力押しもできる、ということか。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　となると当然クオリティが不安になる。相当外注に頼ったのだろうか。個人的にはクオリティが高ければ外注でも何でも構わない。けれど、一期が予想を遥かに上回る出来だっただけにどうしても懸念はしてしまう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　いや、問題はそこじゃない。これじゃ十月の僕のスケジュールが完全に圧殺されてしまうじゃないか。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　僕がジュジュを一話見るごとにどれだけのエネルギーを奪われているのか公式は分かっていない。原作を何周読んでいたってアニメは別ものだ。生命を吹き込まれ、目に光を灯し、言葉を紡ぎ、躍動する。そんな彼らを見た瞬間の僕は、初見のように、もしくは初見以上の熱い喜びに全身の血液が爆発してしまうのだ。そして彼らが喋れば喋るほど僕は言葉をなくし、ただ彼らの一挙手一投足を目に焼きつけるだけの存在になる。いや、そうじゃない。もはや存在ですらない。僕はその場に存在していない。ある種、空気のようなものに形を変えているのだ。そして僕は彼らが想像を絶する苦境に立たされてもなお希望を捨てず知恵をめぐらし力を合わせ命を賭して、しかし賭しはしても生きることに強い憧れを抱きながら戦い続けるさまにどうしようもなく打ちのめされ、心を破壊され、超常的な感覚に支配され、自分が何者なのかを忘れてしまう。それがジュジュの全てであり、一端だ。そんな作品をあの十月に放り込むなんて誰が考えたのだろう。担当者を呼び出してくれないか。ここに。今すぐ。そして一月開始にしてくれと頼みたい。人の命を何だと思っているんだ。分かっていないなら分からせてやる。分かった上でやっているのだとしたら……僕は試されているのだろう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　なら話は簡単だ。見せてやろう。そして成し遂げよう。彼らが強大な敵を打ち倒し、山脈を攻略し、荒れ狂う海を越え、絶海の孤島へ乗り込んでみせたように。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　心臓が脈打ち、胸の中と頭の中が一本の線で繋がる。砕ける波の音が満ちて、まぶたに一つの映像が流れ出す。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　「世界一不吉な女」樹海ヶ原樹里(じゅかいがはらじゅり)と、「世界一縁起のいい男」寿文字寿限無(じゅうもんじじゅげむ)。呪いの血脈と襲い来る戦いから一歩も引かない彼らが、第八部一期最終話、自らの運命をも武器にして文字通り全てを賭けたときのことを。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　――寿限無。最後に聞いて。私はずっと君が羨ましかった。君といると私はどこまでも不運で不吉でみじめな女だって思い知らされる！！&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　――そうだろうね。でも樹里。君は知らないだろうけど、一つ教えよう。良いことしか起こらないって実はすごく退屈なんだ。だから俺は今が最高に楽しい！　こんなところで君に死なれたら困るよ！　もっと俺に不吉をよこせ！！&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　気づけば僕の心臓はあの激闘を見届けたときのように暴れていた。胸に手を当て、深呼吸を繰り返す。彼らが命からがら敵を撃破した時のように。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「新。一日を二百四十時間にはできないけど、スケジュールを前倒しにすれば余裕は作れる。理想は今月末までに今やってる一曲と動画一本を仕上げて、ハロウィンとクリスマスのチャンネル動画も内容と構成まで決めてしまう。文化祭の曲決めはみんなに事情を話して一週間繰り上げ。十月からはなるべく練習一本に絞ろう」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　タブレットのロックを解除し、旅団メンバー共有のスケジュールアプリを開く。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「鳴海くん……！　神だよ、本当に鳴海くんは神様だ……！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　新はふらふらと立ち上がり、僕の向かいの席に座ってスマホを取り出した。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「神は公式だけだよ。ところでジュジュ一話の最速配信日はいつかな」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「十月一日の深夜二十四時……えっと、日付変わって二日になる時だね」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「…………早いな。正気かい？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「正気じゃないからこうなってるんだよ！！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「それもそうだった。じゃあ相当詰めないとまずいね。新の進捗を教えてほしい。手付かずのところは僕が代わろう」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「鳴海くん……ありがとう！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「こちらこそ。僕にも頑張らせてほしい。配信翌日を練習休みにするためにもね」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……ねえ、それ初耳なんだけど？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「あっ…………天城くん！？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　僕らが没頭しているあいだに、輝がいつの間にか来ていたようだ。輝は開けっぱなしだった部室の入口で腰に手を当て、冷ややかにこちらを見ている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ああ、ごめん輝。いま思いついたんだ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　輝は、ふうと息を吐き、お取り込み中ごめんなさいねと言って部室に入ってきた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「いいわよそれくらい。今まで何度もあったことだし、今更驚かないわ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ありがとう。迷惑をかけるね」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「何よ急にしおらしくなっちゃって、らしくもない。スケジュールを前倒しにするんでしょ？　ならしっかり働きなさい。紅茶くらいは入れてあげるから」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　輝の優しさが、それこそ深夜に飲む紅茶のように温かく胸に広がる。ああ、僕はこんなにも恵まれている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　……今日の練習は輝に任せてもいいだろうか。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Sat, 15 Oct 2022 11:01:09 +0000</pubDate><guid>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/38174322</guid><dc:creator>h</dc:creator><category>メイン</category></item><item><title>[24]続・私は看板猫である</title><link>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/38154258</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;フォロワーさんのツイートから設定をお借りした、[11]私は看板猫である　の続き。単品でも読めます。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;今日がコーヒーの日でおとといが招き猫の日だったと知り、耐えきれず続きを書きました。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　私は看板猫である。実は名前もある。けれど、それを知らない人はたくさんいる。私を名前で呼ぶのは、ご主人とその家族。アルバイトの人たち。常連――の中でも達者なお客。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　いかんせん、店も古ければご主人もなかなかの歳。常連のお客もそこそこの歳だ。予定があるのにうっかり長居してしまったり、お釣りをもらわずに帰ろうとしたり。忘れ物だってしょっちゅうだ。私に比べればお客の頭はずっと大きい。でも、何かを覚えておくための場所は、見た目よりもずいぶん小さいのかもしれない。猫の名前をねじこむ余裕はないのだろう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　それでもいい。ここはただの喫茶店で、私はただの猫。ご主人に拾われた雑種だ。もともと名前なんてついていなかった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　キッチンからガリガリと豆を挽く音が聞こえる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　始まった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　大きな音に、耳の後ろの毛がぞわっとする。急いで店の奥に走り、ピアノの鍵盤の下にもぐり込む。今日は天気がいい。ピアノの黒い板は窓から入ってきた日の光で温まっている。体をぺたりとくっつけると、ほかほかしてほんの少し気が紛れる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ざらざらざら。がりがりがりがり。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　今日はなかなか終わらない。耳をたたんでにらみつけても、ご主人はお構いなし。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ニャアン。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　お湯をかける時はいい香りなのに、どうしてコーヒーはこんなに難しいのだろう。早く誰か来てコーヒーを注文してくれないかな、と顔をこする。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　すると、ちょうどドアが開いてベルが鳴った。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　カランカラン。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「じいちゃんただいまー！　今日練習していっていいかな。みんなもいるんだけど」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「おかえり。構わないよ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ありがとじいちゃん！　よーし今日もやるぞー！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ありがとうございます」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「よろしくお願いします」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　張り切る翔琉くんに続いて、同じ制服の高校生たちがぞろぞろと入ってきた。いつもの人たちだ。あまりにしょっちゅうくるので、小さな頭の私でも覚えた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　SwingCATSという集まり。スイングする猫、という意味らしい。私のことかな、と思ったけれど多分違う。私はスイングしない。もしかしたら尻尾が揺れてるのかもしれないけれど、多分翔琉くんはそこまでこっちを見てはいないだろう。SwingCATSはいつも真面目で、夢中なのだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「いい演奏聴かせてやるからな！　寝るなよ〜？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　翔琉くんが近づいてきて私の背中を撫でる。他の人たちも何人かやってきて頭や背中に触っていった。大きな手、細い指、色々。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　お前は招き猫みたいだな、とご主人は私に目配せをした。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　私は看板猫である。招き猫ではない。でも、ご主人にそう言われると悪い気はしない。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Sat, 01 Oct 2022 11:38:14 +0000</pubDate><guid>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/38154258</guid><dc:creator>h</dc:creator><category>メイン</category></item><item><title>[23]妻と僕の間の悪魔的暗示ととある見解</title><link>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/33472940</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;はあ。私はため息をついた。どうしたら村◯春樹構文の燎父が見られるのだろう。何か謎めいた魔法でも振りかかればあるいはと思えるのだが、現実にはカボチャを馬車に変える魔法使いなど現れはしないし、村◯構文を操りながら妻と愛を語り合う燎父の話も存在はしないのだ。やれやれ。私は書いた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;――そんな堂嶌夫妻。燎不在。私が読みたかっただけシリーズ。再現度はお察し。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　僕は、ジャガイモをフォークで四つに割ってスプーンに持ち替え、口に運ぶ。スプーンでなければ崩れてしまうほど、妻の作るポトフのジャガイモは決まってよく煮えているからだ。コンソメスープは世間から見たらだいぶ薄味な気がするが、僕ら家族にはちょうどいい。僕、妻、息子の燎、妻の母。その四人。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ジャガイモもコンソメスープの味も、恐らく妻が狙って仕上げた訳ではない。大方、頭の中がピアノでいっぱいで火にかける時間を計算する余地もないのだろう。コンソメスープもそうだ。妻にとっては、キッチンタイマーよりも、軽量スプーンよりも、ピアノのハンマーのコンディションの方が遥かに大事なのだから。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　僕は一度、煮る時間と同じ長さの曲を頭の中で鳴らせばいいじゃないかと言ったことがあった。けれど妻の答えはこうだった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「あのね。悪魔的暗示の気分の時に軍隊行進曲を聴けって言われたらどう思う？　私は気が滅入っちゃう」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　全くもってその通りだった。ピアノを弾けない僕でも、悪魔的暗示の気分の時に軍隊行進曲を流されたら辟易してしまうだろう。シェフを呼びたまえ、といらいらしながら口元をナプキンで拭く嫌味な中年の客の気持ちが今なら分かる。分かったところで僕はシェフを呼びはしないし、じっと我慢して軍隊行進曲を聴くのだろうけど。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　やれやれ。僕はキャベツを食べる。やけに大きい。くたくたになっていなかったら、きっと一口では食べきれなかっただろう。僕の提案を拒否し、頭の中で好きな曲を流すことを選んだ妻は英断だったのだ。これで彼女は心置きなくコンサートのイメージトレーニングに集中できるし、突然の軍隊行進曲に調子を狂わされることもない。僕は薄味のコンソメスープが染みた柔らかいジャガイモとくたくたのキャベツにありつけるという寸法だ。実によくできている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　具体的に言うと、今の僕の気分は悪魔的暗示ではなく、スケルツォ第2番変ロ短調なのだが、それにしても。妙に静かだなと僕はスプーンを置いて正面を見た。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　妻のポトフはほとんど減っていない。せっかく焼いてくれたフランスパンも手つかずのまま。彼女は乾いたフォークを手に、テーブルの真ん中の辺りをぼうっと眺めている。彼女の首だけが何か別の生き物のように、メトロノームの機械的な感じとはちょっと違う、しかし規則的なリズムでゆらゆらと左右に揺れている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　これは本気で弾いているみたいだ。僕はウインナーソーセージをフォークで刺した。それはテレビのCMのようなパリッとした音を上げることはない。案の定だな。僕は旨味の抜けたウインナーソーセージをかじった。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Tue, 29 Mar 2022 17:39:39 +0000</pubDate><guid>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/33472940</guid><dc:creator>h</dc:creator><category>メイン</category></item><item><title>[22]本当の願い</title><link>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/27920771</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div class=&#34;&#34;&gt;SC初期メンカルテットの初詣。大みそかの翔琉の話「走り続ける」の続編にあたりますが単品でも読めます。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;前作は&lt;a href= &#34;https://smaltshobo.themedia.jp/posts/24726473&#34; &gt;こちら。&lt;/a&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div class=&#34;&#34;&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class=&#34;&#34;&gt;「よーっす！　ごめん、遅くなった！」&lt;/div&gt;&lt;p&gt;　駅の出口からシャリシャリとダウンジャケットの擦れる音がリズミカルに鳴る。手を振りながら駆け寄る翔琉に、&lt;/p&gt;&lt;p class=&#34;&#34;&gt;「おせーぞ」&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「遅い。また大遅刻かと思った」&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「せめて連絡をしろ」&lt;/p&gt;&lt;p class=&#34;&#34;&gt;　と三人の声がズレて重なる。&lt;/p&gt;&lt;p class=&#34;&#34;&gt;「ごめんごめん！　お正月なんだからちょっとくらい大目に見てくれたっていいだろ？　あけおめ～の一言だけでよくないか？」&lt;/p&gt;&lt;p class=&#34;&#34;&gt;「それは夜リョウの誕生日祝いと一緒にチャットで言っただろ。それに前科持ちに厳しくするのは当たり前。夏のジャズコン、忘れたとは言わせないから」&lt;/p&gt;&lt;p class=&#34;&#34;&gt;　苦笑い混じりの翔琉を優貴がすぐさま封殺し、真っ白なため息でとどめを刺した。優貴はチェックのマフラーを締め直し首元に押し当てる。その手はふわふわした厚い手袋で包まれている。ニットで覆われた耳当ても着けており、完全装備といった装いだ。&lt;/p&gt;&lt;p class=&#34;&#34;&gt;「毛玉に言われてもな」&lt;/p&gt;&lt;p class=&#34;&#34;&gt;「は？　寒々しい格好のお前に言われたくない」&lt;/p&gt;&lt;p class=&#34;&#34;&gt;　コンマも間を置かず、優貴は光牙をぎろりと睨みつける。&lt;/p&gt;&lt;p class=&#34;&#34;&gt;「人の格好にケチ付けんなよ。寒くねえし。気合いでどうにかなんだろこんくらい」&lt;/p&gt;&lt;p class=&#34;&#34;&gt;　光牙は何食わぬ顔で優貴を見下ろしている。両手をポケットに突っ込んでこそいるものの、着ているのはブルゾンと、昨晩雪の舞うほどだった冷え込みにしてはいささか心もとない。スヌードを無造作に被っただけの首まわりには隙間が空いている。指摘されるのはもっともだろう。優貴は厚い前髪の下でさらに顔つきを険しくしていく。&lt;/p&gt;&lt;p class=&#34;&#34;&gt;「正月早々相変わらずだな」&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「確かに！」&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「こいつのせいだ」&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「悪いのはお前だろ」&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　燎と翔琉の言葉に光牙と優貴は揃って主張した。そんな二人に笑って翔琉は先頭を歩き出す。その後頭部で寝癖が一房ピョンと跳ねている。記憶はあまり定かではないが、昨年の初詣も似たような調子だったような気がする。これからもこんな年明けがずっと続いていくのだろう。燎はマフラーの首元を整え三人の後について歩き出した。&lt;/p&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;p&gt;　左右に伸びた駅前の通りは右手だけ人通りが多い。元旦のまだ早い時間。店舗はコンビニくらいしか開いていない。そうなれば自ずと行き先は絞られる。みな同じ場所に向かっているのだ。高架下に沿ってしばらく進み、大通りを渡る交差点に差し掛かる頃には、信号待ちの人だかりが出来るほどだった。青信号を見とめ高架から一歩踏み出すと、白くまばゆい朝日が目を射る。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　三人の話題は昨夜翔琉が伝説のジャズトリオとセッションしたことで持ちきりだった。曲目から始まり、篠原さんのドラムはどうだったと光牙が歩きながら前のめりに食いつき、ベース不在の編成はどんな印象なのかと優貴が真剣に耳を傾ける。そんな優貴に翔琉は、今度皆で同じ曲をやろうと興奮気味に提案した。そしてしまいには、あの時のソロはこんな感じだったとエアトランペットで歌い出し、優貴に「酔っ払いか？」と怪訝そうな顔をされ光牙の爆笑を誘っていた。これには燎もたまらず笑ってしまった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　延々と続く斜度の緩い上り坂の両側に、紅白の垂れ幕がかかった出店がぽつぽつと現れ始める。早速目を光らせて物色し始める翔琉と光牙に、帰りにしろと燎はたしなめ、優貴は悪態をつく。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「結局今年も四人かあ」&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　満たされなかった両手をポケットに入れ、翔琉はしょんぼりと呟く。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「まあ、しゃーねえだろ」&lt;/p&gt;&lt;p class=&#34;&#34;&gt;「こればかりは人それぞれの事情があるからな」&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「初詣は部活じゃないし」&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　中学生の頃、翔琉が燎を誘ったことを発端にこの初詣は習慣となった。渋い顔をしながらも燎の呼びかけを断らなかった優貴に、二つ返事の光牙も加わり、優貴が喪中で遠慮した年を除けば毎年四人はこうして集まっている。高校に入学して正式な部活動が始まってからは他のメンバーにも呼び掛けたのだが、接待で自宅に缶詰めとなる大和を始め、一年生達も遠方の祖父母宅への帰省や親族の集まりなどでなかなか都合がつかず、結果として翔琉の言う通りこの面々での参拝が続いていた。それでも、深夜に日付が変わった瞬間に大部分の部員がグループチャットに顔を出し新年の挨拶と副部長の誕生日を祝うのだから、スカウトしたわけでもないのに真面目で義理堅い面々が揃ったものだと実感してしまう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　上り坂の終点が見えてきた。参道の上り階段は訪れた人々でごった返していた。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「今年ちょっと混んでる？」&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　翔琉は足を止め顔をしかめた。階段の先を見上げても行列の切れ目は見当たらない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「カケルが遅刻したからだろ。いつもの時間ならもうちょっと空いてたんじゃないか？」&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「それはさっき謝ったじゃん！」&lt;/p&gt;&lt;p class=&#34;&#34;&gt;「そうだぞ優貴。あんまりカリカリしてっとご利益なくなるんじゃねーの」&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「うるさい。それはお前が決めることじゃない」&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「そーそ、怒らない怒らない。安らか～な心でお参りしないと」&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「お前はもうちょっと反省しろ！」&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　へらりと笑って手をひらひらさせた翔琉に優貴が噛みつく。動き出した行列に気付いた光牙はさっさと先を行き、一段飛ばしで石段を上り終え最初の鳥居で会釈する。燎も続いて歩を進めた。林の向こうからお焚き上げの煙が漂ってきて、参拝者たちの白い息と重なる。二つ目の鳥居をくぐり、手水舎で清めを済ませれば本殿はもう目の前だ。&lt;/p&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;p&gt;　砂利を踏む音が辺りを埋め尽くす。澄み切った薄い色の空を、左右に広がる本殿の屋根が一直線に切り取る。吸い込んだ息は鼻の奥が痛みそうなほどの冷たさ。しかし、それすらもどこか快さを覚えるような風景だった。これだけの人が詰め掛けていても、この場所の空気は淀むことを知らない。&lt;/p&gt;&lt;p class=&#34;&#34;&gt;　燎は三人の会話に相槌を打ちながら、願い事を一つに絞ろうとしてずっと考えを練り直してきた。だがどれもしっくりこない。どんなに努力を重ねても、自力ではどうにもならないことは確かに存在する。しかもそれは一つや二つではない。自分に出来ることが増えればやりたいことも増える。人脈が広がれば懸案も増える。神前で欲張るつもりは毛頭ないが、願望というものは細かいことも含めるとそれこそきりがない。しかし、最後の石段に足を乗せ、いよいよ雑踏の隙間から賽銭箱が垣間見えた時、燎はすっと頭が冷えるような感覚に包まれた。途中の計算式を一足飛びに越えて正解が見えたかのように、これだという答えが一つ浮かぶ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　途切れのないざわめきの中で賽銭箱に小銭を投げ込む。金属がカンと鳴る硬い音が小さく耳を打った瞬間、わずかな間だけ周囲の音がなくなる錯覚に陥る。柏手を打つ。もう迷いはなかった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「よーしお参り完了！　これで世界一のトランぺッター間違いなーし！」&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　人ごみを抜けて開けた休憩所の前まで辿り着くと、翔琉はガッツポーズを決めた。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「トモは毎年それだな」&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「当たり前だろ？　願い続ければいつか叶う！」&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「カケルはその前に合格祈願すべきだろ」&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「俺はしといたぞ。翔琉が卒業できますように」&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　容赦なく釘を刺す優貴に光牙が大真面目に頷き、翔琉は情けない声を上げる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「そっから！？」&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「お前はまず自分の心配をしろ」&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　そんな翔琉をよそに優貴はせわしなく振り返り、今度は光牙にも苦言を呈した。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「あ！？　余計なお世話だっつの。そういうお前は何にしたんだよ」&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「……もっと上手くなりたい」&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「んなもんお前なら絶対出来るんだから、わざわざ神頼みしなくたっていいだろ」&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　目を逸らして小声で白状した優貴に、光牙は両手を腰に当て、呆れるような励ますような調子で応じる。翔琉は光牙に合わせ、そうだぞと声をかけてから燎に向き直った。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「で、リョウは？」&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「……次の年もこうして皆で集まれるようにと」&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「そっか。……いっつも思うけどリョウは真面目だなあ！　今日は誕生日なんだから、ちょっとくらい自分中心のお願い事でもいいんじゃないか？」&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　翔琉は少し目を丸くしてからニッと笑って燎の肩を叩く。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「そうだな。じゃあお言葉に甘えて言わせてもらおう。今年はあまりお前に世話を焼かずに済むように頑張ってくれ。冬休みの課題はどうなってる」&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「あー！　耳が痛いなあ！　ちょーっと冷えてきちゃったかも。甘酒あるかな～？」&lt;/p&gt;&lt;p class=&#34;&#34;&gt;　そそくさと逃げ出す翔琉に燎は笑いをこぼし、元旦早々に小さな嘘をついてしまったことを胸中で詫びた。罰当たりかもしれないが、翔琉の言うように今回ばかりは大目に見てもらいたい。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　どうか、皆が無病息災でありますように。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　燎は先ほどの願いを反芻し、砂利を踏みしめた。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Fri, 31 Dec 2021 15:00:19 +0000</pubDate><guid>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/27920771</guid><dc:creator>h</dc:creator><category>メイン</category></item><item><title>[21]走り続ける</title><link>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/24726473</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;ルバートの年越しパーティー。翔琉をセッションに誘った意外な人。突然のピンチ。思い返した景色の中に見出すもの。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;※智川家ほか全体的に捏造。誕生日の話題ではありませんが、翔琉への応援の気持ちを込めて投稿します。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「結構降ってきたなあ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ほんとね。積もらないといいんだけど」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　玄関を出た父さんが呟いた。母さんも心配そうに鍵をバッグに入れてゆっくり一歩ずつ階段を下りる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「こういう時に実家が近所ってのはいいもんだ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　父さんは、俺と母さんが門から出てくるのを待ってから先頭を歩き出した。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　外は空と建物の境目が分からないくらい真っ暗だった。街灯の光が当たっているところにだけクリーム色に照らされた雪が漂っているのが見える。風はほとんどないけどこんな天気になるくらいだ。はっきり言って死ぬほど寒い。ぐるぐる巻きにしてきたマフラーを鼻までずらしても顔が凍ってしまいそうだった。行き先がルバートでなかったら三秒で音を上げていたかもしれない。家族三人で住む家からルバートまでは歩いて行ける距離。父さんの言う通り本当にありがたい。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　子どもの頃から、父さんと母さんの帰りが遅い日は学校帰りにルバートに直行するのがお決まりだった。じーちゃんが忙しくてもその時間には大体いつも常連さんがいて、必ずといっていいくらい誰かが俺の相手をしてくれた。歳を取っても漢字なら分かるからなどとちょいちょい宿題を見てもらっていたし、テストの結果を知るのは親よりルバートのみんなの方が先、なんてこともあった。道徳の教科書を読んだ常連さんが、俺の話の方がずっと将来の役に立つぞと得意げに武勇伝を語って笑わせてくれたこともある。今思い返してもあの話はひどかったなと思う。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ルバートが家だったら、学校だったら、どんなによかっただろう。何年もそう思いながらここまで来た。喉まで出かかった回数は数え切れない。家族も常連さんもみんな優しいから、口に出してもきっと嫌われたり叱られたりはしないと思う。そう考えると、はっきり弱音を言葉にしてしまった方がよかったのかもしれない。でも結局出来なかった。出来ないままジャズにハマって、トランペットにハマって、リョウたちと出会って、毎日夢中で走っている間に、喉につかえていたそれはいつの間にか薄くなっていった。いつまでも庭の隅に残っていた最後の雪が気付いたら溶けていたみたいな感じだった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ルバートの前に着くと、四角い窓の中が黄色い明かりできらきらしていた。その光を見ただけで、足りなかったものが内側から一気に湧いてきて何もかもが全部満たされたような気持ちになる。窓もドアもきっちり閉まっている。でも、誰がどこに座って何をしているのか、そこにどんな音楽があるのかがもうこの手の中にあるみたいにわかる。世界中のどこよりも、ここが自分にとっての本当の居場所なんだろうなと最近感じるようになった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　いつもならとっくに閉店の時間。表には貸切中の手書きの貼り紙。俺たち家族と常連さんたちの年越しパーティーだ。明日には他の親戚も集まる。それはそれで賑やかで楽しいけど、やっぱり大みそかの夜のルバートは違う。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　傷だらけのドアレバーに手を掛ける。今までほとんど無意識でやってきたことなのに、この日だけはドキドキしてしまって落ち着かない。大きく息を吐き出して氷みたいな金属をぐっと握る。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　押したドアの隙間から暖かい空気が溢れてきて、凍えた顔に吹きつけた。それまでくぐもっていた賑やかな声がぶわっと広がって鮮明になる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「おっ、きたきた！　こんばんは」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「いつもお世話になってます」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「すいません、先に頂いてます」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ちょっと古ぼけた照明、コーヒーの香りと料理のにおい、狭い店内いっぱいに満ちるジャズ。いつもと変わらない、でも一年で一番特別なルバート。今日は顔なじみしかいないから、みんな気兼ねなく声を上げて笑い合っている。普段より大きめの音でマイルス・クインテットが流れている。選曲からしてじーちゃんはかなりゴキゲンみたいだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「席はそっちに用意してるよ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ありがとうございます。すみません、お客様になるばかりで」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「いいんだよ。こっちは道楽でやってるんだから。こういう日くらいゆっくり休まないと」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　じーちゃんの笑顔に父さんと母さんは申し訳なさそうに笑い返して席に並んで座る。俺は父さんの向かいに腰掛けた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　つい癖で動き回りたくなってしまうけど、高校生は夜十時までしか働けない。もうその時間は過ぎているから、せいぜい家族としてちょっと手伝うくらいだ。働くでもなく勉強や演奏をするわけでもないただのお客さんとして座ることなんて滅多になく、毎年のことでもついそわそわしてしまう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　周りを見渡してみる。みんなのテーブルには既に料理とドリンクが行き渡っている。料理は大量に仕込んでおけるカレーと、具を挟んで焼くだけのホットサンドだけ。付け合わせのパセリもなし。空の食器はチェーンのカフェみたいに食べた人が自分でカウンターまで運ぶスタイルだ。皿洗いをしようにもじーちゃんがホットサンドを焼きながら並行してやっている。それに常連さんたちは話が盛り上がっているせいで食事の進みがゆっくりだ。キッチンの仕事は余裕があるみたいで、じーちゃんはさっきからずっとにこにこしている。どっちみち俺の仕事はほとんどなさそうだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　カウンターから三人分の料理とコーヒーを受け取って運ぶ。私服で親にサーブするのはどこか変な感じで肩のあたりにうまく力が入らない。せっかくコルトレーンのソロが始まったのにノリきれないなんて。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　高校に入ってからは放課後も休日も練習漬け。そうでなければここでバイト。家族三人で外食をするのはかなり久しぶりな気がする。熱々のカレーにふうふうと息を吹きかけてぱくりと頬張る。寒さでピリピリしていた顔にじんわりと体温が戻ってきて、チェンバースのベースが耳まで温めてくれる。ビシッと効いたスパイスに目を閉じると、マイルスとコルトレーンのユニゾンがぐるぐると体中を駆け巡り全身にじわじわと血が通い始めた。この流れで思いっきり吹き鳴らしたいような、もっとこの曲に浸っていたいような、贅沢な悩みで胸がゆらゆらしてしまう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　店内とステージを見てもまだ誰もセッションする気にはなっていないみたいだ。当然相棒は連れてきている。けれど大みそかのメインは大人たち。今日ばかりは智川さんちのお孫さんとして美味しくカレーを味わい、じーちゃんを手伝って高校生らしく振舞うのが仕事だ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　そうしてスプーンを口に運んではカップで手を温めを繰り返していると、ステージ手前のソファから男の人が立ち上がってこっちに手を挙げた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「翔琉くん、そろそろ食い終わったか？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　その無精髭を見た瞬間、カップが手からズルッと滑り落ちそうになってしまった。慌てて握りしめ、震える手でソーサーに戻す。まさか深川さんが来ているとは思わなかった。夏に話して以来だからほんの数ヶ月ぶりだけど、ここで会うのは初めてだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「えっ？　あ、はい！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　何か言いたげな父さんと母さんに、とりあえずこれ取っといてとひとこと言ってから、食べかけのカレーを置いて席を立つ。深川さんが来てるってことは木暮さんと篠原さんも一緒のはず。拳で胸をトントンと叩いて息をする。それでも全然落ち着かなくて、心臓をざわざわと波立たせるハイハットにまるで勝てる気がしない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「お久しぶりです。えっと……ご挨拶が遅くなってすみません。夏休みはお世話になりました」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「いいってことよ！　俺も楽しかった。ジャズ合宿なんて青春ド真ん中のイベント、この歳にもなったらそうそうできやしないからな。いい刺激になったってもんよ！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　深川さんは大きな手で俺の背中をバシッと叩き、こっちに座れとソファを勧めた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「せっかくの家族水入らずだというのに、いいんですかね」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　木暮さんの苦笑いに篠原さんが重々しく頷く。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「いいじゃねえの！　それはそれで夫婦水入らずってもんだ。親孝行親孝行」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ああ言えばこう言う」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ガッハッハ！　まだまだ夜は長いんだ、気楽にいこうぜ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　深川さんは豪快に笑ってホットサンドにかぶりつく。ドラムソロと一緒にザクザクッとパンの音が立つ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「それは同感ですね。今から飛ばしていたら身が持ちませんから」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　木暮さんは静かにコーヒーに口を付け、篠原さんは小さく見えるスプーンで次々にカレーを口に運んでいる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「身がもたねえ？　んなわけあるか。こんな日だからカッ飛ばすんだろうが。なあ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　深川さんは俺の肩に手を置き、ガシっと掴むように太い指に力を入れる。本当なら全身全霊でハイと頷きたい。でもさすがに遠慮してしまう。何たって伝説のジャズトリオだ。顔見知りではあってもこのトリオにとって俺は祖父の七光り。三人は実力も実績も雲の上。気軽に話しかけられるような相手じゃない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「喜良、翔琉くんが困っているじゃないですか。大の大人が怖がらせてはいけない。セッションしたいならもっと優しく誘わないと」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「はっ！　お前の回りくどい言い方のほうがよっぽど怖い。男はドンと構えてナンボだろ？　先が思いやられるぜ。せいぜい最悪の年越しにならないようにしてくれよ？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「こちらの台詞ですね。さあ、行きましょう翔琉くん。圭司もセッティングを」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「え！？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　売り言葉に買い言葉だ。深川さんと木暮さんは二人だけでとっとと話をまとめて立ち上がってしまった。ほとんど黙っていた篠原さんも実はその気だったらしく、空のカレー皿をカウンターへ片付けに行きその足で荷物置き場からスティックを抜き取った。深川さんはドスッと靴を鳴らして真っ先にステージへ足を踏み入れる。その手には黒いケース。俺も慌てて席から相棒を連れてくる。こんなに早く出番が来るとは思わなかった。しかもいきなり伝説のジャズトリオとだなんて。もう少し急いでカレーを食べてくれば良かったかな……とちょっと後悔しながら、まだ二分目の胃に手を当てる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　俺たちのやりとりに気が付いたじーちゃんがレコードの音量を落とした。他の常連さんが囃し立てる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「よっ、伝説のジャズトリオ！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「こいつは景気がいいね」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「頑張れよ翔琉くん！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　お酒は出していないのに常連さんたちはもうすっかり出来上がったみたいになっていた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ステージへの小さな段差を上る。レコードの落ち切った店内で自分の靴音がコンと小さく鳴る。たった一段。でもその一段はいつだって世界の境目みたいだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そういえば、曲はさっきのでいいよな？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　深川さんがサックスのケースを開けた。ギラついた金色のテナーが闘志に燃えている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「節目の日にふさわしい曲かと。翔琉くんが吹けるならそれでいきましょう。