[17]決別の日に

堂嶌家捏造。燎の中学生時代。母の手を離れていく息子。受け入れ難い変化の渦中においても確かなもの。※母が燎の恋愛を疑うシーンがあるが母個人の早とちり。実際の恋愛要素はなし。※音楽知識は素人。



 玄関ポーチの階段をカンコンと新しいヒールが鳴らす。
 午後二時半。まだ日は高く、傾き始めたとは思えないほどの暑さ。日傘の陰に顔を隠しても気休めにしかならない。でも横髪を押し流す風は一時期に比べるとサラッとしてきたように思う。秋本番にはまだかかりそうだけど、ちゃんと暦の通りに季節は動いているみたい。
 仕事を早く終えた身体は軽い。
 昨夜は収録が長引いてしまい深夜に帰宅。今日はギリギリまで寝てから昼前に打ち合わせ。午後からはオフだ。
 しばらく息子の顔を見ていない気がする。ましてやこんな風に休日のレッスンのお迎えに行くなんて、いつぶりだろう。普段は一人で通ってもらっているけれど、それは息子が中学生だから。親子仲は決して悪くはない……はず。たまには昔のようにお迎えに行ったって罰は当たらないと思いたい。気難しい年頃だからあまりいい顔はされないかもしれない。でも、もし息子が私を咎めてくるようなことがあったとしても、買い物のついでに立ち寄ったとか、たまには先生に一言ご挨拶したかったからとか、答えようはある。

 最近一目惚れしてしまった日傘を年甲斐にもなくくるくると回す。足元に落ちた丸い影はレースで縁取られ、万華鏡のようにきらきらと光る。教室は最寄り駅から二駅。私の音大時代の先輩の自宅だ。
 駅前通りにはまたいつか行こうと思いながら行けずにいた店が今も軒を連ね、甘い香りを漂わせていた。花屋、美容院、パン屋、ケーキ屋。ガラス越しにのんびり店内を眺めながら歩く。息子が中学生になった今、二人でゆっくりおやつを食べる機会はいつの間にか失われてしまっていた。
 電車の時間まではまだ少し余裕がある。何か買っていこうかしら。そう頬を緩めた時、私の足はパン屋とケーキ屋の境目で止まってしまった。
 今の息子の好みが何なのか分からない。
 本人に聞けばいいか、と思い至るまでに少しだけ時間がかかった。店と反対の方向を見上げると、そろそろ電車の定刻だった。
 元々甘いものはそこまで好まなかった息子だ。今もおそらく変わっていないとは思う。多分ガトーショコラを選ぶだろう。たまには息子と二人でデートというのもいいかもしれない。断られないといいけど。電車を降りた私はまた日傘をくるくる回して先輩の自宅へ足を向けた。

 なのに、レッスンを終えて出てきた息子は私の顔を見た瞬間一気に顔色を失った。
 息子の背後で重い玄関のドアがガチャンと閉まる。
 近くの庭木に一匹だけ蝉が止まっているようで、耳障りな声が痛いくらいにジリジリと響く。
「母……さん」
 息子は主人に似た高い身長で私に似た顔をして、変声期の頃のような掠れ声を漏らした。
 紛れもなく私の息子で、私の知らない男の子だった。
 額に滲んだ汗が玉のかたちになって滑り落ちていくのがわかる。でも指先の一本すら動かせない。無意識に吸い込んだ息はひどく浅くて、唇は微かに震えるのに誰のことも呼べやしない。
 初めて幼稚園のお遊戯会に行った時、初めて小学校の参観に行った時、ふと目のあった他所のお母さんの視線が「あっ」と言っていたのを覚えている。
 りょうくんのお母さん。ピアニストの。こんなひとなんだ。
 と好奇の眼差しが訴えていた。
 その時と同じ感覚だった。喉の奥がぎゅうっと締め上げられ、心臓が地の底に引きずり込まれていく。あの時は夫がこっそり背中に手を当ててくれたから辛うじて立っていられた。でも今は違う。私はひとりだ。ひとりで何とかしなきゃ。
 背中を誰かが揺らしているみたいに体がぐらぐらする。視点が定まらない。ごくり、と飲んだ唾に空気の泡が大量に混じってむせそうになる。
「えっと……その、たまにはと思ってお迎えに来てみたんだけど……。嫌、だったかしら」
 上ずった声が蝉の声にかき消されていく。おおよそ実の親子の会話ではないのはわかっていた。でも、それ以外何と言ったらいいのだろう。
「そんなことは……ない」
「……そう、じゃあ……帰りましょうか」
 辛うじて絞り出した言葉に、ざり、と息子の靴底が返事をした。