どうですか翔琉くん」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……一人で練習ならしてました」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　俺は正直に答えた。まだ一人でジャズをやっていた頃に何度も何度も吹いた。飽きるまでやろうと思ってやり始めたその曲は、どう吹き方を変えようが全然飽きなくて毎日吹きまくった。キレのある気持ちのいいメインから泳ぐみたいに滑り出していくソロが好きだった。他の曲の時と同じようにじーちゃんに頼めば練習相手になってくれただろう。でもどうしてもその気にはなれなかった。信じたかったんだと思う。アダレイやコルトレーンみたいに、いつかきっとソロを継いでくれる仲間が自分にもできると。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「っし、なら問題ないな。二人とも準備はどうだ？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「いつでもいけますよ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「え？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「何だ、自信ないのか？　お前なら大丈夫。あんだけ吹けるんだ。その練習ってのも相当してたんだろ？　見てたぞ、この前のアンコン。すごかったじゃねえか」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　一人だけ置いてけぼりの俺に、深川さんはニヤリと笑ってストラップを首にかけた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そうだったんですか！？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「後ろの方でコッソリですけどね」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「こいつがお前たちを買ってるのは分かった。だから怖がるな。全力でぶつかってこい。んで、いつか俺たちに追いつけ。まあ、待ってやる気なんてこれっぽっちもないけどな！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　深川さんは大口を開けて笑う。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「可愛がりたい気持ちは分かりますが、新人をいびるのもほどほどにして下さいよ？　才能の芽を潰してしまったらどうするんですか。まあ、待つ気がないのは私も同じですけどね」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……だから俺たちが死ぬまでに追いついてくれ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　穏やかに釘を刺す木暮さんに今日初めて口を開いた篠原さんが洒落にならない冗談を言って、深川さんがまた笑った。笑っていい冗談なのかは分からないけど、ほんの少しだけ体が温まった気がする。でも手だけはだめだった。爪の先まで冷たいままで、何をどうやっても痺れたみたいに震えが止まらない。篠原さんが座り直すギシギシという音や食器の音がずっと遠くに聞こえる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「出来るか」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「はい」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　どこにも逃げ場はない。ズボンの膝で手をこすって相棒を構える。息を吸い込みながら肩を大きく上げてストンと落とす。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　よし、勝負だ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　タタンッと篠原さんがスタートを切る。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　全身で音を拾って呼吸に集める。篠原さんの軽いタッチに乗せて深川さんとメインを刻む。ほんの十数秒。けれどここで一ミリでもズレたら総崩れ。プレッシャーをかき分けて合わせに行く。そこを乗り切ったら今度はそっと相棒が離陸する番。スタッカートから急に柔らかいロングトーンに切り替えるのは、分かっていても難しくて息がブレそうになる。祈りながら相棒の行き先を追う。それが終わればまた深川さんとの職人プレイ。緩急が激しい。一人で吹いていた時はあんなに楽しく流すみたいに吹けたのに、初めて深川さんたちと合わせるというだけでこんなに別物になってしまうなんて。部活での初合わせとは比べ物にならない緊張感だ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　気が遠くなるような短いメインを終え深川さんのソロが始まる。力尽きた相棒が頭から墜落しそうになるのを慌てて支える。力を入れ損ねた小指にビリッと痛みが走る。自分の演奏自体はちょっとした休み時間だけど全然休んではいられない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　深川さんが目を輝かせて大きく息を吸い込む。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　大きくがっしりした手の中でテナーが笑う。日焼けした太い指が見せつけるように高速で動く。高音が唸りながら拳のように突き抜けて店の空気を手当たり次第になぎ倒していく。抜群のキレと堂々とした力強さ。絶対の自信。これがジャズじゃなかったら戦争に勝った将軍だ。あまりにも清々しくて悔しいという気持ちが全然湧いてこない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　こんなに派手なソロをぶっ放されても、木暮さんと篠原さんは引っ張られずに自分たちの演奏を続けている。篠原さんは無表情でハイスピードのリズムを淡々と取り続けている。軽いのに全く揺らがない。機械かと思うくらいの正確さの中に水の流れみたいな感じがある。木暮さんの後ろ姿は背筋がまっすぐに伸びていて腕の動きも軽そうだ。二人は完璧に揃っている。なのに深川さんには全く合わせに行こうとしない。そのパーフェクトさが気持ち悪いくらいの気持ち良さだ。全員分かっててやっているに決まっている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　何だかすごくずるい。そしてやっぱり悔しい。苦戦しているのは自分だけなのだと実力で突きつけられているような気がして。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　大晦日にこんなセッションをすることになるとは思っていなかった。でもそれを言い訳はしたくない。足先に力を入れて胸を張る。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ふっと鋭く切るブレスで深川さんからフレーズを受け取る。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　出番だ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　頭はクリアに。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　目を閉じて集中。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　胸の中は空っぽに。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　踏みしめた微かな足音が波紋に変わって広がる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　この一年間。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　新入生は誰も来ないかもと不安がるあいつらを励ましながら春を迎えた。安心できたと思ったらジャズ部統合の危機。ドタバタしながらジャズコンを乗り切って、アンコン。そうこうしてるうちに今日だ。本当に一年間の出来事だったのか信じられないくらい目まぐるしかった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　転がるように走って、走って、走って、今ここにいる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　その今だって、本当だったら踊りだしたくなるほど嬉しいはずのに、ぎゅっと体に力をこめていないと心の奥の何かがちぎれて飛んでいってしまいそうな気がしている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　本当は少しだけ、いや、たまにすごく不安だった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　世界一になる。あいつらと一生一緒にやっていく。その決意は変わっていない。だけど、部活になって後輩を抱えて「カルテット」が「本格的なチーム」になって、嬉しいことと同じくらい背負うものが増えた。予想していなかったわけじゃない。きっと俺がまだ「大人」になっていないから、色々なものが現実に追い付いていないんだろうなと思う。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　じーちゃんの言う「大人」に、俺はまだなれていない。本当の大人から見た俺はどれだけ練習してどこまでうまくなろうが所詮若造だ。褒められる時にはちょくちょく「学生なのにうまいな」と言われる。学生なのに、という言葉。それは心から褒めているのか、手加減されているのかは分からない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　優しくしてもらえるのはすごく嬉しい。でも贅沢を言うなら音楽だけは甘やかされたくはない。「子どもにしては上出来だ」の甘い言葉に浮かれて先を見るのをやめるのは、多分ちょっと違う。世界でやっていくっていうのは何となくそういうもののような気がする。今みたいなギリギリのことが何度も何度も襲ってきて、もう嫌だってくらい試される。その繰り返しなんだろう。こんなことを言うと「子どもにしてはいいこと言う」って言われるんだろうけど。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　――知るか！！&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　難しいことを考えたって、俺は結局今の自分にやれることしかできない。急にプロにはなれないし、大人にだってなれない。でもそれでもいいと言ってくれる仲間たちがいる。だから俺もそれでいいと思える。だからきっと明日も吹いていける。いつまででもやっていける。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　信じたい。これからもずっとみんなが笑ってくれると。お前と一緒にやってきてよかった、このチームに入ってよかったと心からそう思ってくれたなら。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　マウスピースが震える。自分の呼吸が意思をもって管を通り抜けていく。相棒に命が通って生き物の音で満ちていくのを感じる。どんどん指が熱くなって、巡り巡った血が体全体を熱くしていく。余計な肩の力が抜けて腕から手首までの感覚が消える。でも全然怖くない。今なら何だって出来る。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「いいぞ、翔琉くん！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「頑張れ！　おっさんトリオに負けんなよ！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　大きな拍手がはじけて歓声が体の真ん中にぶつかってくる。数は少ないけれど、だからこそ一つ一つがハッキリと聞こえる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「翔琉！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　父さんと母さん、じーちゃんの声も。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　相棒が大きく頷いて最後のスタッカートを踊りだした。俺の手を離れてフレーズが勝手に飛び跳ねる。マイルスは何を考えながらこの曲を作ったのだろう。世界中のトランペッターにこんな気持ちになって欲しかったのだろうか。ちゃんと勉強したら分かるかもしれない。でも今の俺には分からない。だから俺は俺のジャズをやらせてもらう。ごめんマイルス。大人になったら謝りに行くから。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ゆっくりと目を開ける。真正面にはじーちゃんみたいに歳を取ったドア。四角い窓の向こうは真っ暗。けれど店内の黄色いライトに照らされて相棒がきらきらと輝いている。あたたかな空気。みんなの笑顔。いつもと変わらないカレーとコーヒーのにおい。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　マウスピースからふっと口を離すと相棒がくたっと力尽きた。自分も膝の力が抜けてふらふらしそうになる。すると、深川さんがニカッと笑って俺の背中をさすってくれた。カレーよりもコーヒーよりも熱い手のひらだった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　大丈夫。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　明日からも、俺はきっと走っていける。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　Miles Davis quartet &#34;Milestones&#34;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Tue, 07 Dec 2021 15:08:48 +0000</pubDate><guid>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/24726473</guid><dc:creator>h</dc:creator><category>メイン</category></item><item><title>[20]僕の家には妖精が住んでいる</title><link>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/23356332</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;危ういバランスの上に成り立つ2-Dトリオ。ロランの一石が広げる波紋。妖精を巡る議論。見えない水面下。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;・鳴海家ほか捏造。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;・卓球ドラパのようなヒリヒリ感&lt;/div&gt;&lt;div&gt;・目が滑るような話を書きたかったので目が滑ります&lt;/div&gt;&lt;div&gt;・根性のある人向け&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ドイツの僕の家には妖精が住んでいてね」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ロランが頬杖の上で目を細めた瞬間、薄く柔らかな膜を張った大和の微笑みがわずかに揺らいだ。やはり二人を同席させるべきではなかったか、と燎は後悔した。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　今日は一足早い春の訪れを感じられるでしょう、と朝のニュースキャスターが告げていた通り、全ての授業を終えた土曜の真昼の教室は明るい日差しに包まれていた。眠気を誘うほどの暖かさだった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　学年末テストも終え、年度内最後の演奏会も納得いく仕上がりで幕を閉じた。クラスメイトの大半は進路変更をしないようなのでクラス替えはないに等しい。大きな環境の変化がないという安心感も手伝い、あとは修了式を待つばかりといった雰囲気だ。過酷な受験が控えている燎たち国公立理系クラスだが、ここ最近は緩慢に日々を消化するような空気が漂っている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　当然いつものように部活はある。しかし真面目な性分の燎と大和であっても、こうあっては帰りの挨拶も早々に部室へ行くのがどことなく躊躇われた。今日は少しのんびりしてみるのもいいかもしれませんね、と何かを汲み取ったように眉尻を下げる大和に燎は二つ返事で了承したのだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　素行のいい生徒ばかりのクラスでホームルームが長引くことはそうない。二人には弁当に手も付けずぺらぺらと喋り続けるような習慣もない。いつものように会話と食事を済ませれば自ずと時間は余る。たまには食後にカフェテリアで楽譜を広げながら部活前の一時を過ごすのも悪くはないだろう、ということになった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　二人がカフェテリアについた時、ロランは大きなガラスが一面に並ぶ窓辺の席に腰掛けて頬杖をつき、穏やかな表情で外を眺めていた。四人掛けのテーブルには真っ白なコーヒーカップとソーサー、スマートフォンとイヤホン、ノートが一冊にシャープペンシルが一本。掃いて捨てるほどいる男子学生の卓につく彼は、しかしとても日本の公立高校生とは思えない雰囲気をまとっていた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「やあ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ロランは今日初めて顔を合わせたかのように笑顔を向けた。決してそんなことはない。朝から少なくとも数回は言葉を交わしている。三人は同じクラスで席も比較的近いのだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「お疲れ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「お疲れ様です」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　軽く片手を上げたロランに燎と大和は応じる。同級生同士の挨拶にしてはいささか他人行儀な気もするが他に適当な言葉はない。示し合わせたわけではない。けれど何となくここに落ち着いている。それだけのこと。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ロランは呼びかけた。その席を包む陽だまりのように、穏やかでごく自然に。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「どうかな、良かったら一緒に」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　しかし一瞬で大和の表情にヒビが入る音が走る。そんな音などこの世に存在しないのに。燎は大和の顔を見た。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　この二人が卓球をした日から何かがおかしい。兼ねてから燎は疑問視していた。しかし三流の探偵のようにこそこそ嗅ぎ回る主義もなければ、刑事のように周囲に聞きまわるほどの正義感もないし、ましてや記者のように本人に聞く度胸はない。特に大和に対しては、こういったケースにおいては仲間として尊重するのと同じくらい繊細な力加減が求められる気がした。出会った当初から徹底して大和は他人に立ち入らない代わりに他人を立ち入らせない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「構いませんけれど、何か用件でも？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　大和は柔和に尋ね返した。その表情も口調も普段と変わらない。燎は安堵した。しかしこの言葉尻だ。用件がなければ、あるいはその内容次第では付き合う義理はないとも受け取れる表現である。燎は念のため神経の手綱に手をかける。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「特別なことは何もないんだ。部活の前なのに二人してここに来たということは、まだ時間はある……と思っただけでね。よく考えたら、僕らは一年間同じクラスで同じようにジャズをやっていたのに、あまり膝を突き合わせて話をしたことはなかった気がしたんだ。あまりにも僕らはお互いを知らない。その必要がないと言われればそれまでだ。でも僕だって高校生だ。他愛ないお喋りに花を咲かせてみたい時はある。君達と同じようにね。だから、どうかな」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ロランは長い口上を同じ言葉で締めくくった。そこまで言われては断る方が失礼だ。元より燎に誘いを断る理由はない。ロランの話題と知識の引き出しは、燎が知る限りでは同年代の誰よりも多い。美少女アニメから世界経済、西洋の古典文学から宇宙開発。どんなに難解な分野でもロランの手にかかれば容易く解きほぐされ、一つのガイドブックのように編み直された形になる。言葉は平易で話は順序立てが出来ており、全体の構造も整然としている。話題運びや質問のタイミングも巧み。人を引きつけて離さない話術だ。燎にとっては知見に満ちたロランの世間話が本当に世間話だったことの方が珍しかった。下手したら小難しい一冊の本を読むより、ロランの話に耳を傾けた方が面白みがあるとすら感じられるほどに。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　だがそれは大和をないがしろにしてまで叶えるものではない。ロランと話をしたければ個人的に誘えばいいだけなのだ。恐らくロランは断らない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　かつてロランの翳した言葉に燎は暴力で応えた。それはピンポン玉のやり取りに比べれば遥かに重い。ロランが秘密裏に手打ちの提案を持ちかけてこなかったら、今頃どうなっていたことか。少なくともこうしてお茶に呼ばれることはなかっただろう。あったとしても、円滑にやり取りを成立させられる自信は燎にはない。ロランほど燎は精神的に器用ではない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……いいですよ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　少し含みのあるような沈黙の後に大和は了承した。燎はまずロランの言う世間話が今回ばかりは本当の世間話であることを祈った。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ロランと大和は決して険悪ではない。しかし確実に溝がある。卓球の日までにはなかった溝。二人から明示こそされてはいない。だが察しが悪いと時たま言われる燎ですら気付ける程度のもの。これを抱えたままあと一年、しかも受験を――自分のだけでなく仲間達の分も――込みで過ごすとなると、もはや涼しい顔などしていられない。やはり躊躇せず具体的な対策に踏み切ったほうがいいのかもしれない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　注文カウンターから受け取ったコーヒーを手にロランの向かいに着く。大和にどうぞと笑顔で勧められるまま、燎は窓際の椅子を引いた。ロランの真正面だ。大和は燎の右隣りに腰掛け、微笑みを崩さずに使い捨てお手拭きのビニール袋を真っ直ぐに割く。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「待たせた」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「気にしないで。こう見えて待つのには慣れてる」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ロランの答えは初手からどうとでも受け取れる言葉だった。気にしないでだけで済むものを、なぜ彼はこのように一言添えるのか。文脈からして悪意はない。注文カウンターは空いている。オーダーに不備もない。何もかもがスムーズだったはずだ。振り回している？　試している？　何か気付いて欲しいことがある？　最後の案が正答だとしたら、それは特に燎にとって難しい類のメッセージだ。過去の言動や表に見える性格から類推することはできる。しかしこのように感覚的でこちらの直感だけが頼りになるような端的な言葉は不得意なのだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　こちらにそこまで考えを及ばせるメリットはない。恐らくロランにも。燎は全ての可能性を手で攫って捨てる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　実際のところそれは正解だったようで、ロランの話は本当に世間話だった。今日は暖かいねから始まり、テストもコンクールもないのは楽だけど張り合いがないね、と進んでいく。SwingCATSの調子はどうかなと聞かれたが、燎の当たり障りなく、かつ偽りのない現状報告にロランは満足そうに頷いた。探りを入れる気はなかったようだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　一方的に疑ってかかり、探りを入れる同然の態度を取っているのはこちらではないか、という気もしてくる。燎はカップに口を付ける。百円のコーヒーは正しく百円の味がする。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　話題の切れたところでロランは頬杖をついて窓の外を見た。その仕草は整った外見と相まって外国の映画のようだった。しかしここは公立高校のカフェテリアだ。国公立コースこそあるものの、学校自体は進学校ではない。往来を行くのはうららかな陽気の下でのんびりと歩く日本の高校生だけだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ドイツの僕の家には妖精が住んでいてね」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　しかしロランは映画の台詞のように切り出した。あまりにも突然だった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「妖精……？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ふっ、と無風の室内で大和の髪が揺れた気がした。燎は意識してロランに視線を固定した。目の前でいざこざを起こされては心地が悪い。それにここで二人に不用意に会話をさせれば最悪の場合取り返しのつかないことになるかもしれない。ここで二人を同時に失うわけにはいかないのだ。自分が傷付くだけならまだいいが、それ以外の影響があまりにも大きすぎる。燎は目を閉じて双方のチームメンバーの顔を思い浮かべる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　自分を棚に上げるつもりはないが、怪我のリスクを除外すれば、殴り合って喧嘩両成敗に持ち込める間柄の方がよほど分かりやすくて助かるかもしれない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ともかく、と自らに結論付けて燎は目を開けた。ロランと一対一の率直なやり取りに持ち込めば自ずと大和は聞き役に回るはずだ。大和には申し訳ないが沈黙は金なり。どうしても言いたいことがあれば大和自ら割って入るだろう。そうならないのが最善だとは思うが。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ドイツにも妖精はいるのか。妖精といえばイギリスだとばかり思っていたが」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　事実として興味がある話題ではあった。妖精は実在するかと聞かれれば、燎自身の答えは「いるとは考えにくいが、歴史の中でまことしやかに長く語り継がれている以上いないとも言い切れない。なので妖精の実在を信じている人間を否定する気はない」だ。不確かなものから生まれた芸術は後世でも長く愛されている。その根源を「ない」と断言するのは演奏者としてどうしても憚られてしまう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そうだね、有名なのはイギリスだ。でもドイツにも妖精の伝説はある。日本のゲームやアニメで時々出てくる『コボルト』というモンスターがいるんだけど、元になっているのはドイツの妖精なんだ。あまり知られてはいないけど、グリム童話にもコボルトは登場する」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ほう……」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「基本的には人の家や鉱山に住んでいてね。その関係で、彼らの名前を取って元素のコバルトは名付けられたと言われている」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「それは初耳だ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　燎は顎に手をやる。ファンタジーを否定する側の科学がファンタジーの力を借りていたとは。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「それで、その人の家に住むというコボルトがドイツの鳴海の家に居着いていると」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「話が早いね」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ロランは頬杖を解いて膝に下ろした。今ごろ脚の上でゆったり指でも組み合わせているのだろう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　燎はカップの持ち手に指を通す。どうしたものか。大和は黙ったままだ。先ほど感じたような不穏さはもう見られない。もう少し話を聞いてみてもいいだろうか。幸か不幸か時間はある。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　それに、妖精と住んだことのある人間などそう簡単にはお目にかかれない。運が良ければファンタジーの実在についても考えを深められる。ロランが良くも悪くも嘘が上手い人間だということを差し引いても聞く価値のある話題だった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「僕の家はそんなに歴史のあるものじゃない。家屋はそこそこ大きいけれど、祖父がほぼ一代で築いて父が盤石にしたようなものだ。だからまさか妖精が住むなんてね。誰も信じてなかったよ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ロランははにかんだような笑みで続きを語り始めた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「当時僕の家では大きな犬を飼っていたんだ。食事の時間は決まっている。その日もいつものように家政婦が配膳して犬を呼びに行った。でも二人が戻ったとき犬の皿は空だったんだ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「空？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ファンタジーというよりミステリーだ。家政婦を雇うほどの家という点も気にかかるが、その指摘は今は不要だろう。燎は端的な返事のみにとどめて続きを促す。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ゴミ箱に捨てられていた……なんてこともなかった。大型犬だから食事はそこそこの量がある。隠すのは難しい。そうこうしている間に僕らの食事の時間が近付いてきて、家政婦は取り急ぎもう一度犬の食事を準備していつもの仕事に戻っていった。結局わからずじまいだ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　カチャン、と右隣りで硬い音が上がる。燎はやっとそこで我に帰った。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「不思議ですね」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　大和はカップに目を落としている。燎はその淡々とした横顔がしばらく動かないことを確認してからロランに注意を戻した。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「他にも父の万年筆のインクがいつの間にか補充されていたり、ほつれていた裾が元通りになっていたり、朝取り替えたばかりのトイレットペーパーがその日の夕方には残りわずかになっていたり」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　頭の中に映像がよぎる。豪邸の豪奢なトイレ。無人の一室でひとりでに猛烈な勢いで減っていくトイレットペーパー。ロランの作り話かもしれないがあまりにもあんまりだ。燎はうっかり笑いそうになった。口元を手で覆っても間に合わず、&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「面白いだろう？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　とロランから懐かしそうに笑われてしまう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ふふ。つまり、協力もしてくれるけど悪戯もする妖精なんですね」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　大和は同じように少し笑ってから話をまとめた。トイレットペーパーで笑っても許される雰囲気で助かったと燎は胸を撫で下ろす。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そうなんだ。彼らは僕らを助けてくれる。そしてその報酬に食事を要求する。伝承によると、贈り物をすれば彼らはイタズラをやめてくれるらしい。ただ、二度と帰って来なくなるとも言われている。そこでちょっと二人に聞きたいんだけど」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ロランはそこで口調を落として燎と大和を交互に見やった。笑っている場合ではない。燎はトイレットペーパーを無理やり頭の中から追い出す。さすがに見え見えの展開だ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「贈り物、した方がいいかな」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　案の定だった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「はああ…………」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　大和が人前でここまで深いため息を付いている現場を見たのは初めてかもしれない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ファンタジーに正論をお返しするようで申し訳ありませんが、それをお決めになるのは鳴海くんとそのご家族では？　僕らがここで意見をするのは簡単です。ですが僕らの一存で鳴海くんのご家庭に何か不都合が起こっては責任の取りようがない」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　取りたくても、と大和は添えて答えを締めくくった。まさかここまで意見するとは思わず、燎は額に手をやる。非の打ち所のない、理屈の根本へ一直線にメスを入れる発言だった。燎は肩で一つ息をし、腕を組んだ。大和を守りつつロランの機嫌を損ねず、かつ自分の好奇心を満たすための最善手を狙わなければならない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「大和の意見には俺も同感だ。今の話とこれまでの話を鑑みるに、鳴海の家はかなりのものだと思う。家柄だけじゃない。国民性による考え方の違いもあるだろう。助太刀を求めてくれるのは友人としてありがたいが、コボルトに縁のない日本の男子高校生である俺達が無責任な話をしてもいいのか？　単純に議論で盛り上がりたいだけならそう言ってもらえると助かる。話題自体は非常に興味深いからな。俺個人としては、だが」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　友人とクラスメイトのどちらを使うべきか一瞬迷った末の判断だった。ここは情を打ち出したほうがいいだろう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「確かに君たちの意見は至極もっともなものだね。僕もきちんと論旨を伝えておくべきだった。答えはどちらでもあるんだ。幽霊が存在するかしないか、みたいな議論は昔から盛り上がるものだろう？　そういうことを僕もやってみたくてね。そして贈り物についての意見をもらいたかったのも本当だよ。最終決定権は父にある。でも、だからこそではあるんだけど、君たちが責任を負うことはないから安心していい。意見を参考にさせてもらうことはあっても、それは僕自身の個人的な主張をまとめるための参考だからね」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ロランはテーブルの上で両手の指を組み合わせる。幸い気分を害しはしなかったようだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そういうことなら改めて遠慮なく卓に付かせてもらおう。鳴海自身の考えも聞きたい」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そうですね。それに、今のお話を聞いて鳴海くんにお伝えしたいことが出てきました。堂嶌くんもきっと興味の湧く話題ですよ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「へえ、とても興味深いね。詳しく聞きたいな」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ロランは再び頬杖を付いて微笑んだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ああ、俺もぜひ聞きたい」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　やはり自分には探偵も刑事も記者も向いていない。一旦全てを脇に置いて座り直し、耳をそばだてる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　大和はにっこりと笑みを浮かべた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「実は、僕の家にも住んでいるんです」&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Mon, 08 Nov 2021 19:26:05 +0000</pubDate><guid>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/23356332</guid><dc:creator>h</dc:creator><category>メイン</category></item><item><title>[19]すべてを葬れたら</title><link>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/23351161</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;ロランと輝之進。親友からの手紙が届いたらまたこうなってしまうのかな、という話。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;後半には出来心で書いた村上春樹風バージョンがあります。あやふや再現度。全方位にごめんなさいなので何でも許せる人向け。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『やあRolly、元気にしてるかい？』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ドイツ語で書かれた一行目に亀裂を入れる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　決して心が痛まなかったわけではない。彼が純粋な親愛の情のもとに手紙を寄越してくれたことを知っているからだ。でも僕は敢えて自分の心に見てみぬふりをして亀裂を広げた。何が書かれているかひと目では分からなくなるくらいに小さく破ったあたりで、この学校にドイツ語が読める人は一人もいないことに思い至った。語学の授業は日本語と英語しかないのだからここまでする必要はない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　無意識の感傷というものがあるのかもしれない。僕は手から力を抜いた。一度握りしめてしまった小さな紙切れたちは最初こそ絡まり合っていたけれど、すぐに風に煽られてバラバラになった。水色の空、白く薄い雲、爽やかな秋風、舞い散る紙吹雪、母国の親友からの手紙を破って空に放つ高校生。アニメのワンシーンのようだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　もう少し眺めてから戻ろう。僕は手すりにゆったりと腕を引っ掛けた。グラウンドで走り込みをする運動部員が謎の紙切れに大慌てするところを眺めるのも楽しいかもしれない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ロラン」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　でもそううまくはいかなかった。もう少し眺めていたかったけれど、背中で返事をすればもっと怒らせてしまうだろう。僕は諦めて振り返った。きっと彼からの手紙はまた届く。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　輝は肩で息をしていた。エレガントを地で行く輝がろくに隠しもしていない。センターで分けて内巻きにした前髪は一房頬に貼り付いていた。よほど慌てていたのだろう。練習場所からこの屋上まではそこそこの距離がある。ウェーブのかかったロングヘアーだけが優雅に風にたなびいていた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　また間に合わなかったのね、と小さく吐き捨てるような呟きが聞こえた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「輝」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　手すりに背中を預け、右手で左肘を抱く。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「迎えに来てくれたのかい」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「思ってもないことを言わないで。何もかもわかってるくせに」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　それまでコンクリートの床に目を落としていた輝はサッと顔を上げ僕を見据える。鋭い眼差しだった。とても言い逃れが許される雰囲気ではない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「どうだろう」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　僕は曖昧な言葉を返した。けれどそれは紛れもない本心だ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　輝は頭がいい。ボキャブラリーも豊富だ。実力もセンスも折り紙つき。そして優しく繊細な一面もある。僕は大切な仲間として決して輝を疑うことはないのだけど、輝が時々意図して本音をカモフラージュをすることを僕は把握している。その行為が誰かや自分を守るためだということも。だから正確なところはわからないのだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ロラン……！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　僕の予想通りもどかしそうに輝は歯噛みする。今度こそ僕の心も痛んだ。けれど何と説明したらいいのだろう。全ての事情を打ち明けたところで相手はドイツ人だ。それに根本的な原因である僕の家庭は、一介の高校生にどうこうできるような規模の家じゃない。僕自身にすらどうにもならないのだ。本気で心配している輝に、何も打つ手はないという現実を突き付けることのほうが酷ではないか。何度考え直しても僕にとっての妥当な結論はそこに落ち着いてしまう。輝の怒りはもっともなものだと分かっていても。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ひゅうう、と計算ずくの台本に書かれたアニメのワンシーンのように風が鳴る。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　僕は微笑んだ形の顔を動かさないようにして心の中で笑みを重ねる。僕は生まれた時からリーダーになるべく育てられた。組織のトップに立つものとして、他人が自分の思い通りに動くことは当たり前であり落ち着くことであり、同時に望まれることでもあった。こんな風に知的さや風格を漂わせつつ、かつ物腰は柔らかに振る舞うことも。周囲に望まれたものになるのは簡単なのに、なぜ自分が望むものになるのはこうも難しいのだろう。自由を志す輝を見ていると、僕のような作り物の人間が作った台本の上で輝を歩かせてしまっていいのかと時々気が咎めてしまう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　そろそろ戻ろうか、と言うとあの時以上に怒らせてしまう気がした。僕は白状する以外のちょうどいい言葉を探しながら輝の髪を目で辿る。もう手紙はグラウンドに散らばった頃だろうか。まだ何の声も聞こえてこないからもうしばらくかかるのかもしれない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　少しだけ後ろを見る。紙切れはまだひらひらと舞っている。僕は下を向いてもう一度笑みを重ねる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&lt;hr&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;(おまけ)&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　白い紙切れは僕が何もしなくても勝手に風に吹かれて空中に踊り出た。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　僕はそれをぼんやりと眺める。親友と名乗る彼からの手紙をたった今破ったのは紛れもなく僕で、そこに至った経緯には何かしらの理由があったはずなのに、切れ切れの字が僕の手の平から全て離れる頃にはあまりよく思い出せなくなっていた。元から関心というものがなかったのかもしれない。『やあRolly、元気にしてるかい？』確かそんな書き出しだったはずだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ロラン」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　輝は言った。息を切らしている。その次にまた何か言うつもりなのか、その答えがイエスかノーかすら僕はうまく言い当てることができない。当然、イエスだったとして何を言おうとするのかを正確に当てるのは難しいだろう。予想を付けることは簡単だ。今までの傾向や輝の性格からある程度の選択肢は出せる。ただ可能性が高いだけであって確証はない。いつだって輝は輝の世界の中に生きていて、輝にしかない感覚で彼の言葉を選ぶ。無意識で放ったバリトンサックスのアドリブのように。だから僕はいつも読み取れないでいた。一方で、それを楽しんでいる僕もいる。輝は僕に対して何もかもお見通しのロランと思っているようだけれど、それは推測が当たり続けているだけだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「はあ、また間に合わなかったのね」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　輝は呟く。それは僕に向けられた言葉のようでいて、輝自身に向けられた言葉のようにも思えた。分かったのは、先ほどの答えがイエスだったということだけ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　また間に合わなかったのね。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　僕は心の中で反芻する。それから、あの時もそうだったなと思い返す。確か四月。四月二十日くらいだったはずだ。いや、二十二日くらいだったかもしれない。どちらでもさほど大きな違いはないけれど、どちらだったかなと僕は考えてみる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「輝、迎えに来てくれたのかい」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「思ってもないことを言わないで。何もかもわかってるくせに」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　輝は何か言いたげにこちらを見ている。どうしてなの、かもしれないし、ちゃんと相談しなさいよ、かもしれない。あるいは今夜は推しの配信があるんだから私を悩ませないで、かもしれない。僕は輝がユピテルの新曲――タイトルは確かcrispyだ――に心を踊らせるところを想像してみる。お気に入りのマイセンのティーカップを手に――ソーサーを使わずコースターを用いるのが輝のお決まりのスタイルだ――着飾ったアイドル達のトークに耳を傾ける。それからほとんど手付かずの紅茶をコースターに置いてcrispyに聴き入るのだろう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　そこまで想像したところで、僕はどれも当たっているようでどれも違っているような気がしてきた。結局のところ僕は輝の言葉を待つしかない。待ったところでそれが輝の本心なのか確かめるすべは持たないのだけど。輝にはそういうところがある。イエスと思われる流れでもノーと答えることがある。地面に落ちてしばらくじっとしていた枯れ葉が突然ちょっとした微風でひっくり返るように。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「どうだろう」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　僕は本心から言う。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ロラン……！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　輝は訴えるように拳を握った。驚くほど予想通りだった。なのに僕は輝を怒らせるようなことばかり言ってしまう。わざとではない。人に対して戦略的にわざと怒らせることはあっても、僕は輝をわざと怒らせるようなことはしない。大切な仲間だからだ。ということは、輝が望む僕の本心というものは得てしていずれも輝を怒らせてしまう。そういうことなのだろう。やれやれ。僕は少しだけ後ろを見た。紙切れはまだその辺でひらひらしている。僕は下を向いた。家に帰ったらcrispyを聴こう。紅茶を飲みながら。マイセンはあっただろうか、確か一脚、と思い浮かべてから僕は思い出した。あれはマイセンじゃない。ロイヤルコペンハーゲンだ。そう、今日はロイヤルコペンハーゲンのティーカップに紅茶を注ぐ。それからcrispyを聴く。いいシナリオだ。僕は少しだけ微笑んだ。それから輝のことを考えた。これから輝とどんな話をしたらいいのか。crispyの話はどうだろう。いや、間違いなく輝は怒る。これはイエスだ。やれやれ。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Fri, 05 Nov 2021 16:30:56 +0000</pubDate><guid>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/23351161</guid><dc:creator>h</dc:creator><category>メイン</category></item><item><title>[18]すなぱぴ！　第一話「千葉と二子玉川」</title><link>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/22805891</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;※注意&lt;/div&gt;&lt;div&gt;この小説は一個人の妄想に基づく架空のファンタジーです。実在の人物・地名・団体・商品名などとは関係ありません。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;実際の現代日本ではエアガンや電動ガン等の購入にあたり年齢制限が設けられています。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;自治体によってはサバイバルゲームそのものにも年齢に応じた厳しい条例が敷かれている場合もあります。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;この小説には法令違反や条例違反を勧める意図は一切ございません。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;タイトル以外全部捏造です。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;添削を快く引き受けてくれた(じゃずおん知識ゼロの)フレにこの場を借りて感謝を。ありがとうございました。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「うそ…………何で？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　がくんっと勝手に膝が折れて私はその場に座り込んでしまった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　のっぺりした灰色の床は冷たくて硬くて、痛い。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　周りには誰もいない。目の前の音楽室の中にも。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『吹奏楽部は部員減少のため、昨年度をもって廃部となりました』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　引き戸の窓ガラスの真ん中には白いぺらぺらの紙が一枚。貼り付けているセロハンテープは見るからに雑でひん曲がっている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　廃部となりました。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　そのたった一言が全然頭に入ってこない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　――――ザアアッ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　真後ろの窓の外で風が吹いている。その音がスネアドラムだったら良かったのに。吐き出したため息は風の音よりもずっと大きく響く。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　下を向くと左胸に刺さった黄色いリボンの花が目に留まった。入学式はさっき終わったからもう用はない。安全ピンのストッパーを外して引き抜く。カバンにしまうのも面倒で、ストッパーだけ戻して床に転がす。こんなに静かなのだからどうせ誰も来ない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　入学早々こんな気持ちで帰らなきゃいけないのか、私は。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　中一から始めた吹奏楽。私の担当はユーフォニアムだった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　トランペットみたいな華やかさはなく、ホルンに比べると知名度も見た目の個性もない。トロンボーンみたいな派手なビジュアルもない。でも私はユーフォニアムが好きだった。金色に囲まれた金管パートの中で白銀に輝くユーフォが。もちろん音だって素晴らしい。地味なのは分かってる。でもユーフォにはユーフォにしか出せない優しい低音と豊かな響きがある。私はそれが何よりも大好きだった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　プロになりたいとかそういうのはなかった。ただ大好きな楽器で大好きな曲を吹いていたいだけ。そのために上手くなりたくて毎日毎日朝も夜も練習していた。もっと吹けるようになりたい、ずっと吹いていたい。ただそれだけ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　たったそれだけだったのに、何で。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　親の仕事の都合で急遽高校を変えなきゃいけなくなったあの日のことを私は一生忘れないだろう。でも、もう二度と思い出したくもなかった。本当なら吹奏楽部でずっと一緒だった憧れの先輩たちと同じ強豪校に行けたのに。必死に勉強して受かった高校だったのに。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　引っ越し先は良く言えば地方。悪く言えば田舎一歩手前。何となく嫌な予感はしていた。ユーフォがない吹奏楽部もあると聞いてはいたけど、部活自体がないなんて。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　学校が変わってもユーフォがあれば。ユーフォがなくても最悪吹奏楽部があれば。そうやって無理やり自分を納得させてきた。でも、もうそんなことする意味はない。私は学校の楽器を借りていたから自分の楽器を持ってはいない。部活がなければ吹くことすら叶わないのだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　終わったんだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　立ち上がることもできないまま、動くことのない扉をぼうっと眺める。引き戸の下と床のレールの隙間にはホコリや砂が詰まっている。私はその小さな粒や消しゴムのカスみたいなゴミをじっと見つめた。カサカサの目からは涙の一滴すら出てこない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「大丈夫？　…………ねえ、何してるの？　そんなとこで」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　だから、声をかけられても気付かなかった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「おーい、風邪ひくよ？　ここ結構寒いんだから。私みたいにジャージ着てるならともかく」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　……ジャージ？&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　その言葉にやっと私の意識は起き上がる。声のする方に目だけをやると、赤いジャージの長ズボンの裾と、赤いゴムの付いた上靴が目に入った。油性ペンで名前が書いてある。逆さまで一瞬読みにくかったけれど、元々住んでいた家の近くの地名だからすぐに分かった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「二子、玉川……？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　私は座り込んだまま呟いた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　自分とは上靴の色が違うから先輩なのは明らか。本当ならすぐに立ち上がって気を付けと礼をしなきゃいけない。でも、一ミリも動けない。動きたくない。この高校の部活は強制ではなかったはず。なら一生帰宅部でいい。だから礼儀作法なんてどうだっていい。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そ！　私、二子玉川楓(ふたごたまがわ かえで)っていうの！　面倒だからニコとかニコタマって呼んで？　カエデでもいいけど。というかよく一発で読めたねこの名前」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……都内から引っ越してきたので」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ぼそぼそとした声であっても、言葉にすると現実がさらに重くなった気がした。もう東京には戻れない。これからはずっと、大学に行くまでこの山に囲まれた所で暮らさなきゃいけないんだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「あ、そーいうこと！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ニコタマ先輩――と呼ばせてもらうことにしようかな。絡むのは今日だけだろうし――はカラッと笑った。名前は都民だけど地元の人なのだろうか。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「何か暇だよね、ここ。埼玉から来た私でもそう思う」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……埼玉から来たのに二子玉なんですね」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　気を遣うエネルギーなんて一ミリだってない。どん底の私の口は思い付いたことを抑えきれずに言葉にしてしまう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「初対面でそれ言っちゃう！？　あっははは！！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　なのにニコタマ先輩は大声で笑い始めた。上下関係は気にならないタイプなのか。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「センスいいね。名前、何ていうの？　新入生だよね」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……はい。一年生の千葉美波です。千葉県の千葉に美しい波で」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　いい加減足が痺れてきたので、私は下を向いたまま幽霊のように立ち上がってお辞儀をした。青いゴムの付いた上靴に書かれた千葉の文字をボソッとなぞる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「うっそ、都内なのに千葉って！　やば！！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……よく言われます」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「だよね！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ニコタマ先輩は廊下中に笑い声を響かせながらふらふらと歩いていき、廊下の窓枠に手を付いて散々笑いまくった後はあはあと息を切らした。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　その背中に、制服とは不釣り合いな黒と銀色の長い何かがくっついている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　だけど私が目を凝らした瞬間にニコタマ先輩はくるっとこっちを向いて明るい笑顔を見せた。ころんとした真ん丸の赤いショートボブが揺れる。そこで初めて私はニコタマ先輩がすごく小柄なのだと知った。多分、低身長を悩みにしている私よりもさらに何センチか背が低い。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　私はぽかんとしてニコタマ先輩を見た。野暮ったいセーラー服は紺色の襟に赤いリボン。地味な紺色のプリーツスカートの下には野暮ったい赤ジャージ。どこもかしこも野暮ったくて、そのまんま田舎の女子高生だった。今の私もジャージ以外は同じなのが悲しい。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　そんなニコタマ先輩の胸元には黒いベルトのようなものが斜めに掛かっている。その付け根は背中の方にあるようで、肩の後ろから銀色の何かが飛び出している。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　最初は金属の棒だと思っていた。でも違う。細い鉄パイプみたいな筒の形をしている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　反対の方を目で辿ってみると、ニコタマ先輩のスカートの裾の辺りに黒くて大きなプラスチックの塊が見えた。端っこは直角三角形に似ている。上から下まで何回か往復してみて、私はそれが見覚えのあるシルエットだと気付いた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　銃だ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　しかも長い。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　映画でスナイパーが使っているような。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　どうしてニコタマ先輩がこんな物を。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　本当は殺し屋か何かで実は依頼を受けてはこっそり学校を抜け出してターゲットを撃って回っているのだろうか。そんな漫画みたいな話あるわけない。でもそうじゃなかったら何なの。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ニコタマ先輩は変わらずキラキラした笑顔でこちらを見ている。赤い真ん丸ボブと同じ、茶色い真ん丸な目。そこに裏も表もない、はずなのに。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　――――ザアアッ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　その瞬間、ぞくぞくと体中に寒気が走った。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　震えが止まらない。なのに一歩も動けない。足の裏は完全に床にくっついてしまっている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　怖くて怖くて先輩の目をこれ以上見てなんかいられないのにどうして私の目は先輩から離れないのお願い言うことを聞いて怖い怖い視界の端で銀色の長い銃口がチラチラと冷たく光ってやだやだやだやだ殺さないで死にたくない死ぬほど落ち込んではいるけど死にたいなんてまだ一言も言ってないもんそんなの聞いてないお願いやめてやめて&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……千葉ちゃん？　…………千葉ちゃん？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「や、……いや…………」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「？　…………ああ、これ？　ごめんごめん！　驚かせちゃった？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　私は黙ってカクカクと小刻みに頷くことしかできない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「大丈夫大丈夫！　撃ったりしないから。これ本物じゃないんだよ！　だから安心して？　一応弾は出るけど」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　――出るんだ！！&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　全力で叫びたいのに声にならない。ニコタマ先輩は私の恐怖心に全く気付いていないのか、おもむろに胸元のベルトに手をかけてヒョイッと頭の上に引っ張り、背中の銃を体の前で抱えた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　――やっぱり撃つ気だこの人！！&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ほら」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　――見せないで！！&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　心の中の絶叫は届くはずもなく、目の前にハイと凶器が差し出される。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　逃げればいいのに反射的に目が行ってしまう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　トロンボーンと同じくらいの長い長い銃は、小柄なニコタマ先輩が小さな手で持っているせいで余計に大きく見えた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　弾が出てくる銀の筒の部分はフルートのように真っ直ぐに伸びている。ところどころに小傷はあるけれど、お手入れ直後のようにピカピカ。筒の半分はツヤのないのっぺりした黒いプラスチックの本体に収まっていて、真ん中の辺りに同じ銀色の引き金と小さなラッパのような部品が付いている。狙いを付けるときに覗くところかもしれない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　私はその部品から目が離せなくなった。どうしてだろう。怖いはずなのにどこか懐かしいような気がして。直線が多くてカクカクした銃の中でここだけが優しい曲線だからだろうか。細かいネジや留め具がたくさん付いてるからか。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「楽器みたい……」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　あんなに出なかった声が気付けばスッと出ていた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「千葉ちゃん、やっぱセンスあるね。こういうのは初めて……だよね？　女子高生なら普通そうだと思うんだけど」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ニコタマ先輩は急に真面目な声になった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……はい。銃を近くで見るのは初めてです」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「パーツが気になるんだ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「この色がユーフォみたいで……」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ゆーふぉ？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「楽器の名前、なんですけど」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ああ、それで！　ふふ〜ん、へえ……なるほどなるほどそういうことだったかあ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ニコタマ先輩は元気を取り戻し、音楽室の扉と私の顔を交互に見て何度も頷いた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「じゃあさ、千葉ちゃん。うちにきなよ！　すなぱぴに」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「す……すなぱぴ？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そ！　スナイパーピープル。略してすなぱぴ！　かわいいっしょ！　その、ゆーふぉ？　はないけどトランペットならあるし」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「トランペットがあるんですか！？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　私は思わず前のめりになった。スナイパーという名前は物騒だしやっぱり銃は怖い。でも吹奏楽部のないこの学校にそんな話があるなら放ってはおけない。あまり目立つのは趣味じゃないけど、この際だ。背に腹は代えられない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　先輩はニヤリと笑った。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「あるよ。しかも山だからバンバン音鳴っても大丈夫！　失敗しても誰も怒らないしね」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　――天国だ！！&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　私は初めて田舎に感謝した。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「吹奏楽部ほどじゃないけど、うちも部員少ないんだよね。だから千葉ちゃんみたいな子が来てくれるとすっごく嬉しいんだよ！　ね、テンちゃん！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「テンちゃん？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　突然飛び出した名前に思わず聞き返す。ここに他の部員がいるんだろうか。辺りを見回してみても誰もいない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ニコタマ先輩はらんらんと目を輝かせたかと思ったら、いきなりずいっと銃を突き出して声を張った。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ふふん、よくぞ聞いてくれた！！　紹介するよ。私の愛銃、VSR-10プロハンターステンレスリアルショックバージョンブラックストックモデルそれがこのテンちゃん！！　うんうん、今日も輝いてる！　さすが私のメンテと君のポテンシャル！　はあ……このシンプルなマットブラックのボディ……その素っ気なさがいいね……かーらーの艶やかなステンレスバレルとスコープ！　ブラックとシルバーのコントラストが今日も最高……ああ……SUKI………………」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　先輩は銃を縦に持ち替えると、ぬいぐるみをだっこするように抱えて体を左右にぶんぶん揺らした。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　それが終わると今度は立ったまま目を閉じ、テンちゃんとの熱いハグを楽しみ始めた。半開きの口からはいつよだれが出てもおかしくない雰囲気だった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　声をかけていいのか分からなくてとりあえずその場に突っ立っていると、ニコタマ先輩はしばらくしてからハッと目を開けた。そして、よいしょとベルトを肩にかけ直し再びテンちゃんとやらを背負う。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「…………ごめん千葉ちゃん、テンちゃんがやばくてうっかり飛んでた！　じゃ、早速フィールド行こっか！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　何も突っ込まない方がいいのだろうか。私が迷っているうちに、ニコタマ先輩はその名前の通りニコッと笑って歩き出してしまった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　――今の流れでもう出発！？&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ついていけるのか急に不安になってきた。でも全てはトランペットのため。行くしかない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　そのトランペットが楽器ではないと知らされたのはこのあとの話だ。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Thu, 28 Oct 2021 13:05:10 +0000</pubDate><guid>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/22805891</guid><dc:creator>h</dc:creator><category>メイン</category></item><item><title>[17]決別の日に</title><link>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/22267515</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;堂嶌家捏造。燎の中学生時代。母の手を離れていく息子。受け入れ難い変化の渦中においても確かなもの。※母が燎の恋愛を疑うシーンがあるが母個人の早とちり。実際の恋愛要素はなし。※音楽知識は素人。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　玄関ポーチの階段をカンコンと新しいヒールが鳴らす。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　午後二時半。まだ日は高く、傾き始めたとは思えないほどの暑さ。日傘の陰に顔を隠しても気休めにしかならない。でも横髪を押し流す風は一時期に比べるとサラッとしてきたように思う。秋本番にはまだかかりそうだけど、ちゃんと暦の通りに季節は動いているみたい。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　仕事を早く終えた身体は軽い。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　昨夜は収録が長引いてしまい深夜に帰宅。今日はギリギリまで寝てから昼前に打ち合わせ。午後からはオフだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　しばらく息子の顔を見ていない気がする。ましてやこんな風に休日のレッスンのお迎えに行くなんて、いつぶりだろう。普段は一人で通ってもらっているけれど、それは息子が中学生だから。親子仲は決して悪くはない……はず。たまには昔のようにお迎えに行ったって罰は当たらないと思いたい。気難しい年頃だからあまりいい顔はされないかもしれない。でも、もし息子が私を咎めてくるようなことがあったとしても、買い物のついでに立ち寄ったとか、たまには先生に一言ご挨拶したかったからとか、答えようはある。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　最近一目惚れしてしまった日傘を年甲斐にもなくくるくると回す。足元に落ちた丸い影はレースで縁取られ、万華鏡のようにきらきらと光る。教室は最寄り駅から二駅。私の音大時代の先輩の自宅だ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　駅前通りにはまたいつか行こうと思いながら行けずにいた店が今も軒を連ね、甘い香りを漂わせていた。花屋、美容院、パン屋、ケーキ屋。ガラス越しにのんびり店内を眺めながら歩く。息子が中学生になった今、二人でゆっくりおやつを食べる機会はいつの間にか失われてしまっていた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　電車の時間まではまだ少し余裕がある。何か買っていこうかしら。そう頬を緩めた時、私の足はパン屋とケーキ屋の境目で止まってしまった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　今の息子の好みが何なのか分からない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　本人に聞けばいいか、と思い至るまでに少しだけ時間がかかった。店と反対の方向を見上げると、そろそろ電車の定刻だった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　元々甘いものはそこまで好まなかった息子だ。今もおそらく変わっていないとは思う。多分ガトーショコラを選ぶだろう。たまには息子と二人でデートというのもいいかもしれない。断られないといいけど。電車を降りた私はまた日傘をくるくる回して先輩の自宅へ足を向けた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　なのに、レッスンを終えて出てきた息子は私の顔を見た瞬間一気に顔色を失った。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　息子の背後で重い玄関のドアがガチャンと閉まる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　近くの庭木に一匹だけ蝉が止まっているようで、耳障りな声が痛いくらいにジリジリと響く。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「母……さん」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　息子は主人に似た高い身長で私に似た顔をして、変声期の頃のような掠れ声を漏らした。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　紛れもなく私の息子で、私の知らない男の子だった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　額に滲んだ汗が玉のかたちになって滑り落ちていくのがわかる。でも指先の一本すら動かせない。無意識に吸い込んだ息はひどく浅くて、唇は微かに震えるのに誰のことも呼べやしない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　初めて幼稚園のお遊戯会に行った時、初めて小学校の参観に行った時、ふと目のあった他所のお母さんの視線が「あっ」と言っていたのを覚えている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　りょうくんのお母さん。ピアニストの。こんなひとなんだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　と好奇の眼差しが訴えていた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　その時と同じ感覚だった。喉の奥がぎゅうっと締め上げられ、心臓が地の底に引きずり込まれていく。あの時は夫がこっそり背中に手を当ててくれたから辛うじて立っていられた。でも今は違う。私はひとりだ。ひとりで何とかしなきゃ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　背中を誰かが揺らしているみたいに体がぐらぐらする。視点が定まらない。ごくり、と飲んだ唾に空気の泡が大量に混じってむせそうになる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「えっと……その、たまにはと思ってお迎えに来てみたんだけど……。嫌、だったかしら」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　上ずった声が蝉の声にかき消されていく。おおよそ実の親子の会話ではないのはわかっていた。でも、それ以外何と言ったらいいのだろう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そんなことは……ない」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……そう、じゃあ……帰りましょうか」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　辛うじて絞り出した言葉に、ざり、と息子の靴底が返事をした。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　足元に真っ黒な喪服のようなレースの花の影が落ちる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　薄っぺらいサンダルのつま先の底がじりじりと焼かれて、ストッキング越しの指先が赤くなり痛みを帯びていく。衝動買いしたサンダルをおろしても、深い海のようなブルーに足の爪を塗っても、とっておきのテクニックを駆使して鍵盤で波を割っても、いつからか息子は「きれいだね」と言わなくなっていった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　母は、そろそろ孫を呼び捨てにしようかと言い出した。夫はとっくの昔にそうしている。私は決断しきれなかった。大きくなっても息子は息子。年々涼しくなっていく目の奥にすら、未だに優しくて賢く従順な「りょうくん」が残っている気がして。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　でも実際はそうではなかった。私はプロの演奏家として誰よりも先をひた走らなければならないのに、息を切らせば切らすほど取り残されつつある。息子が大人になればなるほど私は子どもになってしまう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　私も燎くんと呼ぶのを辞めるべきだろうか。いや、もしかしたらそれ以前に、自分のことをお母さんと呼ぶのをやめた方がいいのかもしれない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　かつてのように日傘を差し掛けることもためらわれた。今やヒールを履いた私より息子の方が背が高い。もはや買い物どころではなく、二人して押し黙って粛々と帰路を歩むほかに道はなかった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　家の広い玄関はがらんとしていて、夏の終わりの日に温められた淀んだ空気が充満している。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「おばあちゃんは……」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　無意識に助けを求めて母の姿を探してしまう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「まだ公民館だと思う」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　息子は下を向いて靴を脱ぎながら淡々と述べた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　その表情は黒い前髪で隠れてしまって見えることはない。靴をまとめて掴んでくるりと向きを揃えて並べるお行儀のよい仕草だけが、天から伸びた細くて白い糸のようだった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ザーーーーッ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　洗面所の水の音が耳を打つ。思い出したように足の指が再び痛みを訴え始めた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　きゅ、とレバーが下がる音が鳴って少ししてから息子が顔を出した。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「母さん、大丈夫？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……え？　ええ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　額に手を当てて目眩をやり過ごす。濡れて冷たくなった額は汗とファンデーションが混じってぬるりと上滑りする。なのにその奥はひどく熱をもっていて、あっという間に手の平の血管を押し広げていく。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「熱中症になったらまずい」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そう、ね。燎くんも。先に行ってて。リビングのエアコンは付けたままにしてあるから」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　息子は影を残して頷く。その背中が一直線に二階の子供部屋に上がらずリビングへの廊下に消えたことに安堵を覚える。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　へばり付くストッキングを苦戦の末に脱いで洗濯かごの奥にやる。ひんやりした水で手を洗い流して、ティッシュで顔の汗を押さえてゴミ箱に捨てて、絡んだ髪をまとめ直しても、何ひとつすっきりしない。首から上のこもった熱を振り切れないまま痺れる足で廊下に向かう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　そういえば、今の燎くんは何を飲むんだろう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　私が直接聞く前に、ダイニングテーブルにはアイスコーヒーのグラスが二つ並んでいた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……ありがとう」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　先にテーブルについていた息子は黙って頷く。いつも使っている飾り気のないグラスを持ち上げ、氷が二つ入ったコーヒーを傾ける。そこで気が付いた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　金色の刺繍で縁取られた白い薔薇のコースター。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　そういえばそんな物を持っていた。結婚して間もない頃、旅行先のイギリスで夫に買ってもらったのだ。きらびやかなカップがずらりと並ぶ棚を前に「どれがいい」と静かな期待に満ちた眼差しを向けた夫は、私が陳列台の隅からこのコースターを一枚つまんで手渡すなり一瞬戸惑った顔付きになったのを覚えている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　魅力的なカップはどれも持ち手が白鳥の首のように細くて、割れてしまうのが怖かった。布製の白いコースターだって汚れてしまうと気付いたのは帰国してからだった。また買いに行けばいい。遠いけど時間さえあれば行けるんだからと夫は穏やかに笑って、コースターを仕舞い込む私の髪を撫でてくれた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　けれどそれ以来、イギリスはおろか、いつか行きたいねと口にしていた箱根への日帰り旅行すら出来ていない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　かち、こち、からんからん。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　時計の針と氷の音が絡む。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　息子はグラスを置いた。私の母が普段用に選んだ、ダークブラウンの真四角のコースターの上に。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　涼しい部屋でアイスコーヒーを何口か流し込んだところで、やっと悪い夢から覚めてきたような気がしてきた。今ならきっと。私は膝の上で重ねていた両手をほどいて拳にした。息を吸って吐いて何度かまばたきをして、それまでぼんやりと眺めていた薔薇に別れを告げる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「燎くん」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　サッと顔を上げて私は口を開いた。その声が思っていた以上に大きくて自分でも驚く。息子はというと、目も口も丸くしていてランドセルを背負っていた頃の顔付きになっていた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「あっ、その……ごめんね？　突然大きな声を出して」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……いや、」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　二人して目をそらす。気まずさに決意が早速ぐらつく。けれど意外なことに息子の方が先に口を開いた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「今日、譜面からずれていると先生に言われた」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　その言葉も随分と意外だった。あんなに青ざめた顔をしていたのだから、もっと信じられないようなことを言い出すのかとばかり思っていた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　譜面通りに正確に弾くのは得意な方の息子だ。下手したらその精度は学生時代の私より高いかもしれない。でも、表現や世界観に気を取られるあまり譜面を逸脱してしまうのはよくある話。範囲にもよるがピアニストとしての個性の出しどころでもあるのだ。決して四角四面に押し込めていいものではない。長く息子のレッスンをしてくれているあの先輩がそういう指導をするとは思えない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そうなの？　珍しいじゃない。でも悪いだけの話ではないと思うわよ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　私はやっと取り戻した平静さと声色で応える。ところが、息子のそらした目がこちらに向くことはない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「いや、その…………思い当たる節が」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　かち、こち。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　古典的なドラマみたいに時計の針が大きく響く。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　私は息子に気取られないようになるべく注意しながらゆっくりゆっくり視線を落とし、焦げ茶色のコースターで食い止めた。力を抜いて、震える両手の指を組んで膝の上に置きなおす。心臓が急に膨らんで、顔まで脈を打っているようだった。唇を引き結んで音を立てないように細く長く息をする。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　思い当たる節。息子の言うそれに私が思い当たるものはない。あるとしたら何なのだろう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　育児も教育も人に任せてばかりの私が言うのは不届きな話だが、幼い頃からしっかり者の息子だった。見せてくれるテストの答案はどれもほぼ満点。通知表も褒めるところしかなくてコメントのしようがない。三者面談では話すことがないと先生に言われるのがお約束。親が心配になるくらいの真面目さはひとえに折り目正しい私の母の教育の賜物で、贅沢な悩みだった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　把握している限り、息子は体調が悪い日を除けばピアノの練習はほとんど欠かしたことがない。勉強の相談を夫に任せる代わりにピアノは全面的に私が見ている。前回見た時は何の問題もなかった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　だとしたら友人関係……唯一の心配の種が最有力候補になってしまう。輝ちゃんが音楽スクールを辞めた時はどうなることかと延々気を揉んだ。仲が悪くなったわけではなかったようで、そのあと輝ちゃんと同じ吹奏楽部に入って他にも新しい友達が出来たと聞いた時は心底ホッとしたものだ。それでも、よそのお子さんと比べたらずっと人付き合いは不得意な方。幸い友達付き合いは続いているようだが、多感で繊細な年頃。何かあったとしてもおかしくはない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　それに、こんな出来のいい息子なのだからいよいよ誰かに告白されたなんてこともありえない話ではない。もしかしたら人を好きになってしまったという可能性だって……いや、それは一旦置いておこう。あくまで可能性の一つ。すごく確率の低い可能性の一つ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　どきどきする胸を落ち着かせようとコーヒーを流し込んでも全く収まらない。グラスで濡れた手をどうしようかしらと立ち上がろうとしたところで、ふいに息子が席を立った。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　スリッパがぱさぱさと音を立てて向かった先は、リビングのグランドピアノだった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　思ってもみない行き先に私の足は硬くなってしまって言うことをきかない。弾くなら運指を見なきゃいけないのに、息子はもう椅子に腰掛けており指先はピアノの陰に隠れてしまった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　始まった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ワルツだ。高いメロディが甘やかな和音を含み、穏やかに上下しながら空気を膨らませていく。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　と思ったら急なパッセージに爪先でステップを踏むようなスタッカート。よく手が動いている。頭の中に理想の演奏がイメージできている証拠だ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　冒頭のフレーズが短いスパンで形とテンポを変えながらくるくると様々な面を見せて踊っている。変化は目まぐるしいものの強引さは感じられない。時々前のめりに音が詰まりがちなのは緊張しているからだろう。高音が時折引き攣れたり左手に一瞬の躊躇いが感じられる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　しかし問題はそこではなかった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　最初はワルツだと思ったけれど、このリズムと変化に富んだ構成に印象的な旋律。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ジャズだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　主人の影響で幅広い音楽に親しんできた息子ではあったがジャズを弾いたことはほとんどなかったはず。どうして急にこの曲を弾いたのだろう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ええっと……ごめんね。聴き覚えはあるんだけど曲名が出てこなくて」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ビル・エヴァンスのワルツ・フォー・デビイだ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そう！　そうだったわね。そういえばそう……」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　おろおろと目をさまよわせる私に、息子はリビングの奥の棚から迷わず一枚のCDを引き抜いて側にあるプレイヤーにセットした。夫が「壊れない限りこれで最後の一台にする」と言い切ったスピーカーが音を流しだす。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　たったいま息子が弾いたのと同じ曲だった。どことなくピアノの弾き方が似ている気がする。溜めたり引っ張ったりする拍子の取り方が独特に感じられるけれど、ベースとドラムの力が手伝ってリズム感には軽やかなキレがある。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　耳に残りやすく、それでいて何度も聴きたくなるような深みもある演奏だった。母の贔屓目を認めた上で比較すると、息子の演奏はやや抑揚がはっきりしており鮮烈な印象があった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　改めて聴きながら考えてみる。曲自体の難易度はさほど高くないように思う。やっぱりさっきの燎くんは実力を出し切れていない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　私は口元に人差し指を押し当てた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「今の、もう一回弾いてくれる？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　再生が終わり息子がプレイヤーを止めた瞬間を見計らって声を掛けると、&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「え？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　と、振り返った息子が信じられないような目でこちらを見た。恐ろしいものを見ているような目でもある。母に叱られると思っているのかもしれない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　息子は言われるがままに再び椅子に付いた。今度は私もその斜め後ろに立って演奏の全てを見届ける。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「大丈夫、お母さん怒ってるわけじゃないの。意外な曲だったからちょっとびっくりしただけ。とっても素敵だったからもう一回ゆっくり聴いてみたいのよ。だから燎くんも力を抜いて」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　さっきは緊張していただろうにあのレベルだ。驚きよりも興味が勝ってしまう。リラックスして本当の自分で弾けたなら燎くんはきっともっと。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　息子は黙って頷いて、身じろぎを一つするともう一度弾き始めた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　全然違う。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　音の柔軟さと繊細さが段違い。手の動きもさっきよりずっと滑らかで、爪の先まで神経が通っている。高音は澄んでいて軽やか。低音の豊かな響きとの対比に美しい彩りが見える。でもお高く止まった様子はなく、語りかけるような情も感じられる。左手が深く沈みこみながら奏でる複雑な和音から滲み出るような切なさには込み上げてくるものがある。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　素早いストライドも難なくこなしている。忙しなさはなく余裕すら見えるほどに。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　中盤に差し掛かった。息子は聴く人の手を取って連れ出すみたいに軽快に指を踊らせながら鍵盤を駆けていく。それに合わせて拍子を取るように首が左右に揺れた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　そのとき私は見てしまった。それまで真剣な面持ちで引き結んでいた口元が、ふっと緩んだのだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　燎くんが笑った。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　あの時の私だ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　初めて思いのままに表現できたと自信を持てた時の私。心の奥底から湧き上がるような名前のない感情、それを形にしたいと訴える本能、どうしたら叶うのかと苦しむ頭脳、ひとりでに騒ぎ出す指先、その全てがぴたりと合致した時の本能が爆発するような歓喜。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　クライマックス。ハンマーが弦を打って切れのある旋律を跳ね上げる。舞い上がった空気が音の形になって白い天井をかき混ぜながら満たしていく。自分以外の演奏に対してこんなにも終わって欲しくないと強く願ったのはいつぶりだろう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　息子は最後の音からしなやかに指先を引き上げた。柔らかく残った余韻が温かな風のように心地良く全身を包んだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「燎……くん」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　口元を覆った手をなかなか下ろせない。燎くんも椅子に腰掛けたまま微動だにせずじっと押し黙ったまま。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「…………やっぱりすごく上手いわ。本当にびっくりした。さっきよりずっといい。ジャズもこんなに弾けるのね。いつから練習していたの？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　気がはやってつい早口になってしまう。今すぐ根掘り葉掘り聞きたくて仕方がない。どんな練習をしてきたの。他に何が弾けるの。誰に教えてもらったの。先生はこのことを知ってるの。興奮のあまり語気が強まりそうになる。取り繕って優しい母の顔を演じるのにかなり力を使った。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……結構前から……なんだ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　息子は鍵盤に向かって俯いたまま呟いた。私は額に手をやる。失敗した。あまり言いたくないことを言わせてしまったかもしれない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　プロのクラシックピアニストの母に隠れてこっそりジャズの練習を積んでいたなんて、息子からしたら裏切り同然の行為だ。さぞかし気が咎めただろう。息子が幼い頃から、燎くんとピアノを弾くのが楽しいと私は何度も口にしてきた。それは私の前向きな本心だった。でも息子にとってはどうだっただろう。もしかしたら呪縛だったのではないか。このままお母さんの大好きなクラシックを弾き続けてね、という愛情の皮をかぶせた温かな呪いの言葉。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　本当は訊かなくてもわかる。母の前でこんなに楽しそうに弾きこなしてみせるのだ。一朝一夕で身につくものではない。本気でジャズに魅せられて連日弾き込んできたのは明らかだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　いつだって息子は真面目でどんな音楽にも正面から取り組んできた。多少の好みや入れ込みようの違いはあった。でもこんなに情感のこもった弾き方をしたところなんて、今までただの一度も見たことがない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　喉の奥が震える。首元に手をあてても治まらない。エアコンですっかり汗は引いたのに手の平から滲むものが止まらない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……いいのよ、燎くん。ジャズでもポップスでも。好きなものを好きなだけ弾いて。自分の一番好きなものを自分の道にするの」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　私はもう一度息子の背中を撫でるように口にした。それが心優しい母親の言葉になりきっていたかどうか、自信は持てない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ぴくっと白いシャツの肩が跳ねてこちらを振り向く。私と同じ水色の目は半信半疑と驚きで塗りつぶされて、でもその内側はきらきらと日の光に瞬く朝の波間を映していた。「おかあさん、ぼくグリッサンドができるようになったんだ」と、まだぎこちない指先で白い鍵盤の砂浜にささやかな波打ち際を生んでみせたあの日の光だった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「母……さん？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「え？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　右の頬を流れていったものが何なのか分からなかった。指先でちょんと触れると温かくて、三本の指をこすり合わせるとすぐに乾いて消えた。私は顔を背けてダイニングに向かった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……嬉しかったの。燎くんに好きな音楽が見つかったことが。昔から何でもよく聴いていたでしょう？　でも特別なお気に入りがあるってやっぱり違うと思うの。お母さんにとってクラシックがそうだったみたいにね」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ダイニングからさっき座っていた椅子を持ってきて、息子から少し離れたところにゆっくりと腰を下ろした。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ジャズでもポップスでも弾けばいいって言ったのも本当。燎くんにクラシックを勧めてきたのはお母さんが好きだからっていうのもあるわ。でもそういう気持ちを抜きにして言うと、ピアノの根本的な基礎はクラシックにあると思っているからなの。今なら分かるわよね？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　息子は教えを請う生徒の顔になり、背筋を伸ばして頷く。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「考え方は人それぞれだけど、私は基礎がしっかりと身に付いたら他のジャンルを本業にしてもいいと思う。燎くんの実力はもうその域だわ。正直言ってクラシックは……無理に続けなくてもいい。何なら……もし燎くんが嫌になっていたのなら」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　息子の前では一人の母親でありたい。なるべくピアニストとしての顔は出したくない。そう努めてやってきたつもりだった。でも今だけは出来そうになかった。表情を消して堂嶌家のピアニストの顔を作っていないと、何かが崩れ落ちてしまいそうだった。私は言葉を切って一度大きく息をした。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……いいのよ、クラシックを辞めたって」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「母さん、無理はしなくていいから」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「大丈夫！　大丈夫だから！　それに、無理してたのは燎くんでしょう？　お母さんのせいで何かと遠慮させてしまってたわよね？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「それは」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　息子はさっと顔を強張らせ実質の肯定を見せた。やっぱりそうだったのか。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……いいの。燎くんは何も悪くない。お母さんがいけなかったんだわ。本当に……申し訳ないことをしてしまったわね」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　再び口を開きかけた息子を首を振って制して私は席を立った。視線の先にあるプレイヤーは先ほどのCDが入ったまま停止している。脇に置かれたジャケットの裏を見てトラック番号を指定する。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「…………私にも弾かせて。もう一回聴いてから」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そんなことしたら来月のラフマニノフが」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「大丈夫。それくらいじゃお母さんのクラシックは絶対に曲がらない」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　絶対に。つい熱のこもってしまった言葉に、息子はそれ以上何も言わなかった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　一音たりとも聴き逃さないように旋律の内訳を頭に焼き付けていく。曲はさほど長くない。しかも同じパターンを何度も弾いている。さすがに全部を覚えるのは無理でもメインフレーズを覚えれば冒頭だけでも弾けるはず。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　脳に抱え込んだ音をこぼさないように、ゆっくりとピアノに向かう。息子は既に私のダイニングチェアに座って鍵盤の前を開けていた。譜面台にはいつの間にか楽譜が置かれている。音楽スクールの昇級試験みたいだった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　浅く腰掛ける。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　譜面があるなら予定より少し長く弾ける。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　両手を握って開いて、握って開いて、息を吸って、吐く。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　息子の手の映像と私の手、さっきの息子の演奏とCDの音源、そしていま私の頭の中にある音。その全てをまとめて譜面を重ねて縫い付けていく。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　自分で弾いてみると主旋律がとても心地良くて優しい気持ちになれる。でも癒やされるだけじゃない。和音を重ねて上りつめていく時の高揚感には指だけでなく胸も踊るよう。息子はこんな気持ちで弾いていたのだろうか。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　序盤を終えて一度目の展開に入る。完璧ではない記憶を譜面で穴埋めして、気持ちのままにリズムの揺らぎを試してみる。果たしてこれがジャズとして成立しているのかは分からないけれど、曲としての体裁は保てていると思いたい。少し手応えを覚えて肩の力を抜き、次の展開の前まで弾いて演奏を終えた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　楽しい。独特の難しさはあるけれどそれがやり甲斐にもなりそう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　クラシックでは経験したことのない不思議な感覚だった。古い譜面を辿っているのに自分で音楽を作っている感触がある。私は笑顔で振り返った。しかし、息子は口元に拳を当てて笑いをこらえていた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「母さんって……その、あまりジャズは」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「…………え？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「いや……何でもない」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「嘘！　なかなかうまくできてたと思わない？　お母さんほとんど初見よ！？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「――ッ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　息子は耐えきれず吹き出し、そっぽを向き声を上げて笑い始めてしまった。こんな声で笑う子だったのか、と私は他人事のように眺めながら小さく笑った。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「はあ、プロやってて下手と言われる日が来るとはね。まあでも……燎くんで良かったかもしれないわ。悔しいけど……。もう、そんなに笑わなくてもいいでしょう！？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「下手とは言ってない」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ほとんどそう言ってるようなものじゃない！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　息子は横を向いて背もたれに縋るようにして笑っている。果たして学校でもこんな風に笑えているのだろうか。それを知るすべはきっと私にはない。そもそも知る権利はもうないのだ。この子はもう中学生になった。親があれこれ詮索していい年頃じゃない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ふと思い出してCDの棚に向かう。主人が昔一押しだと言っていたジャズピアニストのアルバムがここにあったはず。おぼろげな記憶を頼りにアルファベット順に並ぶ棚を辿って、それらしい物を一枚抜き取る。これだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そういえば燎くん、セロニアス・モンクは弾けるの？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……モン、ク」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　はあはあと肩で息をしていた息子がふっと呼吸を止めた。私は思わずにやりとした。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ふうん、その調子だとさすがの燎くんでもまだこれからというわけね？　分かりました。じゃあ次の課題曲はこれにしましょう。お父さんも好きって言ってたし」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「それは！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「あら、だめなの？　お母さんさっきすごく楽しかったのよ。また燎くんと同じ曲を弾いてみたいわ。今度はちゃんと練習したい。ラフマニノフのことは心配しなくていいから」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　慌てて立ち上がってこちらを向いた息子を放ったらかして、私は先ほどの曲を口ずさみながらCDを入れ替える。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　再生ボタンを押してしばらくして私は凍り付いた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「燎……くん」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「だから言ったじゃないか」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　息子は抽象画のような旋律を背に呆れて手を腰に当てる。その仕草も夫にそっくりだった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　かつて夫は言っていた。「もしかしたら君は彼の独創的な音楽が苦手かもしれない。無理して聴くことはない。でもモンクはモンクなんだ。だから売れたと言ってもいい。好きになる必要はないけどありのままを認めてほしい。好きなものを否定されるのは僕も悲しいからね」と。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「やっぱり燎くんも、モンクはモンクだって思う？　どんなに難解でもそれがいいんだって」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　息子は黙って頷いた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「なるほどね。お父さんも燎くんもそう言うならそういうことなんでしょうね。分かったわ……まあ、モンクをどうするかは一旦置いておくとして、ファーストコンサートが決まったら教えてね。お母さん行くから」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……母さん、気が早い」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　息子はモンクの旋律のように視線をあちこちにやる。その表情はすぐに、私と同じまっすぐな黒い前髪の陰に隠れてしまった。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Fri, 15 Oct 2021 18:29:01 +0000</pubDate><guid>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/22267515</guid><dc:creator>h</dc:creator><category>メイン</category></item><item><title>[16]相談したいことがあるんです！</title><link>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/21870524</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;1部の頃。ジャズコン前に青くんが打ち明けたこと。フォロワー様とのやりとりに着想を得ました。許可を頂きありがとうございます。※作中の生物は驚きの見た目なので心臓の弱い方は検索注意&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『未知なるカンブリア紀――失われた海洋生物を追い求めて――』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　棚から本を抜き取る。薄めだけど大きなサイズに少し期待が膨らむ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　表紙一面に広がるのは暗い海。底から海面を見上げているようだ。上の方が明るくなっていて光の筋が何本か射している。生き物は写っていないシンプルな写真。だけどどこか神秘的で吸い込まれそうな感じがする。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　表紙をめくると、最初の方にカラーページが何枚か。はじめの見開きに大きく描かれているのは……アノマロカリスだ！　本を握る手に力がこもる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　僕は一旦本を閉じて棚から顔を出した。壁の時計はもうすぐ部活の時間を指している。図書室でちょっと本を見たらすぐに練習を始めるつもりだったのに、ついうっかりしてしまった。急がないと。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　本当ならもう少し中身を確かめてから借りるかどうかを決めたかったけれど、今日はそうも言っていられない。きっとこの本はいい本だ。根拠はないけどそう信じられる気がする。こんなに素敵な表紙とアノマロカリスなんだから。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　貸し出しカウンターに本を差し出して、手前の荷物置きスタンドにカバンを置く。本を入れるスペースは……あった。よかった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「依吹」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「は、ひゃい！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　そんなタイミングで声をかけられるとは思っていなくて、僕は両手をびくんと震わせてしまった。先輩、しかも堂嶌さんだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「悪い。驚かせるつもりはなかったんだが。今から部室か？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「は、はい！　こちらこそすみません！　これを借りたらすぐに……」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　と言いかけたところで、僕はハッとして視線を床からカウンターに引き戻す。幸い司書の先生は本を裏向きにしてバーコードを読み取っているところだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そうか。なら……一緒に行こう。少し待っていてくれないか。すぐに終わる」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　見られなくて良かったと安心する前に、堂嶌さんはそう言って颯爽と僕の脇を通り過ぎ、長机の並ぶフロアを突っ切って棚の中に消えてしまった。そして僕がもたもたとアノマロカリスをしまっている間にもう戻ってきた。何となくそうかもしれないとは思っていたけれど、案の定遠目からもわかるくらい分厚い本を手にしている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「待たせた」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　堂嶌さんはこちらに向かって頷きながら流れるように本を差し出し、返却が先ですとカバンから別の本を二冊取り出した。これもまた分厚い。くすんだ色のハードカバーには、&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『コーヒーハウスの文化史』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『ミルクが先か紅茶が先か　〜英国ティータイム論壇今昔〜』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　と書かれている。堂嶌さんは入れ替わりに手渡された本をカバンにしまう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『付加価値戦略　〜チェーン店で一杯八百円のコーヒーが売れるワケ〜』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『“見えないものに価値を見いだす”思考法』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……依吹？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　堂嶌さんが振り返って声をかけてきた。僕がポカンとしている間に、準備を済ませて出入口に向かっていたみたいだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ごめんなさい！　あ……あの、ど、堂嶌さん！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　カバンを引っ掴んで僕は後を追う。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「――相談したいことがあるんです！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　どうしてそんなことを口走ってしまったのか、自分でも全く分からない。ただ、出入口の扉を開けたまま押さえていた堂嶌さんがすぐに&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……構わない。俺で良ければ聞かせてくれ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　と答えてくれたことに、僕はそれだけでもう何かが一つ解決したような気持ちになってしまった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　でもそんな風に安心していられたのはほんの少しの間だけ。よくよく考えてみたら、これまで堂嶌さんと二人で話したことはほとんどなかった気がする。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　優しい先輩だというのは分かってはいる。けれど部活の時は大抵ピアノを弾いているか、譜面を読んでいるか、誰かと話しているか、考えごとをしているかのどれかで、今なら暇そうだから声をかけてもいいかなと思えるタイミングは滅多にない。時々話しかけられることはあるけれど音楽の話ばかり。しかもいつも真剣だから背筋を伸ばして聞くほかない。だから僕はまだ堂嶌さんのことを知っているようでよく分かっていないのだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　そんな堂嶌さんに、何で僕は。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　歩きながら制服の胸元を掴んで下を向いた。カバンと一緒に胸の中がどんよりと暗く重くなっていく。堂嶌さんは優しい。でも厳しくもある。ちょこちょこ叱られては口を尖らせたり笑ったりしている智川さんの姿が頭をよぎる。僕が堂嶌さんに叱られたら、とてもじゃないけどあんな風に笑うことなんてできないだろう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　堂嶌さんについていった先は図書館の一階だった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　床は広いウッドデッキのようになっていて、ベンチがいくつか置かれている。二階の図書室が屋根代わりになっており、大きな柱が何本か立っている以外に遮るものは何もない。涼しい日陰を風が吹き抜けていく。衣替えで半袖の夏服になったばかりの腕がひんやりする。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　堂嶌さんは飲み物は何がいいかと訊ねてきた。咄嗟に何でもいいと答えてしまい、僕はまた肩を落とした。本当は何でも飲めるわけじゃない。堂嶌さんがよく飲んでいるのはブラックコーヒーだ。でも僕はあまり得意じゃない。飲めるのはルバートのだけ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　近くの自販機から戻ってきた堂嶌さんの手に緑茶のペットボトルを見つけた瞬間、僕は思わず命拾いしたと感じてしまい、また落ち込んだ。全部自分のせいなのに。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　お金を払うと言った僕に堂嶌さんは優しく首を振って、コーヒーの黒い缶をカコンと開けて口を付けた。僕もペットボトルのフタに取り掛かる。手が滑ってうまく開かない。堂嶌さんはというと、スマホを見ている。とととん、と人差し指が画面の下の方を軽く叩いている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「事情があって部活には少し遅れると連絡しておこう」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　堂嶌さんがメッセージを送る前に無事ペットボトルを開けきり、僕はホッとした。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　同じものをと言って緑茶が出てきたということは、堂嶌さんは緑茶が好きなんだろうか。ピアノ歴が長くてコーヒーや紅茶に興味があるのだから洋風趣味なのかと思っていたけれど、意外とそうでもないのかもしれない。書道が得意らしいし。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……それで、話はできそうか」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　堂嶌さんは缶を脇に置いて切り出した。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「え？　えっと……」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「言いにくいなら無理はしなくていい。俺は本を読んでいるから、話したくなったら声をかけてくれ。読書の途中でも構わない」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　僕がまごついているのを見て、堂嶌さんはベンチに深く座り直してゆったりと脚を組んだ。そして本当に本を取り出して読み始めてしまった。もう僕がここにいるかなんて全く関係ないみたいに本に集中してしまったのか、堂嶌さんはそれっきり口を開こうとしない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『“見えないものに価値を見いだす”思考法』。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　堂嶌さんは群青色の表紙をめくる。目次にじっくり目を通し、前書きの小さな字に取り掛かる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　黒くてまっすぐな横髪の奥で、切れ長の目がまばたきをしながら字を辿っている。すらっとした長い指。難しそうな厚い本。膨大な知識。だけじゃない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　僕は自分の頭に手をやった。今朝直しきれなかった癖毛がまだ少し跳ねている。あと一年経ったら僕もあんな風になれるんだろうか。そう考えることすら何だかおこがましいような気がしてしまう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ぱらり、とページがめくれる。僕はペットボトルを握ったままだったことを思い出した。ぎゅっと目をつぶってごくごくと二口飲む。ちょっと渋い。冷たさがお腹の中に落ちて、じわじわと広がっていく。浅くなる息をどうにか落ち着かせたくて何度も深呼吸を繰り返す。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「僕、自分に自信が持てないんです」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　やっとのことで言葉にした。ペットボトルがきりきりと手の平を冷やしていく。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……なるほど」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　堂嶌さんはそれだけ言うと、本にひもの栞を挟んで閉じた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「もっとうまくならなきゃと思って、たくさん練習してきました。でもまだまだで。堂嶌さんたち先輩方も、九鬼くんも星乃くんもすごくて。全然追い付けなくて。僕が未経験者だから当然だって頭では分かってるんです。みんなの言葉を借りるなら、入部したばかりの頃よりできることも増えてきた……と、思うんですが……褒めてもらっても実感が持てないことがあって……本当に、だめですよね。こんなんじゃ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　蛇口をひねったみたいに止まらなかった。本当は心のどこかでずっと言いたくて仕方がなかったのかもしれない。でも、口に出してしまえばしまうだけ、解放感で空っぽになった心の中に罪悪感がどかどかと詰め込まれていく。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「褒めてもらっても実感が持てない、か……」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　堂嶌さんは本を膝から下ろして腕を組み、右手を顔の色んな場所に当てながら考え込み始めた。僕もそこでやっと思い出してペットボトルを隣に置く。堂嶌さんはなかなか喋ろうとしない。こちらを見ようともしない。一体何を考えているんだろう。やっぱり叱られてしまうだろうか。僕は背筋を伸ばして姿勢を正した。服のシワを整えたり、シャツの襟をまっすぐにしたり。それでもどきどきして落ち着かない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　堂嶌さんはしばらくしてから動きを止めて、口を開いた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「前提を覆すようで悪いが、結論から言うと無理に自信をつける必要はない。と俺は思う。まあ、あくまで個人的な考えだから鵜呑みにはしない方がいいかもしれないが」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……え？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　自信を付けなくてもいい。それはどういうことなんだろう。無理しなくてもいい？　無理しないと追い付けないのに？　このままでいたくないのに？&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ぴりぴりと痛む手の平が、吹いてきた風でひゅうっと熱を失う。僕は親指を隠すようにしてぎゅっと拳を握った。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「依吹。聴いた人全てが感動する演奏は、この世に存在すると思うか？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「え？　……そ、それはもちろん！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　突然話の中身が変わってしまった。驚く暇もない。とにかく僕は正直に大きく頷いた。だって初めて聴いたSwingCATSの演奏がそうだったんだから。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　なのに堂嶌さんは小さく笑った。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そうか。申し訳ないが、俺はそんな演奏は究極的には存在しないと思っているんだ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そんな……どうして」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　冷たい水を浴びたような心地がして、僕は思わず食らいつくように堂嶌さんの方へ体を向けた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　誰よりも音楽歴が長くて練習熱心な堂嶌さんが、何でそんな諦めるようなことを言うのだろう。諦めているなら何でそんなに練習ができるのだろう。堂嶌さんは嘘を付いたりわざと人を傷付けたりするような人じゃない。いつだって真面目で誠意のある人だ。でもだからこそ、この言葉が強い真実味を持って迫る。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　そこで堂嶌さんは例え話をしてきた。いま流行っている曲が全部素晴らしいと思えるかどうか。一流の歌手にも必ずといっていいほどアンチがいること。今では有名な歴史上の作曲家の中には、生前見向きもされなかった人たちが大勢いること。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「プロですらそうなんだ。アマチュアの俺たちなら尚更だろう」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　それは至極まっとうな意見で、現実だった。疑いようも、口のはさみようもない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……落ち込んだか？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「あっ……いえ、その……少しだけ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　僕は取り繕うのを諦めて頷く。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「でも、なら堂嶌さんは……どうしてそんなに頑張れるんですか？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　堂嶌さんは座ったまま身体ごと少しこちらに向き直り、斜めに座るような格好になった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「全員を感動させることはできなくても、全員に近付けることはできるだろう。俺が目指しているのはそこだ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「なるほど……」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「それに、努力が実を結ぶことを経験上知っているからだ。いい結果が出れば自信に繋がる。ただ、これは昔からピアノを弾いている俺にとっての結果論でしかない。もっと普遍的な精神論で語るなら……人を信じているからだ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　そこで堂嶌さんはふっと緩むような笑みを滲ませた。その瞬間、僕の脳裏に智川さんの笑顔が浮かんだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「といっても大したことはしていない。単純に人の言葉をそのまま受け取るだけだ。人からの厚意を歪めてしまうくらいなら、自分の私情というフィルターを通す必要はないからな」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　堂嶌さんはあっさりと言い切った。自分を捨てることが初めから勘定に入っているなんて。なのに堂嶌さんが犠牲になっているとは思えないのが不思議だ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「もし依吹が今考えているのがトモのことなら、だが。あのトモの言葉なんだ。子どもじみた言い方にいちいち全力で気を遣っていたら持たないぞ。素直に額面通り受け取っておけばいい」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「は、はい……」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　智川さんから、青は素直だなあとよく言われていたことを思い出す。そのたびに僕はそんなことないと首を振っていたように思う。そしてその後でいつも、これで良かったのだろうかと一人で考えていた。褒められて率直にありがとうございますと言えるほど僕は素直ではない。堂嶌さんに言ったように自信もない。でも僕が否定してしまうと、それはそれでいつも善意で褒めてくれる智川さんに失礼なんじゃないかという気持ちもあった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　智川さんはいつも温かい言葉をくれる。でも僕はそれをちゃんと受け取れていなかったのかもしれない。ずっと苦しかったのはそのせいだったのだろうか。堂嶌さんが言うように本当に智川さんを信じるなら、そのまま受け取ってもいいのかもしれない。僕の考えがどうであれ、まずは智川さんの気持ちを大切にしなきゃ。そして、智川さんへの尊敬や感謝の気持ちを伝えなきゃ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　僕が僕を認められなくても。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ペットボトルはまだ濡れている。ポケットからハンカチを出して拭き取ってからゆっくりと流し込む。少しぬるくて、さっきより甘さを感じる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　堂嶌さんはこれからも、必要とあらば例え厳しい現実でも堂々と突きつけるのだろう。でも、きっとそれだけでは終わらない。堂嶌さんは現実的だからこそ、そんな現実に合わせてこれからやるべきことの道筋を常に考えているのかもしれない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ありがとうこざいます。その……思い切って相談して良かったです」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そう言ってもらえて俺も嬉しいよ。トモのようにはうまくやれないからな。実は少し自信がなかったんだ。だが、依吹のおかげで前向きになれそうだ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　結果は自信を生むからな、と堂嶌さんはまた小さく笑って缶コーヒーを手に取った。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Tue, 05 Oct 2021 02:56:58 +0000</pubDate><guid>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/21870524</guid><dc:creator>h</dc:creator><category>メイン</category></item><item><title>[15]9月23日、祝日の午後</title><link>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/21549057</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;スイーツを前にゆるくだべる星屑1年トリオ。拓夢の誕生日絡みの話ですが日常感が強いです。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「煌真……！！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　奏斗はセンブリ茶でも飲まされたかのようなしかめっ面をした。これがゲームやアニメだったら闇魔法の一つや二つ飛んできそうな勢いだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「まあ、うまいもんとは聞いてたけども、さすがにこういうのやとは思うてへんかったなー……」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　名指しで「かやはしー、木曜の午後空いてる？　ちょっと相談乗って欲しいんだよね。お礼に奢るから！」と声をかけられてやってきた手前、文句を言うのは失礼だ。しかしこれ以上奏斗の機嫌を損ねるとまずい。ただでさえ周りのテーブルはヒラヒラキラキラオシャレ女子で満員御礼。拓夢たち男子高校生三人組は浮いているというのに。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「え〜、そう？　俺が自分から誘うつったらこういうとこしかなくない？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「いや、わかるけどそういう問題じゃない……っつうかもうどこからツッコんでいいのかわかんねえ……」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「氷室っち、それは同感や」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　これが四角いテーブルで隣同士に座ってたなら肩ポンの一つでもしてやりたいところだ。でもあいにくオシャレ全振りなこの店は全席丸テーブル。高い天井では茶色いプロペラみたいなファンがぐるぐると回っていて、キッチンの周りや壁際には何だかよく分からない小洒落た小物や雑貨がこまごまと並んでいる。このテーブルにも、小さな花瓶に背の低い花が何本か。食品を扱うからか造花だが、いかにもSNSに載せて下さいと言わんばかりの可愛らしいものだ。実際メニューの裏には店のSNSアカウントに繋がるQRコードと専用ハッシュタグが載っている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　早速煌真はその花瓶を手に取り色んな角度からしげしげと見回す。写真立てのようなメニュースタンドの脇にそれを置き、スマホを起動してこれまた色んな角度から写真を撮り始めた。しかも真顔で。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「煌真ちゃんさ、毎回思うんやけど写真めちゃめちゃ撮るんやな。それもSNSに載せるん？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そだよー」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　画面を見たまま煌真はのんびりと答える。奏斗が横向きに構えたスマホを連打しながら速攻で、&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「リア充乙」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　と呪詛を呟いたが痛くもかゆくもないらしく、&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「陰キャおつ〜」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　と目も合わせず余裕で受け流している。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「まあまあ、リア充がどうとかは置いといて……単純にガチ勢ってのはすごいと思うで？　俺はゆるくしかでけへんから……楽しいって思うこともあるけど、忙しい時はちょっと大変やなってなる時もあるし」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「だよねー。俺もそんなんだよ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「え？　いや、煌真ちゃん……楽しいからガチ勢とちゃうん？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「別に？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　煌真はテーブルにスマホを置いて頬杖をつき、きょとんとした顔でこちらを見た。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「女の子からいいねくるのは嬉しいかな。メッセも楽しいよ？　でもそれだけかなー。ぶっちゃけ更新は作業」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「いやいや、普通ただの作業にここまでせえへんやろ？　っていうか、そんなやばいぶっちゃけ話俺らが聞いても良かったん」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「二重人格かよ……ありえねー……」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「余計なお世話でーす。氷室だって作業ゲーやってんじゃん。あっ、きたきた」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　煌真はパッと顔色を変えてにこにこと女性店員を見上げる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「お待たせ致しました。ベリーカルテットパフェのお客様」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「はーい」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　煌真が手元のお冷を端に避ける。奏斗と拓夢も同じようにしてテーブルの中央を開けた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ごとん。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　名前の可愛さには似つかわしくない鈍い音が上がる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「うわ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　奏斗が小さな掠れ声を漏らした。フォローしたいところだが正直それどころではない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　分厚いパフェグラスはメニューの写真で見たイメージよりも二回りくらい大きい。一番下には赤っぽいドライフルーツのまざったシリアル。その上にピンク色のアイス、何かよく分からないオシャレなベリーが色々。その上にはさらに生クリーム、ベリー、バニラアイス、ベリーが続く。頂上はすごいオシャレな白とピンクと赤がてんこ盛り。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「レトロプリンアラモードのお客様」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「あっ、はい！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　自分のオーダーしたものをド忘れするほどのインパクトに頭がぼんやりしてしまっていた。慌てて手を挙げる。身構える猶予もなく、&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ごん。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　いやもうこれ舟盛りやん！！&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　そう口から飛び出す寸前でどうにか思いとどまる。脚の付いた横長の楕円形のガラス鉢の真ん中には王道の黄色いプリン。カラメルソースの上にホイップクリームと真っ赤なサクランボ。それを取り囲むようにアイスやフルーツがやんややんやと賑やかしている。内容はメニューの写真と同じなのに、実物のインパクトはすさまじい。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「こちらチョコバナナパフェのミニでございます」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「はい」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　最後に氷室の前に置かれたのはいたってごくごく普通の小さなチョコバナナパフェ。チョコホイップの絞り方やバナナの差し方に専門店らしい工夫が見えるが、サイズ感はファミレスのミニパフェと同じだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「じゃ、いただきまーす」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ドン引き半分と安堵半分でひどい顔つきになった奏斗と呆気に取られる拓夢をほったらかしにして、煌真は一人手を合わせ笑顔でスプーンを手に取った。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「あ、栢橋。誕生日おめでと。今日は氷室のおごりだから、いっぱい食べてきなよ？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「え？　誕生日って……いやいや、それもそうやけどこれ氷室っちのおごりなん？　誘ってきたの煌真ちゃんやから煌真ちゃん持ちやと思うてたで！？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「はあ……くっそ……ハロウィンガチャ爆死したらマジでお前のせいだからな……」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「それは俺との勝負に負けた氷室がいけないんじゃん？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　混乱する拓夢に二人とも一切説明はしてくれない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　煌真はパフェを手元に引き寄せスマホを持つ。座ったまま体の向きをくるりと変えて壁に背を向けると、さっきの真顔とは別人のような――しかしあからさまな作り笑いとは思えないごく自然な――笑顔を決めてパシャパシャと自撮りのシャッターを切り始めた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　なるほど、真っ先に壁際の椅子を選んだのは他のお客さんが写り込まないようにするためだったのか。いやいや感心してる場合ちゃうわ。拓夢は自分にツッコミを入れてもう一度口を開いた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「いや、だから誕生日って。この前盛大に祝ってもらったばっかやん」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「まあね〜」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「今日お前を誘ったのはこいつがこれ食いたかっただけだし」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「あっそれ言う？　氷室は無粋だなー、モテないよ？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「モテとかいらねえし」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「あっ、でも改めてちゃんとお祝いしたかったのはほんと。パーティーって楽しいからオレは好きだけどさ、先輩達もいるからちょっと気を遣っちゃうこともなくはないかなーって感じじゃん？　あとそろそろアンコンの練習も始まりそうだし？　オレら三人はまあ成り行きでいいとして、影山さんもいるわけで。その辺も一応はって思ってさー」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……無視かよ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　誕生日当日は拓夢以外の部員全員によるサプライズが組まれ、一級品のバースデーケーキや料理に食後のゲーム大会まで堪能してきた。日ごろ節約に生きる拓夢には夢のようでもあり、身に余るような気持ちも抱くもの。量はたっぷり用意されていたが、何しろ男子高校生八人で分け合うのだ。確かに煌真の言うとおり、全く気を遣わずに過ごしたと言えば嘘になる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　それにしても、まさかその数日後にこうして再びサプライズを受けるとは思ってもみなかった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　煌真は軽く言って流していたが、その実ほとんどの言葉は濁している。それでも言わんとすることは大体分かった。そうやって、分かってもらえる程度に曖昧な言い方をするのも煌真なりの気遣いといえば気遣いなのかもしれない。拓夢は奏斗への無視に乗っかりつつ冗談半分に返事をした。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ははーん。煌真ちゃんの私利私欲兼作戦会議ってやっちゃな？　どんな形でもお祝いしてもらえるのはほんまにありがたいで。こんな立派なもんご馳走してもろて。氷室っちもサンキュな」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ん」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　正直、思い返そうとしただけで背筋に走るものがある値段だった。とてもおやつ一食にポンと払える金額ではない。と拓夢の金銭感覚がリタイヤボタンを押しまくる。煌真が行き先を教えずにここに連れてきたのも、拓夢に遠慮させないためだろう。大事に頂かなくては。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「じゃ、お言葉に甘えていただきます！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　拓夢は力強く手を合わせて拝むと、細長いスプーンをぐっと握り、先端を包んでいた紙ナプキンを広げた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「で、煌真ちゃんは何かアンコンの作戦あるん？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ん？　ないけど？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「何でや！　自分で呼んどいて作戦ないって！　……ああ、作戦ないから呼んだんか」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「さっすが栢橋〜！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「はあ……で、氷室っちは？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ない。練習すれば吹ける」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「っかー！！　これやからお前らは！！　まあええけども！！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　どうにかなるやろ。というか、どうにかするしかない。今に始まった話じゃない。これまでだって、もうどうにもならへんと投げたくなるようなことは吐くほどあった。でも、何だかんだここまで来られている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　アンコンもその先も順調に乗り切れる保証はない。けれどもやっていくしかないのだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　前倒しでもらったボーナスみたいなもんやな。と、拓夢は黄色いプリンにスプーンを突っ込んだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「うわ、めちゃめちゃうまいやん！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「やば」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「やっぱここ来て正解だったねー」&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Thu, 23 Sep 2021 14:50:40 +0000</pubDate><guid>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/21549057</guid><dc:creator>h</dc:creator><category>メイン</category></item><item><title>[14]時代</title><link>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/21158729</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;朝のルバート。翔琉とおじいちゃん。変わるものと変わらないもの。抗えないもののなかでどうやって生きていったらいいのか。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;br&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「よし！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　両手を腰に当てて店内を見渡す。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　テーブルは隅々までピカピカ。紙ナプキンはタップリ。椅子もビシッと。パーフェクトな開店準備だ。自分の部屋や教室の掃除はこんなに頑張れないけれど、ここだけは違う。どんなに古くてもキレイなのがいい。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　小傷がいくつも入った窓枠に手をついて外を見る。スカッと晴れ渡った……というよりはちょっと淡い水色。筆で白い絵の具をサッサッと塗ったような雲が広がっている。本当はこの窓も全部開けてしまいたい。でもそれはできない。ルバートのルールだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　振り返ると、カウンターではじいちゃんがサンドイッチの仕込みをしている。こうして時間を余らせるくらい大急ぎで開店準備をした俺に比べると、じいちゃんは珍しくのんびりしたものだ。でも何かあった様子はなくて、いつも通りの鋭い目つき。カウンターの陰で手もしっかり動いている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　――ドン！　ドンドン！&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　突然窓の外から大きな音がして、俺はもう一度空を見る。花火のような音だったけれど、それらしいものは何も見えない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「もうそろそろか」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そろそろって……何が？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　開店まではまだ十五分以上ある。じいちゃんの顔を見ると、その目はさっきの俺と同じように外の方を見ていた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「小学校の運動会だよ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ああ！　そういえばそうだった」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　昨日の常連さんたちの話を思い出す。明日は孫の運動会だから朝から家族総出だと言っていたな。朝の花火を聞くと気合が入る、でも行かない人にとってはうるさい、時代に合わないからそろそろなくなるかもしれない、と。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「じいちゃん。運動会の花火ってやっぱ時代遅れなのかな」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そうかもしれないなあ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　使用済みのふきんを戻しに行く。茶色い木のカウンターはテーブルと同じようにバッチリ拭き上がっていて、ところどころに走る傷が朝日に照らされて白く光っている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　じいちゃんはマイペースでキュウリを刻んでいる。そうか、今日はモーニング好きの常連さんたちがほとんど運動会だから焦らなくてもいいのか。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「じいちゃん、仕事終わったからちょっと吹いてもいいかな」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ああ、とじいちゃんが頷く。開店準備が早く終わったら吹いていい。でも必ず許可をもらってから。これもルールだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　事務所に戻ってロッカーを開ける。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ずっと使っている青いトランペットケース。じいちゃんにねだって買ってもらってからもう何年になるだろう。十年くらいになるのか。それでもまだまだ現役だ。パチンと留め金を外して蓋を開く。相棒はいつもと変わりないピッカピカの姿でそこにいて、おはようと笑ってくれる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　そっと持ち上げてトリガーに指を掛ける。いつかジャズが時代遅れになってしまう日が来るかもしれない。そうなったらジャズ喫茶だってどうなるか分からない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ルバートも。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ぎゅ、といつの間にか握りしめていた手を緩める。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ダメだ。そういうのは考えちゃいけない。リョウが言っていたじゃないか。先のことを考えていいのはリスク管理というものができる奴だけ。できない奴は考えるな。今だけ見て今できることをやった方がいい。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　今できること。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　店内に戻る。小さなステージに向かって顔を上げる。空っぽのアップライトピアノとドラムセット。ベースの立ち位置。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ステージに上がる。とても舞台とは言えない、ほんの少しの段差。でも俺にとっては全ての始まりの場所だ。いつものところに立って振り向く。焦げ茶色の四角い扉。左右にふたつずつの四角い窓。ここからは見えないけれど、どこにどんな傷があるかを俺は覚えている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　トリガーに左手の指を掛け直す。右手の親指の場所を決めて、人差し指から順番にピストンにのせる。最後に小指。いつもの準備。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　よし。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ふうっと息を吸い込んで、吹き込む。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　朝が来る。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Fri, 10 Sep 2021 03:08:22 +0000</pubDate><guid>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/21158729</guid><dc:creator>h</dc:creator><category>メイン</category></item><item><title>[13]おじいさんとピアノ</title><link>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/21004805</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;お母さんとりょうくん。何もかもを捏造。※前半は架空の絵本の話です。いきなり始まります。平和なストーリーですが死ネタを含むので大丈夫な人だけ読んで下さい。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「でも、おじいさんはくすりをのんでも　よくなりません&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　おいしゃさんはいいました&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『ざんねんですが　わたしにはあなたのびょうきはなおせないかもしれません&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　うみのむこうのおおきなまちにいって　りっぱなびょういんにいったほうがいいでしょう&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　いまならまにあいます　このてがみをもって、なるべくはやくしゅっぱつしてください』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　おじいさんはなやみました&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　おおきなまちには、だれもともだちがいないのです&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　こどものころからずっといっしょだったおおきなピアノも、つれてはいけません&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　おじいさんはてがみをかばんにしまって、つえをついてもりのいえにかえりました&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　あぜみちにぽたぽたとなみだがこぼれます&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　しんぱいしたことりたちがとんできて、くちぐちにさわぎたてます&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『おじいさん、どうしたの？』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『びょういんにいってきたばかりじゃない』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　あおいことりがおじいさんのなみだをぬぐいます&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『だいじょうぶ、どこもいたくないよ』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　おじいさんはいえにつくと、いつものようにピアノのいすにこしかけます&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『ピアノだ！』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『おじいさん、ひいてくれるの？』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ことりたちはまどべにいちれつにならんで、いまかいまかとまちわびます&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　おじいさんはふめんだいにかみのたばをおきました&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　でも、まっしろです&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『おじいさん、それはがくふなの？　まっしろだよ』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　しろいことりがくびをかしげます&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『ああ、きょうからおんがくをつくるんだ』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『おんがくをつくるって、どういうこと？』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『みててごらん』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　おじいさんはピアノをひきはじめました&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　しわがれたゆびが、やさしくけんばんをたたきます&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　するとどうでしょう&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　とんとんとん　たんとんたん&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　らんらら　らんらら　らりらりら&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　おじいさんのゆびがきらりとひかって、ちいさなひかりのつぶがふわりふわりとただよいはじめたではありませんか&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ことりたちはうたうことをわすれてしまいました&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　まんまるになっためでひかりをおうばかりです&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　おじいさんはときどきかみをちらりとみますが、やっぱりそこにはまっしろのかみしかありません&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　とんとんとん　たんとんたん&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　らんらら　らんらら　らりらりら&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ゆうがたからはじまったピアノは、ことりたちがねむるよるまでつづきました&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　そのつぎのひも、そのまたつぎのひも、おじいさんはピアノをひきました&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ときどき、しろいかみにはねのついたペンでしきりになにかをかきつけます&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ひいてはかき、ひいてはかく&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　まえのひとおなじせんりつのひもあれば、まったくちがうひもありました&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ことりたちはまいにちまいにちまどべにならび、かたずをのんでみまもります&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『みんな、もういつものようにうたってはくれないのかい？』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『だって、おじいさんがとてもいっしょうけんめいだから』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『いままでのピアノとぜんぜんちがうんだもん』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『そうかなあ』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『そうだよそうだよ』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ひがたつにつれて、おじいさんのピアノのおとはだんだんちいさくなっていきます&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『おじいさん、だいじょうぶ？』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『やっぱりぐあいがよくないの？』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ことりたちはたずねますが、おじいさんはだいじょうぶだよとやさしくくびをよこにふるばかり&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　でも、おじいさんのことばとははんたいに、ゆびからうまれるきらきらはどんどんちいさくなっていくのです&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　そのばん、おじいさんはベッドからいつものようにほしをながめていました&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　くろいきのかげのむこうに、きんいろのほしがぴかぴかとまたたいています&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　しばらくみていると、すうっとひとすじのながれぼしがおちてきていいました&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『おじいさん、ねむれないのかい？』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『ああ、まいにちおんがくをつくってとてもつかれているはずなのに、なんだかきょうはうまくねむれないんだ』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『それはいちだいじだ　じゃあぼくがねがいをかなえてあげようか』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ながれぼしはふふんとちいさなむねをはり、きんいろのしっぽをゆらしました&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　でもおじいさんはくびをふります&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『だいじょうぶ　あしたにはきっとできあがる　そうしたらすぐにぐっすりだ』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『そうかい　ならこうしよう&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　おじいさんのおんがくでみんながしあわせになれるように　ぼくがてつだってあげる』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『それはめいあんだ』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　つぎのひ、おじいさんはあさはやくにめをさましました&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　とてもよくはれたひです&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　まどをあけると、おとをききつけたことりたちがまってましたととんできました&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『おはよう、おじいさん』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『きょうはいちだんとはやおきだね』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『そうなんだ　きょうはすごくいいおんがくがつくれそうだよ　きっといままででいちばんさ』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　おじいさんはつえをたよりにピアノのいすにこしかけて、ふらふらとけんばんにてをおきます&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　とんとんとん　たんとんたん&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　らんらら　らんらら　らりらりら&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　らんらんらん　るんらんらん&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　たんとんたんとん　たりらりら&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ちいさなもりのいえに、ふわふわとあたたかいかぜがはいってきます&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　あんなにちいさかったひかりのつぶは、どうしてでしょう&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　きょうはことりたちとおなじくらいにおおきくて、やわらかくて、かぜにのってそとにとんでいくではありませんか&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ことりたちはついにうたいはじめました&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　おじいさんはふりかえってにっこりとわらいます&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　そうしてひきおわると、またしろいかみにはねのペンでしずかになにかをかきつけ、いままでかいたかみのたばといっしょにおおきなふうとうにいれました&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『おじいさんありがとう、とてもすてきなおんがくだね』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『こんなのきいたことないよ』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『とてもしあわせなきもちだ』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ことりたちははねをぱたぱたさせます&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　おじいさんはまたにっこりわらっていいました&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『ありがとう、きっとおんがくもよろこんでいるよ』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　そうしておじいさんはベットにはいってめをとじました&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『おじいさん、まだあさだよ』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『めずらしいね』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『ああ、きょうはとてもいいおんがくができたからね　ちょっときゅうけいだ』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『そうなんだ　おじいさん、たくさんがんばったもんね　ゆっくりおやすみ』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『わたしたちもねよう』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『そうしよう』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ぽかぽかとしたおひさまがみんなをつつみます&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　だれもがとてもみちたりたきもちでした&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　さいしょにめをさましたのはしろいことりでした&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　つぎに、きいろいことり、あおいことりがおきあがります&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ことりたちがみんなめをさましても、おじいさんはなかなかおきません&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『たいへんだ、おじいさん、いきをしていない』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　むらさきのことりがおじいさんのむねにとまっていいました&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『たいへんだ』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『どうしよう』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ことりたちはぴいぴいとなきだしました&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ちいさなちいさななみだがおじいさんのもうふをぬらしてみずたまりをつくります&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　そうしてのどがかわくくらいないたころ、きいろいことりがテーブルをみました&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　みんなもテーブルをみて、それからかおをみあわせました&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ことりたちはおおいそぎでもりへとんでいき、てごろなえだをかきあつめました&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ふくざつにくみあわせてつくったのは、おおきくてじょうぶなかごです&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ことりたちはそこにおじいさんのふうとうをいれると、もちてをあしでしっかりとつかんでとびたちました&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『しゅっぱつだ』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『いこう、うみのむこうのおおきなまちに』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『おんがくをとどけに　なるべくはやく』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ふうとうはとてもおもくて、うっかりするとおっことしてしまいそう&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　それでもことりたちはくじけません&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　しおかぜと、あおくひかるまぶしいうみにむかってうたいます&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　とんとんとん　たんとんたん&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　らんらら　らんらら　らりらりら&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　らんらんらん　るんらんらん&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　たんとんたんとん　たりらりら」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……おしまい」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　その言葉を口にするのもやっとだった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　私は鼻をすすった。絵本を持つ手に涙が落ちそうになり、慌ててそっと閉じて息子に手渡す。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　裏表紙の晴れ渡った海が滲む。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　息子は受け取った本を脇に置いて立ち上がると、ティッシュの箱を手に戻ってきた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「いいおはなしだったね」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……そう、ね」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　一枚で十分よと言いかけたけれど、言わなくてよかった。三枚目のティッシュを引き抜いて鼻に押し当てる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「なかないで」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「うん」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「おかあさんはなきむしだね」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「うん、そうみたい」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「でもぼくがいるからだいじょうぶ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ありがとう。頼もしいわ。りょうくんはもうりっぱなおにいさんね」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「まいにちれんしゅうしてるからね」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　息子はそう言い残して、リビングの中央にあるグランドピアノへ一直線に向かった。座面に手を付いてよいしょと腰をのせる。よじ登ってはうまくいかずに母の助けを呼んでいた頃が遠い昔の頃のようだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　息子は腰を落ち着けると、しばらく上を向いたり鍵盤を見下ろしたりして何やら考えごとをしている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「おかあさん、ひいてみてもいい？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「いいわよ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　私は何枚目かもわからなくなったティッシュをゴミ箱に捨てた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「とんとんとん、たんとんたん……&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　らんらら、らんらら……らりらりら……」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　息子は右手と左手を交互にせわしなく見やりながら、ゆっくりと一音ずつ押し込むように弾き始めた。少しテンポが遅れて小さなハミングが聴こえてくる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「こうかな。なんだかちがうきがする」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そんなことない。とっても素敵よ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　いつの間に即興が出来るようになっていたのだろう。しかも弾き語りだなんて。私は片付けようとしていたティッシュ箱を再び引き寄せ目元を拭った。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「おかあさんはどんなのにする？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そうねえ……」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　私は呟いて立ち上がる。息子のハ長調が正解でいいのについ真剣に考え込んでしまう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ぼくはとりになりたいんだ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　息子はそろそろと席を降りながら口を開いた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そうなの？　前はピアニストになるって言ってたじゃない」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　空いた席に私は腰を下ろす。温かくてやわらかい。大きな掃き出し窓から燦々と注ぐ日差しが白鍵を照らしている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「うん、それもそうなんだけど。いまはとりがいいんだ。ちからもちのとりがいい。おもいがくふをはこぶんだ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そうね、とても素敵だと思う」&lt;/div&gt;&lt;div style=&#34;text-align: left;&#34;&gt;　私はこみ上げるものをこらえて呼吸を整え、ト長調を弾き始めた。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Mon, 06 Sep 2021 15:12:28 +0000</pubDate><guid>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/21004805</guid><dc:creator>h</dc:creator><category>メイン</category></item><item><title>[12]フェスに行こう！</title><link>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/20652152</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;大和入部前のSC。愉快な初期メンカルテット。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「フェスってさ……何かよくないか？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　それまで窓の外を眺めていた翔琉が突然振り返った。また始まったと優貴が眉間のシワで反旗を翻す。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「フェスっつーと、外でロックやるやつか」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ロック以外の音楽祭もフェスと呼ばれるがな。実際のところ特にジャズは少ないし、あったとしても規模は小さい」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　光牙はペットボトルの赤い蓋を閉めて床に置いた。燎もピアノの前の椅子に腰掛けたまま身体を三人の方向に向ける。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そう、少ない！　でも少ないだけで、あるんだなあ〜これが！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「マジかよ！　いつだ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　翔琉は大げさに頷いて胸を張る。光牙はすぐさまスツールから立ち上がって食い付いた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「えーっと……いつだったかなあ……リョウ、分かるか？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「いつって……その前に場所だろ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　優貴はげっそりとうなだれて部室の隅の椅子に腰掛ける。その小さな呟きは三人の耳に届く前に床に落ちて砕けた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「確か来月だったはずだ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「来月！？　すぐじゃねえか」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「よし行こう！　場所この辺だったろ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　翔琉は窓際からピアノの前に歩み寄る。光牙も続いてやってきた。燎は頷いて、スマートフォンでウェブサイトを開き二人に差し出す。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そうだな、会場には電車で行ける。そう遠くはない。アマチュア部門のエントリーは……明日までか」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「あ？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「え？　俺たち出るの？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「はあ！？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ん？　出るつもりだったんじゃないのか？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　光牙が前のめりになり、翔琉がぽかんと口を開き、優貴が声を張り上げて突っかかった。四人はそれぞれに顔を見合わせたが、誰一人として腑に落ちた表情にはならない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　開けっぱなしの窓からさっぱりと乾いた風が勢いよく吹き込んでカーテンを大きく膨らませる。ぱたぱたとはためく音の奥のほうには、釘を打つ音や演劇部の声出しが小さく響いている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　全員がたっぷりとそのBGMを味わったところで、優貴の大きなため息が全てを上書きし終止符を打った。翔琉が戸惑いながら口を開く。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「いや、いやいや……だってさ、そのフェス、文化祭の次の週じゃん？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そうだな。だから俺は誰かがどうしても出たいと言い出すまで黙っていたんだ。無理なスケジュールになるからな」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「うん、わかる。わかるけど！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　翔琉は燎の肩に手をかけ、ぽんぽんと叩いて首を振る。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そんなこと言われたら、ど〜〜しても出たくなっちゃうだろ！？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……そう、なのか？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　翔琉は空いていた手をも燎の肩にのせて力をこめるが、燎は依然として要領を得ないといった表情で首を傾げるばかりだ。翔琉は振り向いて同意を求める。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そうに決まってる！　なあ光牙！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「当然だ。外で思いっきりドラムを叩く！　最高じゃねえか」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……これだから脳筋どもは」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　優貴の怨嗟が床を這う。その目は窓の向こうの穏やかな晴れ間を睨みつけている。しかし、&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「温室育ちのおぼっちゃんには言われたかねえなあ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「は！？　何だとこの……」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　と光牙の痛烈な応酬にはたまらず立ち上がり、かかとをミシリと鳴らした。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「はいはいストップストーップ！　とにかくみんな出たい！　それでいいか？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「俺は出たいなんて一言も」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「逃げるのか」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「だから誰がそんなこと！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「じゃあ出る！　それでいいじゃねえか」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　翔琉が声を張り上げて仲裁に入っても、光牙と優貴の口論が止まることはない。強引に蹴りを付けにかかった光牙に優貴はいよいよ髪を逆立てんばかりだ。翔琉はそんな二人分の意見をポンとまとめてポイと燎に投げた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「よーし決まり！　リョウ、エントリー頼んでいいか？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ああ、申し込んでおくよ。定員があるから必ず出られるとは限らないぞ？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「オッケー！　さーてフェスかあ！　はあ〜楽しみだなあ！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　翔琉はガッツポーズを決めて両手を天に突き上げる。大きく伸びをして肩をぐるぐると回すと、光牙がその背中をバシンと叩いて応じた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「曲決めようぜ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「だな！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「何で出られるのが前提なんだよお前ら……！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　優貴は一人声を荒げて足を踏み鳴らした。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Fri, 27 Aug 2021 16:40:21 +0000</pubDate><guid>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/20652152</guid><dc:creator>h</dc:creator><category>メイン</category></item><item><title>[11]私は看板猫である</title><link>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/20306490</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;猫視点。フォロワーさんの素敵なツイートから設定をお借りしました。ありがとうございます。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&lt;span style=&#34;-webkit-text-size-adjust: 100%;&#34;&gt;&lt;br&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;span style=&#34;-webkit-text-size-adjust: 100%;&#34;&gt;&lt;br&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　私は看板猫である。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　でも、私の名前は看板猫ではない。自分から名乗った記憶もなければ――そもそも猫だから喋ることはできないのだけれど――そうなりたくてなったわけでもない。ただこの古い喫茶店で日がな一日のんびり過ごしていたら、ある日誰かが私をそう呼び始めたのだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ご主人がレコードを入れ替える。黒い円盤がくるくると回り出してふわんふわんと新しくて古い音楽が流れる。確かこれは……。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ニャアン。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　チェット・ベイカー、と言う代わりに私は小さく声を上げてご主人の足元にすり寄る。開店時間になったらご主人はキッチンの仕事にかかりきりになってしまう。自慢の料理やコーヒーに猫の毛が入っては沽券に関わる。こうやって黒いズボンの裾に首の後ろをこすりつけていいのは今だけだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　猫のいる喫茶店と呼ばれるのが実はあまり好きではない。でも私は喋れないし、ご主人も止めはしない。ここはそういう店だ。コーヒーしか飲まないお客。オレンジジュースとデザートしか頼まないお客。ホットサンドとカレーとコーヒーゼリーをぺろりと平らげてさっさと出ていくお客。座っているより演奏している方が長いお客。そんな風に色んなお客がいて、誰も何も文句を言わない。猫の毛さえ入らなければ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「いよいよ俺らもお迎えが来るのかねえ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　いつか常連のお客がご主人に言っていた言葉を思い出す。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「どうだろうな」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ご主人は下を向いていつものようにグラスを磨きながら短く答えていた。腹を立ててもいないし、恐れてもいない様子だった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　私の寿命は私が思っている以上にきっと短い。お迎えとやらが本当に来るとして、それは私が先なのかご主人が先なのか。でも、猫である私には何もできない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　私にできることは、ただこうして毎日ジャズとコーヒーとスパイスに満ちた店で尻尾をゆらゆらさせることだけだ。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Tue, 03 Aug 2021 03:31:37 +0000</pubDate><guid>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/20306490</guid><dc:creator>h</dc:creator><category>メイン</category></item><item><title>[10]七月三十日</title><link>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/20306513</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;家族シンメ。七月と八月のあいだの深い溝。まとわり付くあの日の記憶。拓夢の過去と栢橋家を捏造。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　かちゃ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　傷だらけのドアレバーが店内に蓋をする。軽快なジャズトリオがすうっとフェードアウトしていく。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「はあ…………」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　長い長いため息が誰もいない控え室にぼうっとモヤのように広がって、微かなウッドベースのソロと混じり合って消える。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　閉め切られた窓の向こうから、ジリジリジリジリとセミの鳴き声が聞こえる。耳から入ってきた騒音が頭を揺さぶる。目の前の景色があの日に塗り替えられていく。止めなきゃいけないのに自分で自分の足が止められなくて、そうこうしている間にふらふらと引っ張られるように窓辺が近付いてきて、&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「あかん」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　八月が迫りくる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　大量の絵の具を水に溶かしたような真っ青な空。べたべたと手で塗りたくったような雲。こどもがふざけて遊んだみたいな真夏の真っ昼間。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ほんま、」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　祖母の声が聞こえないくらいのセミの大声。それすらつんざく上の弟の絶叫。きょとんとしている下の子の丸い目。ちぎれんばかりに振り回される自分の右腕。ほどけて落ちそうな左手の指先。真っ黒なワンピース。夏休みの学ラン。白黒の垂れ幕。花。煙。額縁で笑う、&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ほんま、何やねん……！！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ぶわあっとガラス越しの熱気があの煙の臭いをまとって顔じゅうを覆う。目をつぶっても耳を塞いでも鼻をつまんでもあの時の上の弟のように泣き叫んでも何も変わらないのは分かっている。それでも、それでも首くらいは振りたかった。窓枠をぎゅうっと握りしめて涙をにじませるくらいはしたかった。レイが来るまでの五分でいい。そうしたら少しは、&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ヒロ〜！　まかないお待ちデス！　今日は新作ですよ！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　見られた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　背中の中心から頭のてっぺんに向かって冷たいものが一瞬で駆け登り、窓枠から指先がびくんと跳ね上がる。胃が縮こまる感覚に胸がぎりぎりと締め上げられ、何もない中身が震える空気になって開いた口からじわじわと漏れ出していく。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　いや、背中だけや。落ち着け。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　この間〇・二秒。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　昨夜スマホで見た動画サイトのコメントが頭の中の下のほうに小さく映る。肺の奥のスイッチを無理やり入れて一発で普段の栢橋になる。額の汗を手の甲で拭って振り返る。クーラーが効いていても窓際は暑いから。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「へえ〜、何や新作って。トモさんに教えてもろたん？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ハイ！　でもワタシもちょっと一工夫。It&#39;s spicy」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「スパイシーか！　夏はガツンと！　やな」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　エプロンを身につけたレイは、まかないをトレイごとテーブルに置いて拓夢に顔を向けた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ヒロ……Are you alright?」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　澄んだ金色の目。何の疑いもない眼差し。意識をかき集めて据えたばかりの視線が、力を失ってぽとんと死に際のセミになりかける。本当にそうやって死ぬのかは知らんけど。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……ああ、大丈夫。アイムオーライ。でもどうにも暑くてなあ……しんどいっちゃしんどいわ。レイちゃんもきついやろ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ハイ。日本の夏、本当に暑いですね」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「無理せんと、ちゃんと休んでな」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ヒロも。Take care」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　レイは優しい語尾でにっこりと微笑んで控え室を出て行った。陽気なトランペットソロが一瞬だけ聞こえて、ドアがかちゃんと閉まるのと同時に小さくなる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「テイクケア、かあ……」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　椅子を引いて腰かける。そこでやっと、せっかく作ってくれたまかないにろくなリアクションも取れていなかったことに気が付いた。何作ったん、うまそうやな、ありがとう。ありがとうすら言えていなかったのだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　天井を向いて口からモヤを吐く。それが白くなることはないし、あの煙の臭いに染まることもない。大丈夫、ルバートは全席禁煙だ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　肩で大きく深呼吸をしてまかないに手を伸ばす。キッチリ四方の閉じられたホットサンドが二つ。グラスのアイスコーヒーが一杯。プレートの下には紙ナプキンが一枚。しかしそこに何かが書いてある。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「おつかれさまです:）」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　シワの寄った白い紙ナプキンにのたうつボールペン。ゆがんだひらがな。やけにバランスのいい顔文字。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「レイちゃん……」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　再び見上げた天井が、ゆらりと白く揺らいで滲んでいく。はあ、と小さく息をすると喉の奥が少し痛んだ。すすった鼻の前で、こんがり焼けたパンの香ばしさがほわほわと漂っている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　紙ナプキンをトレイから離れたところにそっと置いて、ホットサンドを取り上げる。まだ芯には温かさが残っていて、そこでやっと頬が緩んだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　角にかじりつく。カリカリのトーストがサクサクと砕けてバターの香りが上がったと思ったら、溶けたチーズがとろりとはみ出て伸びてきた。空中で橋になったチーズを慌てて口でたぐる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ミートソース……？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　食べかけの断面に、まだ辿り着いていない赤いものが見える。ちょうどいい温度だった一口目に味をしめ、安易にかぶりつく。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「うわ、かっら！！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　口に入れた瞬間ビリッと痺れるような痛みが走って思わず声を上げてしまう。スパゲッティ用のミートソースに唐辛子か何かが入っているのだろう。タバスコかもしれない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　キンキンのアイスコーヒーが口の中を鎮めてくれる。冷たい息を吐く。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　窓の外は変わらず青い。暑くて外には出たくないしセミの声は聞きたくない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　でも、よく晴れた日だ。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Thu, 29 Jul 2021 15:16:55 +0000</pubDate><guid>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/20306513</guid><dc:creator>h</dc:creator><category>メイン</category></item><item><title>[09]あの日の話をしよう</title><link>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/20306421</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;燎・光牙・優貴がインビジ1stのビンタの話をします。光牙が仲間思いゆえにロランのことをあれこれ言います。このSSに特定のメンバーをDisる意図はありません。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……なあリョウ」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「どうした」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　光牙は丸いスツールに腰掛けたまま燎を見上げた。右手には今日の仕事を終えたドラムスティックがある。その声はいつになくためらいがちで、それでいてどこか確かめるような口調だった。燎はピアノの蓋を丁寧に閉めて振り返る。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……珍しく歯切れが悪いじゃないか」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　なかなか口を開こうとしない光牙に燎は手を腰に当てる。いつもならすかさず斬り込む優貴も、今は壁に背中を預け腕を組み押し黙っている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「あー……いや、その。……クソッ！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　そんな二人に光牙は一人で悪態をつき、両足を床に叩き付けて立ち上がった。三人だけの部室にドスンと大きな音が響く。燎はまばたきをし、優貴は顔をしかめる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　光牙はドラムスティックをスツールに置いてずかずかと歩み寄る。しかしそれもたった数歩。燎から随分離れた所で止まってしまった。燎はじっと観察するように光牙を見つめ、首をわずかに傾けた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「リョウ。……鳴海をどう思ってる」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　やっとのことで光牙が口を開いた。その低い唸りように燎の眉がひくりと動く。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「つかあいつと同じクラスで何とも思わねえのかよ。あいつは翔琉に」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「…………なるほど、そういうことか」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　押し殺すような光牙の声色は、怒気が出たり消えたりを不安定に繰り返す。それを受け止めるように燎は重々しく頷いた。グランドピアノの黒い椅子を引き出して光牙に向けて置き、手近にあった別の椅子を運んできて向かいに据えた。翔琉がよく使っている物だ。光牙は口を開けて燎を見返したが、頷く燎に従い黙って腰を下ろした。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ユウ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……はあ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　離れた自分の定位置に座ろうとしていた優貴に、燎は目ざとく声を掛ける。優貴は渋々手元の椅子を運び、二人の間に置いて腰掛けた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「これは俺個人の問題じゃない。俺たちの問題だからな。だからコウも気にしていたんだろう？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……まあ、な」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　光牙はぽつりと漏らして俯く。燎は腰を下ろしつつ、推測が当たって良かったという風に二度頷く。そして少しためらってから口を開いた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「結論から言う。今回の件は手を出した俺も同罪だ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「はあ！？　何でだよ！　お前は悪くねえだろうが。あいつが翔琉の弱みにつけこんで一方的に！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「落ち着け」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そうだ最後まで聞け。ただリョウ、正直言って今回ばかりは俺もコウに同感だ。そんなにあいつの肩を持つ必要なんてないだろ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「別に肩を持っているつもりはないんだがな。暴力に頼らず片が付くならそうした方がいい。コウなら分かるだろう」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……ああ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　光牙は膝の上で両手の拳を握りしめる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「鳴海の考えていることは大体わかる。それは今も変わっていない。やり方にそれなりの理屈が通っているからな」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「どこがだよ！　相手チームのリーダーを引っこ抜くことに理屈も何もないだろうが！　こっちの気持ちはどうなんだよ！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　かぶせるように光牙が吠える。燎はゆったりと組んだ脚の上で指を組み合わせて息を付いた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「だからそれなりにと言ったんだ。鳴海の手段には何というか……思いやりがない、というべきか。相手を精神的に追い込んで本質を引き出すのが得意なんだろう。合理的だが非情でもある」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……どういうことだ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　目をギラつかせていた光牙の眉間にピクリと皺が寄る。燎は指を口元に当てて少し考えてから話し出した。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そう……だな。根性のある奴は追い詰められて苦しんでも必ず立ち上がる。この考えは分かるか」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ああ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　砕かれた言葉に光牙は顔を上げ、燎を真っ直ぐに見据えて大きく頷く。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「なら簡単だ。ポテンシャル……まあ、本物の熱意や強いやる気だと思ってくれ。そういうものを持っている人間は、一度の挫折や悩みで諦めると思うか？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「いや、それはねえだろうな」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「なるほど、それがカケルってこと」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ああ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　光牙の即答に優貴が結論を先取りする。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「大体分かった。鳴海はカケルを試した。お前が本物ならこの状況下でも自分で解決できる。俺が認めたライバルならやってみせろ。そんなこともできない奴が率いるSwingCATSに用はない。ただしカケルは捨てるには惜しいから星屑がもらう。リーダーの資質がないならないで、優秀ないちトランペッターとしてキープしたい。そういうことか」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「どっちにしろ腹立つ話じゃねえか！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　光牙は手の平を膝にバシンと叩きつけ、腹の底から吐き捨てる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「だから落ち着け。思いやりには欠けるとさっき言っただろう。とにかく鳴海の動機は分かったな？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ああ、大体分かったよ。ったく、それならそうとちゃんと言えよな」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「それじゃあ意味がない。自力で答えを出して這い上がってこれる人間こそが、鳴海にとっての本物の逸材なんだ。理由を明かしてしまったらただの励ましだからな」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「めんどくせえ！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　光牙は頭をガシガシと掻きむしった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「仕方ないだろ。単細胞とはとことん相性悪い相手なんだから」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「んだとてめえ！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　優貴は鼻を鳴らし部室の扉の方に顔を背け、癖毛を耳にかけながら混ぜっ返した。燎はリラックスしたように目を伏せて息を吐きながら苦笑する。光牙は体ごと優貴の方を向いて食ってかかり、今にも立ち上がらんとする勢いだ。しかし、&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「で、いつまでそこに突っ立ってるつもり」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　と言う優貴の呆れた声に光牙はぴしりと固まってしまった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「あー……ごめんな？入るタイミングなくしちゃって……」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　気まずそうに笑いながら、出入口の引き戸の陰から翔琉がそろそろと顔を覗かせる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「翔琉！　聞いてた……のかよ。せっかくお前が……いない時にって」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　いよいよ立ち上がった光牙だったが、張り上げた声はすぐに勢いを失ってしまう。入ってきた翔琉がその背中をぽんぽんと叩いた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「その……うーん……ちょっとだけだぞ？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「嘘は良くないな、トモ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「リョウ！　ほんとのこと言っちゃだめだろ！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　サラリと述べた燎に翔琉は食い気味にツッコミを入れて、見事に墓穴を掘った。ここぞとばかりに優貴が冷酷な追い打ちをかける。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「あーあ、引っ掛かった」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ああ！！　くっそー……リョウ！！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ふふ、鎌をかけてすまない。おかしくてな。ついからかいたくなってしまったんだ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「このタイミングでかよ！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「だからだ。俺はもう大丈夫だし、トモもそうだろう？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ああ。俺はなーんにも気にしちゃいない！　コウ、気い遣ってくれてあんがと！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「その、俺は別に」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「はあ……素直になれよ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「お前が言うかよ！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　優貴は無言で椅子を抱えて背を向けた。燎もピアノの椅子に手をかける。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……え？　お前らもう帰んの？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「何を言ってるんだトモ、時間を見て…………いや、そうだな。コウ、何がいい」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　少しの間訝しげに燎を睨んでいた光牙だったが、合点がいったと手を腰に当ててにやりと笑った。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「あれにしようぜ」&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Sat, 10 Jul 2021 03:16:06 +0000</pubDate><guid>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/20306421</guid><dc:creator>h</dc:creator><category>メイン</category></item><item><title>[08]枯れ木に黎明</title><link>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/20300901</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;盆栽を鑑賞するワビサビ。時代の流れ。文化と財産の継承。※燎の祖母を捏造　&lt;/div&gt;&lt;div&gt;寄稿:書の鑑賞の続きですが、未読でも構いません。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「大和、すまない。待たせてしまったな」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「いえ、僕も先ほど来たばかりで……おや、珍しいですね。藍染めですか。よくお似合いで」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　大和が振り返る。ダークグレーの羽織に、コンパクトに巻き付けた厚手の深緑色のストール。その下には前回と同じ白い着物が覗いている。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ありがとう。久しぶりで落ち着かないが、祖母の機嫌を取っておこうかと」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　着物を着ていきたいと切り出した俺に、祖母は待ってましたとばかりに一瞬口元だけで笑った。それからすぐに表情を引き戻し、せっかく似合うんだからもう少し頻繁に着て欲しいんだけどねえと畳に膝をついて和箪笥の引き出しを開けた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　祖母の気持ちが理解できないわけではない。好きなものを誰かと共有する喜びは十二分に知っている。その相手がいないことの強い孤独感も、今なら。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　しかしどうしてもピアノと音楽が頭を占めてしまう。他の大切なものにどれだけ意識を割いている時でも、頭のどこかに常に音楽が存在していて何かの拍子に顔を出してしまうのだ。自分はきっとこの先も、ずっとこうして生きていくのだろうという予感すらしている。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　その予感が当たっていたと確証が得られた時、そこに祖母はいるのだろうか。常に溌剌としたあの祖母だ。今日明日に何かが起こるとは到底思えないが、今のうちに目に見えぬ財産を継いだほうがいいのではないか。姿見の前にテキパキと着付けの品を広げる背中にそんな感慨を抱いてしまった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　大和は窓口で入場券のやり取りをしている。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　何でも、自宅を出入りする植木職人のつてで時々招待券を譲り受けるらしい。家族以外で同行してくれる人間がそういないとのことで、俺にお鉢が回ってきたようだ。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　盆栽に関しては全くの門外漢だが、文化に造詣の深い大和の誘いとあらば興味が湧いてくるというもの。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「すごいな……」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「なかなか悪くないと思いませんか？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　半券を手に園内へ足を踏み入れると、今までに見たことがない類の日本庭園が広がっていた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　奥の方には純和風の平屋の建物が並び、その手前が広い長方形の庭園。地面は全て舗装されており、中央にはブロック造りの丸い池。その周囲に部分的な芝生や砂利のスペースがあり、要所に盆栽作品が展示されている。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　全体的に人工物が非常に多い。庭園というよりは公園のような印象だ。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「大和。無粋な質問で悪いが、鑑賞のポイントを聞いてもいいだろうか。予習にあまり時間が割けなかったんだ」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「もちろん。ただ、特に難しく考える必要はありませんよ。盆栽は自然を再現したものです。ミニチュアみたいなものだと思って下さい。書と同じではじめは全体の形や雰囲気を感じ取るだけで十分……ですが、やはり君には具体的な方法が合っているでしょうね」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「助かる」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　大和は頷いて先行する。引き締まった冬晴れの空気に、水色の髪がふわりと波打つ。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「例えば……そうですね、分かりやすいのがこちらでしょう。まず葉の様子を見てみましょうか」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　その言葉に従って俺はしげしげと観察した。松のようだ。思い描いていたものよりもかなり大きい。鉢は腰の辺りだが頂点は目線の高さに近い。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　青々とした葉がこんもりと山の形に膨らんでいる。美しく整った見事な曲線だ。針のような葉先は全て上を向いている。張りがあり、色が濃くみずみずしい。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「その見方で間違いありません。さすがですね」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　思った通りのことを率直に口にしてみると、すかさず褒め言葉が返ってきた。大和の性格を加味しても、少なくとも大外しではなかったと思いたい。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「大和の教え方が分かりやすいからだよ」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そんな……堂嶌先生のご指導ご鞭撻のおかげですよ」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　大和は穏やかに微笑んで、次は幹と枝を見るように勧めてきた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　幹は深い茶色。乾いた表面には剥がれているところもあるが、どっしりとした風格がある。根はどれも太く、力強く地面を捉えている。大きく広がった枝にも安定感があり、しっかりと葉を支えている。多少の風が吹いてもびくともしないだろう。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　大和は最後に鉢と作品名を確かめるように促した。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　鉢は大ぶりで明るめの茶色。横長の台形を逆さにした形だ。きりりと角張っており樹木の力強さに引けを取らない印象だ。作品名を確かめる。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「青雲」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「はい。なるほどと思うでしょう」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「確かに……」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　俺は腕組みをして唸った。ミステリー小説で謎が解けた時の瞬間のようだ。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　それから俺は大和に付いて助言を得ながら作品を巡った。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　やはり大和の言う通り書に通じる奥深さがある。音楽にも共通点はあるかもしれない。ひと目見ただけで作品の意図がわかるもの、そうでないもの。幼い頃から慣れ親しんできたであろう大和ですら真の理解は難しいのだと言う。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　その大和がふいに動かなくなった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「おや、これはなかなか……うーん……」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　大和は独り言を漏らして作品を凝視している。目付きを鋭くして前屈みになったり、側面に回り込んで腕組みをして頬杖をついたり。珍しく自分の世界に入り込んでいる。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　その視線の先に手がかりがあるのだろうか。俺は見当を付けて作品を注視した、が。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　まるでピンとこない。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　大和がこんなにも見入るのだからよほどのものだと思ったが、正直さっぱりだ。俺はしかめた顔面から慌てて力を抜き呼吸を整える。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　こういう時は初心に帰るのが第一。武宮先生の教えを元に再度注意深く観察してみる。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　枯れ木だった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　枝はそれぞれが非常に細く幾多にも分かれており、樹木というより珊瑚だ。それが大きな扇形に広がっている。幹はすらりとして直線的で、全体的に白くかさついている。燃え尽きた炭のようだ。先ほどの松に比べると根も頼りない。鉢はかなり浅い円形だ。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　寿命が近いのだろうか。それにしては引っかかる。悲愴感のようなものがまるで感じられないのだ。かといって生気に満ちているかと言われるとそうでもない。言葉にしにくい印象に首を捻りながら題名を確かめる。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「黎……明」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　これが？&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　危うく言葉にしてしまうところだった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　しかし何故だろうか。一度黎明と言われるとそうとしか見えなくなってしまう。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「これはすごいですね」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　大和は口元にあてがった拳の中で真剣に言葉にした。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そうでしょう。二百年を越えていますからね」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　スーツに身を包んだ年配の男性がこちらに歩み寄ってきて会釈をする。胸元にはネックストラップの名札が下がっている。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ご無沙汰しています」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「初めまして。武宮くんの紹介でお邪魔しております」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「これはこれは。ありがとうございます」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　動揺を無理やり押し込んでの挨拶だったが、幸い無礼には当たらなかったようだ。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　男性は大和と二言三言会話をして歩き去り、他の来場客に同じように声を掛けていた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「二百年……か」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　頭の中で年表と楽譜が同時にパラパラとめくられていく。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　年数からしてこの作品に携わったのは一人ではない。何代かに渡って意志が受け継がれこの作品は今の姿でここにあるのだ。恐らく、また時が経てば別の誰かがそれを担っていくのだろう。人と時代が入れ替わってもこの作品は生き続けていく。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「まだまだこれからですね」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「まだまだ……？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ついおうむ返しをしてしまった俺に、大和はさらりと微笑んだ。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ええ。今度一緒に見に行きましょうか、樹齢八百年の作品を」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Tue, 06 Jul 2021 20:07:34 +0000</pubDate><guid>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/20300901</guid><dc:creator>h</dc:creator><category>メイン</category></item><item><title>[07]書籍二つ名ネタ</title><link>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/20300882</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;メンバーに書籍みたいな二つ名を付けるとしたらこうだな、と考えたときのこと。翔琉・燎。どちらも短い。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『大事なことは全部ジャズが教えてくれた』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　夕陽が沈んでいく。オレンジ色がだんだん濃くなっていく。最後のあがきみたいな光線が伸びていく。ゆらゆら揺れながら流れていく水面にその光が落ちて、きらきらと反射して星みたいになっていく。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　川原へ降りる階段に腰を下ろして相棒を脇に置く。今日もよく頑張ったな。お前も俺も。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　流れに沿って作られた砂の道では、ランドセルをしょった子どもたちがわあわあ声を上げながら走っていく。遠くの方の橋を車が通り過ぎていく。後ろに並んでいる家のどこかでからからと窓の開く音がする。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　さみしくない。そう思えるようになったのはいつからだろう。あの頃を思い出しても痛みを覚えなくなったのはいつからだろう。知る必要のない答え。でも、きっと忘れてはいけない記憶。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　明日もまた、前を向いて生きていくために。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&lt;hr&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&lt;span style=&#34;-webkit-text-size-adjust: 100%;&#34;&gt;&lt;br&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;span style=&#34;-webkit-text-size-adjust: 100%;&#34;&gt;『藍色の研究』&lt;/span&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　違う。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　九回目の残響が虚しく広がっていく。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　失敗は成功の元と言うのなら、この無人の空間にひたすらに積もっていくだけの棄却の中に手がかりがあるというのか。とてもじゃないが信じられない。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　頭の芯が乾ききって、端からサラサラと崩れて消えてしまいそうな感覚。額に手を当てても止められない。ただ生ぬるい感触が倦怠感を悪化させるだけだった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ため息と共に窓を開け放つ。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　白いカーテンがはためいて、夜の入り口を透かす。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　冷ややかな波が静かに打ち寄せて足元を浸していく。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　何色ともつかないブルーが澱をさらっていく。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Sun, 04 Jul 2021 20:05:36 +0000</pubDate><guid>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/20300882</guid><dc:creator>h</dc:creator><category>メイン</category></item><item><title>[06]帰国</title><link>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/20300853</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;堂嶌夫妻の会話。燎幼少期。全て捏造。夫婦としての愛情表現を含みますが年齢制限はありません。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ふいに目が覚めた。&amp;nbsp;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　カチリ、とオイルヒーターのサーモスタットが鳴る。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　真っ暗な視界が徐々に輪郭を持ち始め、薄ぼんやりとした天井の景色を取り戻していく。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　すう、すう、と小さな寝息に横を向く。燎はうつ伏せでこちらに顔を向けていた。頭を撫でようとした手を一度引っ込め、伸びてきた前髪が目にかからないようにそっと払う。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　僕はそろそろと羽毛布団から這い出た。息子の肩口まで布団を引き上げてから、記憶を頼りにスリッパへ足を入れる。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　音を立てないようにドアノブを押し下げて廊下へ出て、リビングへと向かう。身体の軽さにはたと思い至りポケットに手をやったが、空だ。枕の下に入れたまま出てきてしまったか……いや、そもそも寝室に持ち込んだ記憶がない。洗面所かリビングか。見当を付けてみてもどこにスマホを置いてきたのかまるでピンとこない。そこだけ記憶が抜け落ちているようだ。今日帰国した妻にどうしても見せたい写真があるのに。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　額に当てた手が熱い。すっかり寝入ってしまった。帰宅は夜十時頃と聞いていたが、一体今何時なのか。僕としたことが。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　廊下の突き当りのドア越しに壁掛け時計が目に入りその針のありかを読み取った瞬間、僕の手は額からぽろりと落ちた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ダウンライトの薄明かりが灯るリビング。三人掛けソファの端に彼女が腰掛けていた。背もたれに頼らず背筋を伸ばし、ある一方に顔を向けたまま微動だにしない。その横顔は真っ直ぐに伸びた長い黒髪で隠れている。唯一明るいところがあるとすれば、座面に投げ出された手の青白さだけだ。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　僕の背後でがちゃんとドアノブが音を立て、スリッパが両の足から抜け、凍りついた湖面のような床が素足を焼いた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ごめん」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　抱き締めた身体が想像よりも細くて、戸惑いに力が抜けそうになる。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　彼女はしばらく何も言わずされるがままだったが、やがてふらふらと片手を漂わせ僕の肩に置いた。しかしすぐにずるずると垂れ下がり、指先が引っ掛かることもなく僕のパジャマを滑り落ちていく。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　肩口で彼女が微かに身じろぐ。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……だいじょうぶ」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……何がだ帰国早々に。こんなになるまでまた君は」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「でも」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「でもじゃない。そんなに身を削らなきゃいけないほど君の演奏は……！」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　しまったと思った時には遅かった。彼女の肩が跳ね、ハッと上がった顔が僕を正面から捉えた。まん丸に見開かれた暗い瞳に仄赤い灯りが映り込んで、小さな穴を穿っている。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「すまない、言いすぎた」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……自分でも、わかってるから」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　彼女は小さく首を振る。その頬には色も温度もない。手の平を添えると、彼女はゆるゆるとまぶたを落とした。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……りょうくんは」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「大丈夫、ちゃんと寝てる」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　彼女は僕の手の中で黙って頷き、細く長い息を吐き出した。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「あなた……」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「うん」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……おなかがすいたわ」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　今度は僕がため息をつく番だった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「いつから食べてない」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「成田で食べたのは覚えてるんだけど……」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　フライトの時間を思い起こし見当をつける。到着の知らせが入ったのは夕方五時頃……となると、八時間はゆうに越えているではないか。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　僕は再び氷の上を歩いて台所に向かい冷蔵庫を覗き込んだ。幸い牛乳がまだある。二人分のマグカップを出して注ぎ、レンジで温める。自分のにはインスタントコーヒー、彼女の分にはハチミツ。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　僕がカップを両手に振り向くと、彼女は虚ろな目を向けていた。生命力は最後の一欠片までステージと防音室に置いてきてしまったらしい。と言っても、戻ったところで拾い集められるわけもない。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ありがとう」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　決してピアノ向きとは言い難い細い骨格と薄い肉付きの指がカップをまばらに包む。彼女は静かに数回飲み下してテーブルに戻し、肩でゆっくりと呼吸をした。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「あなた」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「うん」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……たまにね、考えることがあるの。私がピアニストじゃなかったら、もっと燎くんは幸せだったんじゃないかって」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ぱたぱたとこぼれ落ちた涙が僕の心臓を剥き出しにして濡らしていく。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「燎くんには……私みたいになってほしくないの。お友達にいっぱい囲まれて、みんなから愛されて、ずっと笑っていてほしい。それだけでいいの。なのに私は、私は……！」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「――ッ」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　開いた口は何も言葉を出してくれない。胃が締め付けられ、苦いものがじわじわと滲み出ていく。僕は目を逸らした。カップの中は暗い灰色で濁っている。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「少なくとも、せめてもう少し休んでいれば……おばあちゃんの言うとおりに……そうしたらもっと……」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　彼女は目元を拭い、濡れた指先をマグカップの持ち手に引っ掛ける。しかし持ち上がることはない。ゴトン、という音と共に白い水面が大きく波打っただけだ。彼女は力なくうなだれて、両手で顔を覆った。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ねえ、あなた……私、…………ちゃんとお母さんかしら」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　最後の音が掠れて消え入る。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　僕はついにこらえきれず彼女を抱き寄せた。さっきより体温は戻ってきているが、そのか細さが変わることはない。後頭部の丸みに手を滑らせて包み込む。息子もじきに同じ形になるのだろう。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「大丈夫。君は間違いなく世界一のお母さんで、世界一のピアニストだ。君が選んだことに間違いなんて何一つない。僕が……僕と燎が保証する」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　彼女が大きく身体を震わせる。僕はまだ冷たさの残る黒髪に顔を寄せ、彼女を抱えたままソファに深く身を預けた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Mon, 21 Jun 2021 07:03:46 +0000</pubDate><guid>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/20300853</guid><dc:creator>h</dc:creator><category>メイン</category></item><item><title>[05]二度目の朝</title><link>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/20300831</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;ゲーマー奏斗。ヘッドホンとPCメガネの設定をお借りしました。ありがとうございます。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……お疲れ様でした」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　最後の声はカサカサに掠れきっていて、ほとんど潰れかけた呟きだった。パーティーメンバーに聞こえていたかすら怪しい。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　しかし訂正する気力も体力も残ってはいなかった。カーソルが視線と同じようにするすると滑って通り過ぎそうになる。ボイスチャットの退室とパーティー解散を選択するまでにいつもの倍の時間がかかった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ログアウト時のオートセーブは常にオンにしているが、今回ばかりは信用できない。オプションに入り手動セーブを選ぶ。たった今全身揃えたばかりの新作防具のグラフィック上に「セーブしますか」のダイアログが表示された。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「はい」を選びダイアログが「セーブしています……」に変わったのを見届けた瞬間、急にコントローラが重さを増した。つられて頭ががくりと前に揺れる。たまらず右手をコントローラから離してテーブルに肘をつき、手の平で額を支えた。ヘッドホンからはのんびりとした牧歌的な村のＢＧＭが変わらず流れ続けていたが、熱を持った眼球の奥でジリジリとセミが鳴き始めた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ＰＣメガネとヘッドホンを外すと、その鳴き声ははっきりとした形になって耳に届いた。中にこもっていた空気が抜けて、わずかな爽快感と寂しさが現実に帰ってきたことを思い知らせる。メガネに点々と細かな白いホコリが付いているのが見えた気がしたが、今回ばかりは見ないふりを決め込むことにした。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ペットボトルの底に少しだけ残っていたミネラルウォーターを飲み干す。生温かい。いっそ熱湯を飲んだ方がましかもしれない。それでも、何もないよりは。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　今は一階に降りて冷蔵庫の物を取ることすら億劫だった。エアコンの羽根は目一杯片側に寄せていたが、瞼の裏と眼球がざらりと擦れて痛む。目薬は――、切らしていたんだった。買いに行かないと。ぎしぎしと軋む首を窓の方に向けると、閉め切った遮光カーテンに鋭い陽射しが殺到し、隙間から容赦なく部屋に侵入している。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　テーブルのふちに手をかけて慎重に腰を上げる。指先にうまく力が入らない。しっかりと踏ん張っていたはずなのに、また頭ががくりと揺れ上半身がぐらつく。両手に体重をのせてどうにか支える。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　頭の中で火山と村のＢＧＭがマッシュアップされるように入り混じり、打撃音と鍛冶屋の槌の音が耳を打つ。ヘッドホンはさっき外した気が、と確かめようとした目が意識を離れてテーブルの上を滑空して遮光カーテンを高速で横切りその勢いのまま扉の前を過ぎ去りシーツに遮られ、ああそういえば報酬画面のコード進行はと三本の指がひくりと動いた瞬間、&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　何も聞こえなくなった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Thu, 15 Apr 2021 20:02:25 +0000</pubDate><guid>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/20300831</guid><dc:creator>h</dc:creator><category>メイン</category></item><item><title>[04]らぶおん</title><link>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/20300793</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;短いの4本。ゲーム冒頭のイメージで書きました。誰ともフラグは立ちませんが、元ネタが元ネタなので何でも許せる人向けです。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&lt;hr&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『冬のささやき編』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　私は手で口を覆って生あくびを噛み殺した。帰国して一週間。まだ時差ボケが治っていない気がする。そんな私に突然スピーチコンテストに出ろだなんて、この学校は無茶苦茶だ。帰国子女全員がすごい体験をしているなんて思わないで欲しい。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　舞台袖には私以外にも何人かの生徒がいて、リハーサルの順番を待っている。制服はあるのにみんなバラバラの着方だ。準備してくれた親には悪いけど、私もやめようかな。向こうでは制服なかったし。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「レイちゃん何してるん？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「人を食べてマス」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　私はギョッとして声のする方を見た。真っ黄色のシャツの男子が、自分の手の平に人差し指と中指を揃えてトントンと押しつけて口に運んでいる。褐色の肌に編み込みの銀髪。どこ出身だろ。英語で通じるかな。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「それ人っていうか……寿司の握り方やで？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「スシ！？　ウデマエデスカ？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「板前さんやな。どっちにしろちゃうんやけど……ちょっと貸してみ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　白と赤のカットソーの男子がその手を取って、二本指を人差し指一本に直している。私は久しぶりの関西弁に急に懐かしさを感じながらーーといっても向こうに行く前にテレビで見ただけなんだけどーー、近くの壁にもたれた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　さっきまでステージでリハーサルをしていた人が終わったみたいだ。ピンク色の髪の男子がいかにも面倒くさそうに半目でだらだらと帰ってくる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　それな。私は昨日SNSで仕入れたスラングを心の中で使ってみる。多分合ってるはずだ。日本人なのに日本語を勉強しなきゃいけないのはムカつく。私も目を半分にした。テンションと同じくらいに。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　でもピンク髪の男子は私に気付いた途端にパアッと顔を輝かせて近付いてきた。初対面……のはずなんだけど。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「お疲れ！　っつってもそっちはまだなんだっけ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「えっと……うん。もうそろそろ呼ばれると思うんだけど」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「だよねー。残ってるの俺らだけだし……げ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　彼は話の途中で壁の隅の何かに目を留めるなり、またさっきの表情に戻ってしまった。私は彼の視線の先を確かめる。そこには別の男子が一人、目を閉じまま壁にもたれて立っているだけだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ああ、俺、あっちで待ってるから、後でゆっくり話そ？あとID交換も。じゃあね〜」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「え？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　IDって、何の。尋ねる前に彼は手をヒラヒラと振ってサッサと出て行ってしまった。先生が直接呼びに来るまで、私は出口から目が離せなかった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&lt;hr&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『冬のセッション編』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「待ってたわよ、さあ入って。ちょっとごちゃごちゃしてるけど……ごめんなさいね。すぐに紅茶を淹れるわ。新！　ちょっといい？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　天城先輩はスクール時代の時みたいに優しく私を招いてくれた。指示を出す時はテキパキとしたお姉さんになるのもあの頃と変わらない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「へ！？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　新と呼ばれた先輩は、こちらに背を向けてパソコンの画面を見たまま高い声を上げた。猫背が急にピンと伸びて、その拍子に椅子がカタカタと揺れる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「い、いいけど何で僕が」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「あんたが淹れたのが一番美味しいからに決まってるでしょ！　私の大事な後輩なの。頼んだわよ。アップルティーは好き？　ああもうしっかりしなさいよ！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　食い気味に言いつけられ、新先輩はあたふたと立ち上がる。椅子のキャスターに足が引っかかったところを天城先輩にすかさずフォローされている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「えっと……はい。好きです。覚えてて下さったんですね」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　スクールでボーカルコース専攻の私は天城先輩とは別のグループだった。でもスクールの合同コンサートで一緒に組んだのをきっかけに、個人的に音楽の話をするようになった。先輩が辞めた今でもこうしてたまにお茶をさせてもらっている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「輝はそういうところきちんとしてるからね」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ありがとう。でも残念ながら何も出せないわよ？」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「構わない。いい音を出してもらえればそれで十分だからね」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「あら、言ってくれるじゃない」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　金髪の先輩がこちらに歩み寄ってきた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ようこそ。部長の鳴海だ。君が来るのを楽しみにしていたよ。短い間だけどよろしく」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「は、はい！　こちらこそよろしくお願いします！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　鳴海先輩の金髪と笑顔の眩しさに、私はろくに目も合わせられずお辞儀をすることしか出来ない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「顔がいいってつくづく罪よね」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　天城先輩は小声でぼやいて、私を奥のテーブルへ導いた。花柄の大きな缶が真ん中に置いてある。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「さ、お茶にしましょ！　もうすぐ蒼弥も戻ってくるはずよ。今日はとっておきのを買ってきたんだから楽しまなきゃ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　天城先輩が近くの椅子を引いて示してくれる。新先輩がお盆を両手にそろりそろりと歩いてきて、震える手で慎重にティーセットを並べる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「じゃあ、頂こうか。蒼弥が帰ってきたら打ち合わせを……と、」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「悪い！　遅くなった」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　鳴海先輩が言い終わる前に、バタバタと足音を鳴らしながら蒼弥先輩が駆け込んできた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「その挨拶はいらないみたいだね」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　鳴海先輩は小さく笑って腰を下ろした。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&lt;hr&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『冬のミラクル編』&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　駅から家までこんなに遠かったっけ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　私は一人ため息をついた。キャリーケースを引きずる手がびりびりと痺れて痛い。ケチらず大人しくバスに乗るべきだった。学生の頃は毎日これくらい平気で歩いてたから余裕だと思ってたのに。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　歳を取ったのかな。ううん、そんなことない。キャリーを反対の手に持ち替えてもう一度歩き出す。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　式場から提示された最終見積書が頭の中を何度もチラついてしまい、ドレス姿の自分がうまく想像出来ない。一番気に入った物にしたはずなのに。引っ越しの費用、家具代、お役所への手続き。結婚ってもっと、幸せいっぱいで何も考えられなくなるくらいきらきらしたものだと思ってた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　遠くの歓声に私は目をやる。いつの間にか母校の近くまで来ていたみたいだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　昼休みなのだろうか。フェンスに沿って歩きながら敷地を眺めると、校庭で数人の男子生徒がサッカーをしているのが見えた。みんな制服のままだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　そういえばあの頃、彼があんな風にサッカーをするときはよくジャケットを預かっていた気がする。私は心の中で彼氏の名前を呟く。後先考えずにいられた頃が懐かしい。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　正門が、何となく小さく見えた。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　このまま思い出に浸っていても辛いだけ。見積書といい勝負だ。私はため息をついて、&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ニャーン！&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　門扉の上にいた黒猫がこちらに飛びかかってきた。それが最後の記憶だった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　正門がそびえ立っている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　私はしばらくの間、遥か上にある湊ヶ丘高等学校の文字をぼーっと見つめていた。妙に足元がごつごつして温かい。下を見た私は叫んだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ニャーン！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　にゃー……え？&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「おっと、これは可愛いお客様だ。君、名前は？　ボクは安藝月玲玖。どうか親しみを込めてリック、と呼んでくれ」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「猫は喋れないだろ。首輪がないから野良じゃないのか」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　アスファルトの上にあった黒いフサフサの足が突然宙に浮く。私は身を捩るが、脇の下に差し入れられた人間の手はしっかりと私を支えていて、どうすることもできない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「本当だ！　となると君もボクと同じ孤高の存在か。運命じゃあないか！　よし！　そうと決まれば孤高のギタリストリックの華麗な音色を聴かせてあげよう！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　彼は勝手に予定を決めて私を抱きかかえずんずんと歩き始めてしまった。私は振り落とされないように必死で爪を立てる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「あっ、勝手に野良猫を保護しちゃまずいだろ！　ああ、依吹、氷室！ちょうどいいところに。そいつを止めてくれ！」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&lt;hr&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『冬のオアシス編』&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　カチッコチッ、カチッコチッ、&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　この小部屋の中では秒針の音がうるさいくらいに大きく聞こえる。もうすぐ時間だ。そうしたらこの音からは解放される。でも。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　私はそわそわと左右を見渡した。陳列は完璧――ほとんど叔母がやってくれたんだけど――、釣銭もたっぷり。名札もちゃんと左胸に付けた。大丈夫大丈夫。私は自分に言い聞かせ、両手で顔を覆った。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　カチッ、キーンコーン――&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　頭の中でぐわんぐわんと鳴り響く音に、私はパッと手を離した。下を向いてブラウスの裾を握り締める。社会経験はあるけどやっぱり接客なんて柄じゃない。何でオッケーしちゃったんだろう。聞かなくたって答えはとっくに出てる。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　もうすぐ三十歳。履歴書に空白なんて絶対に作りたくなかった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　――カーンコーン……&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　消えていくチャイムの音と入れ替わりに、賑やかな話し声やドタバタした足音が一斉にこちらに向かってくる。私は目をしっかり見開いて、小さなカウンターから正面の廊下を見据えた。相手は高校生なんだからいい加減慣れなきゃ。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「はー、腹減った！　今日こそ絶っっ対買ってやるからな！　待ってろよお限定炙りサーモンいくらパン！」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ざっけんなそれは俺が買うっつったろ！」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「二人とも、廊下は走るなとあれほど！」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　大声で話しながら茶髪の生徒が二人、目の前を横切っていく。吹き荒れる風に私が前髪を押さえカウンターから顔を出したころには、とっくに二人の姿はなかった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……はあ」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「とてもさっきまで体育の授業をこなしていたとは思えませんね」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「全くだ。その体力があれば他の授業中もしっかり起きて勉強出来るだろうに」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　のんびりとした話し声に私は急いで顔を引っ込めた。バサバサになった髪に手櫛を入れて姿勢を正し、お腹の前で両手を重ねる。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「仕事が増えてしまいますね」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「全くだ。これ以上練習時間を削るわけには、ああ、失礼しました」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　黒髪の男子がこちらに気付いて立ち止まり、頭を下げる。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「あっ、お、お疲れ様です！」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　間違った！　つい前の職場のノリが！　私は上半身ごと頭を下げ返す。顔が熱い。目の前に並んだ文房具に人格がなくて良かった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「お疲れ様です」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　もう一人の男子がごく自然に優しい声をかけてくれた。私はなかなか顔を上げられないまま、体だけをそろそろと起こした。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Thu, 01 Apr 2021 06:53:18 +0000</pubDate><guid>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/20300793</guid><dc:creator>h</dc:creator><category>メイン</category></item><item><title>[03]ミズ・ブルー</title><link>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/20300372</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;玲玖中心・メンバー多数。炸裂するリックワンマンショー。お裁縫をする燎。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ああっ、そうだすっかり忘れていた！ボクとしたことが！」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ガタン、と椅子が大きく揺れて床を踏み鳴らした。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　氷室はスマートフォンから顔を上げた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　立ち上がった安藝月が目を閉じて天を仰いでいる。戦争のなくならない世界に絶望する舞台俳優のようだ。左手はぎゅっと心臓を掴み、右手の甲は額に当てがわれている。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　この場にスポットライトがなくて良かった、と氷室は再びスマートフォンに目を落とし半壊の城壁をタップして修復を開始した。ハンマーを担いだ熊が数匹現れ、瓦礫を片付け石を積み直していく。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「テル！キミは裁縫というものはできるかい？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　安藝月は身体の向きを変え尋ねる。右手が額を離れて優雅に放物線を描き、揃った指先が天城の胸の前でピタリと止まった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　同時に、天城が身体を強張らせた。限定ファンデーションとハイライトで仕上げた白い眉間にピシリと亀裂が走る。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「裁縫、ねえ……まあ……」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　天城はたっぷりと時間をかけて首からネックストラップを外し、バリトンサックスをスタンドに預けた。重量に耐えきれず木の床が軋む。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　天城は目を閉じて左右に首を振って後ろ髪を大きく揺らし、後頭部のリボンの下に片手を差し込んで軽く払うような仕草で前に持ってきて胸元に流した。両手の指先を手櫛にして丁寧にサイドの髪を整え、それからやっと薄く目を開けた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……出来なくはないけど？でもアイツに頼んだ方が早いんじゃない？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　細い視線だけがピアノに向かうのを安藝月は目で辿る。差し出したままの手がヒクリと動いた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「まさか……リョウかい？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「嘘だと思うなら本人に聞いてごらんなさい」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;天城は早口で答えるなりそっぽを向いた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　安藝月はしばらく手を腰に当ててピアノの主に目を凝らした後、大きく頷いて踏み出した。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「リョウ！キミは裁縫が得意だと天城から聞いたんだが本当かい？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　高らかな呼び声に堂嶌が楽譜を置いた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「期待に添えず申し訳ないが、決して得意ではない。ただ最低限のことが出来るだけで」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ふうむ……その最低限というものに、ボタン付けは含まれているかい？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ああ。オーソドックスなものなら」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　その一言に安藝月は両手を叩いて鳴らした。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「素晴らしい！じゃあキミにお願いするとしよう！ボクの愛しのミズ・ブルーをね！」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　行田がドラムの前に腰を下ろし、神条がペットボトルのレモンティーを手に咳き込み、部室の外で智川が朗らかなエチュードを吹き始めた。氷室はあくびを噛み殺しながら、黄金色に輝く麦畑をタップした。揃いの緑の服に身を包んだ小ネズミたちが駆けてきていそいそと刈り取りを始める。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　堂嶌は僅かに口を開いたまま黒い椅子から安藝月を見上げていたが、智川のエチュードが終わったところでハッとまばたきをした。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「悪い、そのミズ・ブルーというのは……誰のことなんだ？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そういえばそうだった、すまないね。キミにはまだ紹介していなかった。彼女さ。どうだい、美しいだろう？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　安藝月は堂嶌へ歩み寄り、きっちりと畳まれた白いワイシャツを両手で差し出して見せる。堂嶌は額に手を当てて息を吐いた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「なるほど、そういうことか……わかった」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　堂嶌は立ち上がって自らの鞄から小さなソーイングセットを取り出して戻ると、ピアノの鍵盤の蓋を静かに閉め、椅子の向きを安藝月の方に変えてから座り直した。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ありがたい！彼女は今月ボクのクローゼットに加わった新入りでね！なのにもうこんなになってしまって、見ていられなかったのさ。ボクはね、この胸ポケットの刺繍に一目惚れしたんだ……青い薔薇！花言葉は夢叶う！最高だと思わないかい？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　安藝月は抑揚をつけながら歌い上げるように主張する。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そうだな。シンプルでいい。制服のジャケットから見えないしな」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　堂嶌は託された彼女を膝に載せて、取れかけたボタンを検分した。それが終わると、黒いソーイングセットのファスナーを摘んでくるりと一周させて開き、慎重に鍵盤の蓋に置いた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そう、このさり気なさがいい！いつもの総柄ももちろん好きさ。でもたった一輪……人知れず胸元で咲く彼女の健気さに心動かぬほどボクは鈍感な男じゃない。さすがリョウ、やはりキミは只者じゃないと思っていたさ！ボクの見立てに間違いはなかったというわけだな！」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　堂嶌は無言でセットから小さな糸切りバサミを取り上げ、ボタンの根元の糸を切り落とす。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ちなみにミズ・レッドという姉がいてね……ほらここに。彼女もなかなか素敵だろう？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　安藝月は自分のジャケットの左側の襟を少し引っ張って見せる。堂嶌は下を向いたまま針に糸を通し始めた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「赤……確か愛情や情熱……だったか」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「エクセレント！キミは本当に見所のある男だね！」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　安藝月は両手を広げて再び天を仰いだ。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　画面の端に通知バッジが点灯した。新たなフレンド申請だ。ステータスは申し分ない。氷室は承認ボタンを押して即戦力を引き入れた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　部室の隅の引き戸をガラガラと引いて神条が出て行き、戻ってきた柏橋と入れ違いになった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ん」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「どうも」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　そのやり取りと微かなハサミの音を最後に、物音はなくなった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　安藝月は力なく両腕を下ろした。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「本当にね……」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「リックさんどないしはりました？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　柏橋が怪訝そうな顔で一直線にやってきて、安藝月と堂嶌を交互に見やる。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「リクがリョウにお仕事の依頼デス。ショクニンサンデス！」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「こういうのは職人さんじゃないとは思うけど……でも堂嶌さんってそんな感じするかも……」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　星乃がその隣に並び、くっついてきた依吹がその背後から堂嶌の手元を覗き込んだ。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「二人とも、これくらいのことであまりおだてないでくれないか」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　堂嶌は白い糸をボタンの根元に手早くクルクルと巻き付けた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「リョウ、ツンケンはよくないデス！」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……謙遜のこと？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そう、ケンソン！だってリョウ、こんなに上手デス。イッツマジック！」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　首を傾げた依吹に星乃は胸を張り、柏橋が調子を合わせる。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「確かにすごい手際やな……つかソーイングセットって今どき女子でも持ってないんちゃいます？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「うーん……どうなんだろう」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　依吹が首を反対側に傾けて考え込んでいる間に、堂嶌は最後の一針を縫い終え、余った糸を切った。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「応急処置だが、これでどうだろうか」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　差し出された彼女を恭しく受け取り、安藝月はうっとりと微笑んだ。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ああ、おかえりミズ・ブルー。一段と美しくなって帰ってきてくれたね。リョウ、ありがとう。どうだい、お礼に今度一緒にセッションでも」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「それは楽しみだ……と言いたいところが、この休憩時間が終わったらすぐに出来るだろう？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「それもそうだ、任せてくれたまえ。ボクのとっておきのフレーズを咲かせてみせるよ！彼女のようにね！」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　安藝月は左手で彼女をひしと抱きしめ、右腕を大きく伸ばして観衆を総なめする様に左から右へと滑らせ、最後に拳を握りしめた。誰とも視線は合っていなかったようだが、気に留める様子はない。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「期待しているよ」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　堂嶌は椅子からその後ろ姿を見届けると、目を細めて道具を一つずつ片付けていった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　氷室はスマートフォンの画面を一瞬切り替えて時計を確認した。先ほど智川が提示した休憩終了時間を十五分もオーバーしていている。しかし、誰も何も言わない。部室の外では当の本人による新たなエチュードが始まった。氷室は城門の見張り台から鷹の偵察隊を森へ放ち、新たな防衛隊のパーティ編成を練り始めた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Sun, 18 Oct 2020 15:40:43 +0000</pubDate><guid>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/20300372</guid><dc:creator>h</dc:creator><category>メイン</category></item><item><title>[02]暗がりで光るもの</title><link>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/20300410</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;奏斗と優貴。奏斗から見た神条さん。奏斗がプレイ中のゲームや過去を捏造。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「うわ……」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　横に長い大判のキャンバスは、端から端まで暗色で塗り込められていた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　黒々と広がる海の真ん中には、尖った山のような形の島。その稜線は細々とした建造物でびっしりと覆われており、ところどころに超高層ビルが突き立っていた。島の周囲には人工港湾に灰色の船が取り巻き、海上には大型重機が浮かぶ。動植物の類は一切なく、色を添えているのは無数に散らばっている小さな点状のライトだけだ。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ノクリスに伸ばせぬ黒い手はない」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　氷室は住人の台詞を思い出した。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　MMORPG「ロストノートオンライン」で氷室が長く拠点として過ごした、常夜の街ノクリス。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　魔族に太陽を奪われて以来一度も日の光を目にしていないとされるこの街は、明かりを求めて機械に頼った結果この姿へ変貌を遂げたと言われている。水や風など周囲からあらゆるエネルギーをかき集めて電気に変換し、その電気で機械を動かしてさらに大きな電力を生産する独自のテクノロジー。それはノクリスを黒い鉄の街として高度に発達させ、やがてその無機質な身体を肥大化させていった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　氷室は、初めてここを訪れた日にはその見た目の異質さに驚き、他の街と違ってゲーム内時間が経過しても昼夜のビジュアル変更がないという設定に忠実なシステムに舌を巻いた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　こういった原画展のようなリアルイベントにはさほど興味がない性質なので、入場者特典を受け取ったら軽く見て回ってさっさと帰る予定だった。しかし、思い入れのある風景を普段のパソコン画面と違う俯瞰の視点で眺めていると、今までの記憶が次々呼び起こされてしまう。液晶よりも遥かに大きいキャンパスに緻密に描き込まれた細部には鬼気迫るものがあり、なかなかその場を離れることが出来ない。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　物語の冒頭は、親友が実は魔族だと発覚し、プレイヤーを魔族に仕立て上げ全ての罪を擦り付けた挙句身ぐるみを剥いで――本当に全所持品と所持金が失われた時は真っ青になった。例えそれが二束三文にも満たない初期装備と薬草と小銭でも、MMORPG界では異例のこと。タイトルのロストはこのことだという冗談はSNSでの鉄板ネタだ――世界から追放するというもの。プレイヤーは素性を隠して、己を鍛えながら親友を殺すための情報を集めるのがストーリーの趣旨だ。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　その過程で、登場人物から助言を受け辿り着くのがこの街だ。そこでプレイヤーは新たな相棒に巡り合うことになる。闇に覆われた重苦しい景色には似つかわしくない、ふわふわと波打つのピンク色の髪の少年。ちょうど今氷室の眼前で、ロープに膝が触れるほど近付いて絵に見入っている彼のような。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「タ……神条さん？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　本来なら休日に知人を見かけても知らん振りをする氷室だが、一度うっかり登場人物の名前を言いかけてしまった以上、訂正するにはこうするしかない。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　しかし、神条はキャンバスのギリギリまで顔を近付けて海洋観測艦を凝視するばかり。目を見開いたり細めたりしては、時折微かな唸り声を漏らしている。やっと背筋を伸ばしたかと思いきや、今度は両手を腰に当て、海底資源採掘プラットフォームを眺め始めた。氷室は再度開きかけた口をつぐみ、足音を立てないようにそっと踵を返そうとした。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　すると突然小さな両肩を跳ねさせ、神条がくるりと振り向いた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……氷室？　何でここに……ああ、そっか。ゲームか」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「え？　……えっと……まあ、そんな感じです。神条さんはこの絵が好きなんですか？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　口ぶりからして、神条はこのゲームのプレイヤーではなさそうだ。氷室は当り障りのない質問をしてこの場をしのぐことにした。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　部活の合同練習で時たま顔を合わせはするものの、神条は部室に入るなりすぐさま部室端の定位置に陣取って練習を始めるのが常だ。弦から指を離している間は助言をしたり檄を飛ばしたりで気忙しい。非社交的な氷室は挨拶を交わすのが精々。お互いのプライベートは一切関知していない。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ああ。絵もだけど、昔からこの画家が好きで。『あさのこないまち』っていう絵本、聞いたことある？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　神条は再び絵に向き直った。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ゲームの公式サイトで、タイトルだけは。原案なんですよね」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そう。この画家は近い将来必ず売れる。もし俺が今社会人だったら、無理してでも何か買ってたね」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　神条はキャンバスをまっすぐに見据え、異能力漫画の未来視能力者のように断言した。満月のような瞳がこの街にない温度を湛えて鋭く光る。氷室は一歩も動けないまま、波の立たない海面に視線を漂わせた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そういえば」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　と、神条がトートバッグから小さな封筒を取り出して見せた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「これ使う？　俺ゲームしないから」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　それは氷室が持っている物と同じ、限定装備をダウンロードするためのシリアルコードだった。引っ張られるように視線が吸い寄せられ、逸らすことが出来ない。コード一つにつき得られる装備は一つ。キャラクターを二人育成している氷室は是が非でも二枚手にしたかった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「それはもちろん、あればありがたく使います。でもいいんですか？　ぶっちゃけ……売れると思いますよ？　この装備、性能いいんで」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　氷室は封筒に釘付けになっていた視線を首ごと引きはがし、神条に尋ねた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「だとしてもその金額じゃ絵は買えないだろ。そのかわり……そうだ、聞きたいことがある。氷室、この後の予定は？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……特にないです」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　氷室は一枚目より随分と重さを感じる封筒をリュックに仕舞い込み、肩ベルトを掛け直した。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　神条の先導で氷室はショッピングモールの地下まで降り、地下街へ出た。広々としたメイン通りには両サイドに色とりどりの雑貨やファッションアイテムがずらりと並び、休日を満喫する買い物客で賑わっている。しかし神条は全く目もくれず、速足ですいすいと雑踏を躱して進んでいく。彼の髪がピンク色でなければすぐに見失っていたかもしれない。氷室はすれ違いざまに人と何度も肩をぶつけそうになりながらどうにかついていった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　メイン通りの終わりが前方に小さく見え始めたあたりで、神条は急に左へ進路を変え狭い脇道へ入った。急に暗くなった景色に、人ごみを抜けきった氷室は辺りを見渡す。数十メートル先の突き当たりには細い上り階段、左右に並んでいるのは開店前の居酒屋とバーがほとんどで、人気は全くない。しかしその中に一軒だけ明かりのついた店があった。タイルには電灯を内蔵した昔ながらの四角い看板がぼうっと白く光り、「珈琲と紅茶の店　とるこ」と古めかしい飾り字の店名を浮かび上がらせている。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「へえ、ネットで見た通り渋い店構えだ」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……初めて来たんですか？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そう。ここは牛乳が美味しいらしくて」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　珈琲、紅茶、とるこ、牛乳。全ての単語は頭の中で散り散りになりまるで繋がらない。氷室はドアの脇に置かれた魔神のランプのような形の大きな照明を、&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「入るぞ」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　と声をかけられるまでぼんやりと眺め続けてしまった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　客は一人もいない。手狭な店内は表とさほど変わらないくらい薄暗く、天井に半球のシェードを被った仄赤い電球がいくつか点在する程度だ。お好きな席へどうぞとの声に神条が選んだ席には、厚手の暗いワインレッドのテーブルクロスが掛けられ、座席につくと端のフリンジが太ももに触れるのが少しくすぐったい。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「すごい」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　神条はフリンジを手に取って少しいじった後、左右を見渡した。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「汚れた時のことを考えてないんだな」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「え？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　釣られて氷室も店内の品々を目で検分する。天井のシェードはよく見ると凸凹の小さなタイルが嵌っている。壁面には複雑な装飾の額縁、棚には異国情緒漂う置物がいくつもあり、埃を取るのには苦心しそうだ。このテーブルクロスも見た目は重厚でいいが、乾きにくいだろう。フリンジはすぐに汚れるかもしれない。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　感心した氷室が視線を戻すと、神条の目はとっくにメニュースタンドに釘付けだ。ハガキ大の小さな透明板に写真が挟まっている。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　一日限定十杯　スペシャルミルクセーキダブルバニラアイスのせ&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　氷室は目を逸らし、無言でそろそろとメニュー表を抜き取って開いた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　注文を取りに来た店員に神条は迷わず告げた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「アイスチャイを一つで」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ア…？　えっと、アイスカフェオレをお願いします」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　注文の品がやってくると、神条はストローをグラスに挿し、空になった細長い紙製の袋をテーブルに置いて指で押さえつけ、数回しごいた。神条は見事な真っ平になった袋を脇に置き直し、口火を切った。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「単刀直入に言う。カケルのことを聞きたい」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「――！　智川さんの、ことですよね」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ああ」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　氷室は下を向いて少しずつ紙包みの端を破り、慎重にストローを取り出した。それでも、額に刺さる視線はすぐにこの手の震えを見抜くかもしれない。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「どうしても引っかかることがある。早めに手を打ちたいんだけど本人が話さなくて埒が明かないんだ。手掛かりは氷室しかない」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　氷室は恐る恐る顔を上げた。するとそれに気付いて今度は神条が俯いた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「悪い、怖がらせた。過去を詮索されるのは嫌だと思う。敵に塩を送るのも気が進まないよな」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「いや、それは……一回組んだわけですし、敵だなんて思ってませんよ」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「よかった。嫌なら無理に答えなくていいから」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「はい」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　氷室は頷いてグラスを取った。氷がたっぷり浮かんだカフェオレを少し口にすると、やっと人心地がついた。氷室はグラスをコースターに戻し、椅子に深く座り直した。フリンジを引っ張らないように、両手を注意深く膝の上で組む。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ありがとう。じゃあさっそく聞かせてもらう。このコード進行に心当たりはある？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　神条はスマートフォンのメモアプリを開いてこちらに寄越した。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　そこに書かれた三つのコードに、組んでいた両手がぱらりとほどけた。指先が冷え切って力が入らず、手の平で包んでさすっても一向に温かさが戻らない。今カフェオレを飲んだばかりなのに、もう口の中は渇ききってしまった。湧きもしない唾を飲むと、舌と上あごがこすれてざらりと音がしそうだった。氷室はぎゅっと拳を握った。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「やっぱりそうか……あいつ、このコード進行の時、たまにおかしいんだ。妙に力が入ってて。本当にたまにだし、注意して聴かないと気付かないレベルなんだけど」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「コンクールの課題曲です……昔の」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　氷室があるジャズソロコンテストのジュニアトランペット部門に出場した時だ。当時の氷室は敵がいないと言われるほどで、今回も優勝候補と目されていた。しかし直前になって無名の新人がやってきた。それが智川だった。今まで大会には出ず完全に趣味として演奏をし続けてきたという智川のパフォーマンスに、氷室は度肝を抜かれた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「失礼ですけど、バケモノだって思いました」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　氷室はじっとグラスを見つめた。表面の水滴が大きくなって流れ落ち、コルクのコースターに焦げ茶色のシミを作る。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「聴いた瞬間に、負けたって……そんなこと絶対思っちゃいけないのに。それくらいすごかったんです。惹きつけるを通り越して、何ていうか……飲み込むって感じで」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　周囲から神童と持ち上げられるようになってから、氷室の演奏は空虚な理想を追い求めるものに変わっていった。人の反応を伺いながら、良い評価が得られそうなテクニックを駆使して、認められ続けるためにその場しのぎの綱渡りをしていた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　智川は、トランペットを握っているだけで楽しくてしょうがないと無邪気に笑う子どものようだった。技術は未熟で荒削りで、好き勝手で、ただただ俺の音を聴いてくれという意思の塊だった。その演奏には自分のやりたいことだけがぎゅうぎゅうに詰め込まれ、破裂しそうだった。こんな奏法を試したい、こんなテンポでやりたい、まだまだやりたいことはもっとある、俺のやれることはこんなもんじゃない、そんな一方的な押し付けだった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　舞台袖からは智川の後ろ姿しか見えなかったが、空気が完全に彼のものになったのはすぐに肌で分かった。ある一ヶ所のフレーズで小さなミスさえなければ満場一致で智川が優勝していただろう。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「それから、吹けなくなりました」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　その大会のトロフィーだけは、一度も部屋に飾っていない。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そうか」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　神条はそこで初めてチャイのグラスを手に取った。コースターには大きな輪が出来ている。持ち上がったグラスのへりからも、ぽたんぽたんと雫が落ちて、テーブルクロスの上に小さな水たまりを作る。やがて吸い込まれて、神条の前には暗い水玉模様がいくつも滲んだ。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「すみません。自分の話ばっかしちゃって」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「いや、俺の方こそごめん。そこまでの話だとは思ってなかった。カケルは『大会でやらかして氷室に負けた』としか言ってなかったから」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「何というか……だいぶざっくりしてますね」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「だろ？　そのせいでどんだけ苦労させられたか。今も苦労してるけど。リョウがいなかったら俺はとっくの昔にキレてバケモノになってる」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　神条はしかめっ面でストローに口を付けた。みるみるうちに水面が下がっていく。解放されたストローの端はへこんでいびつに曲がっていた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「神条さんは……優しいですね」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……初めて言われた。カケルにも今度言ってやってくれ。お前が見放されずにいるのは優しい神条さんのおかげだぞって」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　神条は肩で大きな息をするなり、ストローの袋を取り上げいじり始めた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「か、考えておきます」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　氷室は意識して両肩の力を抜き、グラスを取った。神条の言う通り、カフェオレは牛乳の甘みとコクが強く、濃厚な味だ。紙ナプキンを取り濡れた手を拭うと、少し温かさが戻ってきた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「優しく見えるのは多分、俺も昔ちやほやされて痛い目見たからだよ」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そうなんですか？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そ」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　短く言い残して神条は席を立ち、伝票を手に取った。氷室がテーブルに手をついて口を開きかけると、神条は自分のグラスの脇から何かを摘まんで氷室の前に置いた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「今度機会があったら教える。それ連絡先」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　見ると、それは紙で出来た手作りの小さな白い星だった。五つの角は見事に均等な角度に揃えられている。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　氷室はそれがストローの袋を折って作られたものだと気付くまでに時間を要した。爪の先でひっくり返して裏面の書き込みを確認した頃には、神条は姿を消していた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Sun, 18 Oct 2020 15:30:52 +0000</pubDate><guid>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/20300410</guid><dc:creator>h</dc:creator><category>メイン</category></item><item><title>[01]ナンバーワンの味</title><link>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/20300241</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;青と翔琉。うにいくらパンに憧れる青くん。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「今日もダメか……」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　依吹はマーガリンコッペパンを手にうなだれた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　普段は持参の弁当だが、母がうっかり寝坊してしまった時には臨時の小遣いを手渡されこうして購買のお世話になっている。好みの味であり、かつ腹に溜まる母手製の弁当は、馴染みのメニューのローテーションであっても飽きが来ない。依吹の毎日の楽しみのひとつだ。ただ、購買の新鮮さは新入生の好奇心と食欲を否応なしに掻き立てる。母には申し訳ないと思いつつも、依吹は少しだけ膨らんだ財布を手に密かに胸を躍らせるのだ。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　しかし、それは喜びに満ちた買い物とは限らない。この高校の購買は手頃な価格で美味しいと評判なだけあり、戦争とまではいかないものの目当ての物が買えないのが当たり前。特に、併設の食堂の厨房から運ばれる作りたてのサンドイッチは専門店に匹敵する味との呼び声が高い上、数が少ないため滅多にお目にかかれない。入学してから丸二ヶ月経った現在、依吹のクラスで特製サンドイッチにありつけた者はたった一人、盗塁を買われて推薦入学した野球部の男子だけだ。今や特製サンドイッチはクラス内で都市伝説と化しつつある。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　特に、一番人気のうにいくらパンは。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「はあ……」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　依吹はとぼとぼと購買を後にし、飲料自販機へ足を向ける。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　グラニュー糖たっぷりのマーガリンコッペパンも悪くはないのだが、気が進まない物を買わされるのはやはり悔しい。せめて飲み物だけでも良い物を、と手の中の釣り銭を自販機に投入し、普段の物より二十円高い濃厚カフェオレのボタンを押した。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「お、良いもの買ってるじゃん」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「はい！？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　突然声を掛けられ、依吹はそれまで落としていた肩をびくりと跳ね上げた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「あー、その、驚かすつもりはなかったんだけど……ごめんな？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「い、いえ！智川さんは悪くないです！」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　慌てて首を振る。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「あんまりにも元気がなさそうだからつい声かけちゃった。どうした？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　たかが購買のパンで落ち込んでいるなどと部の先輩に知られるのはばつが悪い。どう言い訳しようかと依吹は智川の顔から視線を逸らし、&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「いえ、全然大したことでは……あ」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　結果、それに目が留まった。留まってしまったその瞬間、依吹は猛烈に後悔した。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　白いレジ袋が引っかかっている手首の先、智川の手には高校の購買にはおよそ似つかわしくない高級そうな手提げ袋が握られていた。楕円形の手提げ穴のある分厚い乳白色の袋。底部の大きなマチは菓子店のものを思わせるが、それとは異なり、中身が見えるよう中央部に透明フィルムで大きな窓が作られている。そこから覗く僅かな赤い光に、依吹の本能と眼は完璧に縫い留められてしまったのだ。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「あー……もしかして、これ？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　気付いた智川が、自分の手元と依吹の顔を交互に見やり、答え合わせにそれを掲げる。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「す、すみません……授業が早く終わったので、今日こそは買えるんじゃないかと思ったんですが……」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　羞恥で顔を伏せる依吹に、智川は&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ははは、気にすんなって！俺、これ初めて買うのに半年かかったんだぞ？それまでに何回へこんだか」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　あっけらかんと笑い、&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「よし、落ち込んでる可愛い後輩のために智川さんが奢ってやろう！」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……え？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　智川は屈んで自販機からカフェオレを取り出し依吹に手渡すと、片手のパンはそのままに、もう片方の手でズボンの尻ポケットから財布を抜き取り小銭を流し込んだ。楽器が上手い人はやっぱり手先が器用なのか、と依吹は突然の誘いに混乱した頭で考えた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「俺もカフェオレにしよっかな……いや、やめとこ。このチョイスを優貴に知られたらまずい」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「え？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「色々とうるさいんだよ、あいつ。気持ちはわかるんだけどなあ」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　智川は苦笑いしながら商品ボタンを押し込む。ブラックの缶コーヒーを取り上げ、依吹を促しテラス席へ歩き出した。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　食堂の外にはいくつかテーブルとイスが置かれており、天気の良い日は生徒達の人気スポットだ。しかし実際は「上級生の」が暗黙の了解。一年生の依吹にとっては、憧れつつも近付けなかった高嶺の花のような席だ。依吹は場違いさに萎縮して視線をさまよわせる。かといって先輩の申し出を断ることも出来ない。結局勧められるまま恐る恐る腰を下ろした。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「別に一年が堂々と座ったって良いと思うんだけどな」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　その心境を読んだかのように智川はのんびりと腰掛ける。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「はい。出来立てが一番だぞ」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　片手で手渡された袋を両手で支え持ち、そっと受け取る。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ありがとうございます……わあ……」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　手提げをそろりと開いて中を覗き込むなり、依吹は感嘆の声を上げた。慎重に手を差し込むと、温かい包み紙が指先に触れた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　うにいくらパンの正体は、ホットサンドだ。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　薄切りの食パンを半分に切って作られた長方形のサンドイッチが二つ、茶色い無地のオーブンペーパーに包まれている。こんがりと焼かれたパンは両面とも見事なきつね色。トーストの間に挟まった大粒のいくらはなだらかな丘を作り、朗らかな陽光を受けて、細かな星々を浮かべている。少しでも力を込めれば零れ落ちそうだ。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;顔を近づけた依吹は、ほわりと立ち上るバターの香りにごくりと生唾を飲み込む。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「い、いただきます」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　いくらをこぼさないよう大口を開けるべきか、いやいや勿体ない。それにご馳走してくれた先輩の手前だ。依吹は迷った末、いつもの一口で――しかし顔は斜めに傾けて――おずおずとホットサンドに齧り付いた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ぷしゅっ。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「……ん！？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　噛み締めた瞬間、サクサクと香ばしい音を立ててトーストが砕ける。その間からつるりとした醤油漬けいくらの皮膜が次々に破れ、瑞々しいエキスが弾けて溢れ出した。全く生臭さを感じない。覚えのある爽やかな後味に、&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「レモン……？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　はたと気づいて依吹はひとりごちる。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「よく分かったな！俺全然気付かなかったんだぞ？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　喫茶店の孫なのにな、と智川はおどけて笑う。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「た、たまたまです」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　依吹は恐縮してぶんぶんと首を振る。そして二口目を頬張ろうとして今度はその首を捻った。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「え？これがうに……ですか？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　先ほど齧った断面に目を凝らす。いくらの両脇にバターソテーしたスライスオニオンが見て取れた。その陰に、薄く塗られた濃い橙色のペーストが見える。これをうにと呼ぶなら、うにいくらパンと銘打つには余りにも量が少ない。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そ。少ないよな！もっと入れてくれよケチくさい」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　智川が調子を合わせて文句を言う。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「と思うんだけど予算かなあ……これ以上値段上げたら誰も買わないだろ」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「そ、そんなに高いんですか！？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　依吹は素っ頓狂な声を上げる。毎回購買に着く頃には完売札がメニューの上に貼られており、値段が隠れてしまっていたからだ。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「聞いて驚くなよ！……と言いたいけど、言ったら腰抜かしそうだから黙っとく」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「え……？そんなに凄いものをご馳走になってしまって良いんでしょうか……」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　クラスメイトから高いらしいとだけ聞いていたので、通常商品よりちょっと高い程度だろうとふんでいた。しかしそれはとんでもなく楽観的な思い違いだったのかもしれない。依吹は身体を丸めて俯いた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「いいのいいの。俺が先輩風吹かしたいだけ。でもせっかくだから大事に食べるんだぞ？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「は、はい！もちろんです！」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　大きく頷いて二口目を頬張った。少し湿気を帯び始めたトーストはモッチリとした食感に変わり始め、パンの優しい甘みが伝わってくる。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　咀嚼を続けると、とろりとしたオニオンソテーに混じって、濃厚なうにの風味がじわじわと口の中に広がってきた。うにと聞いて軍艦巻きに載っているようなうにを想像していた依吹は予想に反した塩味に驚く。これは瓶詰のうにだ。先程は申し訳程度の少なさを嘆いたが、実際に口にしてみれば、独特の風味はこの量でも玉ねぎの甘さと十分渡り合えると感じた。計算された量なのだろう。多すぎればいくらの良さも損なってしまうかもしれない。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ふう……」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ゆっくり深呼吸したくなるような味わいだ。しっかりと焼かれたトーストのカリカリ食感に、うにとバターとオニオンの奥深い甘みとコク、いくらを包むレモンの香りが見事にマッチしている。最後に舌と鼻に残るピリッとした黒胡椒が良い刺激となって、早く次の一口を食べたくなる。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　この後に質素なコッペパンを口にする気にはとてもなれなかった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「智川さん、あの」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「ん？」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「今度自分でも買いたいので、値段……聞いてもいいですか」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「おっ、度胸あるねえ」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　ニヤリと笑みを浮かべた智川の答えに、依吹はしばらく立ち上がれなくなってしまった。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Tue, 19 May 2020 15:11:09 +0000</pubDate><guid>https://smaltshobo.themedia.jp/posts/20300241</guid><dc:creator>h</dc:creator><category>メイン</category></item></channel></rss>