 足元に真っ黒な喪服のようなレースの花の影が落ちる。
 薄っぺらいサンダルのつま先の底がじりじりと焼かれて、ストッキング越しの指先が赤くなり痛みを帯びていく。衝動買いしたサンダルをおろしても、深い海のようなブルーに足の爪を塗っても、とっておきのテクニックを駆使して鍵盤で波を割っても、いつからか息子は「きれいだね」と言わなくなっていった。
 母は、そろそろ孫を呼び捨てにしようかと言い出した。夫はとっくの昔にそうしている。私は決断しきれなかった。大きくなっても息子は息子。年々涼しくなっていく目の奥にすら、未だに優しくて賢く従順な「りょうくん」が残っている気がして。
 でも実際はそうではなかった。私はプロの演奏家として誰よりも先をひた走らなければならないのに、息を切らせば切らすほど取り残されつつある。息子が大人になればなるほど私は子どもになってしまう。
 私も燎くんと呼ぶのを辞めるべきだろうか。いや、もしかしたらそれ以前に、自分のことをお母さんと呼ぶのをやめた方がいいのかもしれない。
 かつてのように日傘を差し掛けることもためらわれた。今やヒールを履いた私より息子の方が背が高い。もはや買い物どころではなく、二人して押し黙って粛々と帰路を歩むほかに道はなかった。

 家の広い玄関はがらんとしていて、夏の終わりの日に温められた淀んだ空気が充満している。
「おばあちゃんは……」
 無意識に助けを求めて母の姿を探してしまう。
「まだ公民館だと思う」
 息子は下を向いて靴を脱ぎながら淡々と述べた。
 その表情は黒い前髪で隠れてしまって見えることはない。靴をまとめて掴んでくるりと向きを揃えて並べるお行儀のよい仕草だけが、天から伸びた細くて白い糸のようだった。
 ザーーーーッ。
 洗面所の水の音が耳を打つ。思い出したように足の指が再び痛みを訴え始めた。
 きゅ、とレバーが下がる音が鳴って少ししてから息子が顔を出した。
「母さん、大丈夫?」
「……え? ええ」
 額に手を当てて目眩をやり過ごす。濡れて冷たくなった額は汗とファンデーションが混じってぬるりと上滑りする。なのにその奥はひどく熱をもっていて、あっという間に手の平の血管を押し広げていく。
「熱中症になったらまずい」
「そう、ね。燎くんも。先に行ってて。リビングのエアコンは付けたままにしてあるから」
 息子は影を残して頷く。その背中が一直線に二階の子供部屋に上がらずリビングへの廊下に消えたことに安堵を覚える。
 へばり付くストッキングを苦戦の末に脱いで洗濯かごの奥にやる。ひんやりした水で手を洗い流して、ティッシュで顔の汗を押さえてゴミ箱に捨てて、絡んだ髪をまとめ直しても、何ひとつすっきりしない。首から上のこもった熱を振り切れないまま痺れる足で廊下に向かう。

 そういえば、今の燎くんは何を飲むんだろう。
 私が直接聞く前に、ダイニングテーブルにはアイスコーヒーのグラスが二つ並んでいた。
「……ありがとう」
 先にテーブルについていた息子は黙って頷く。いつも使っている飾り気のないグラスを持ち上げ、氷が二つ入ったコーヒーを傾ける。そこで気が付いた。
 金色の刺繍で縁取られた白い薔薇のコースター。
 そういえばそんな物を持っていた。結婚して間もない頃、旅行先のイギリスで夫に買ってもらったのだ。きらびやかなカップがずらりと並ぶ棚を前に「どれがいい」と静かな期待に満ちた眼差しを向けた夫は、私が陳列台の隅からこのコースターを一枚つまんで手渡すなり一瞬戸惑った顔付きになったのを覚えている。
 魅力的なカップはどれも持ち手が白鳥の首のように細くて、割れてしまうのが怖かった。布製の白いコースターだって汚れてしまうと気付いたのは帰国してからだった。また買いに行けばいい。遠いけど時間さえあれば行けるんだからと夫は穏やかに笑って、コースターを仕舞い込む私の髪を撫でてくれた。
 けれどそれ以来、イギリスはおろか、いつか行きたいねと口にしていた箱根への日帰り旅行すら出来ていない。

 かち、こち、からんからん。
 時計の針と氷の音が絡む。
 息子はグラスを置いた。私の母が普段用に選んだ、ダークブラウンの真四角のコースターの上に。
 涼しい部屋でアイスコーヒーを何口か流し込んだところで、やっと悪い夢から覚めてきたような気がしてきた。今ならきっと。私は膝の上で重ねていた両手をほどいて拳にした。息を吸って吐いて何度かまばたきをして、それまでぼんやりと眺めていた薔薇に別れを告げる。
「燎くん」
 サッと顔を上げて私は口を開いた。その声が思っていた以上に大きくて自分でも驚く。息子はというと、目も口も丸くしていてランドセルを背負っていた頃の顔付きになっていた。
「あっ、その……ごめんね? 突然大きな声を出して」
「……いや、」
 二人して目をそらす。気まずさに決意が早速ぐらつく。けれど意外なことに息子の方が先に口を開いた。
「今日、譜面からずれていると先生に言われた」
 その言葉も随分と意外だった。あんなに青ざめた顔をしていたのだから、もっと信じられないようなことを言い出すのかとばかり思っていた。
 譜面通りに正確に弾くのは得意な方の息子だ。下手したらその精度は学生時代の私より高いかもしれない。でも、表現や世界観に気を取られるあまり譜面を逸脱してしまうのはよくある話。範囲にもよるがピアニストとしての個性の出しどころでもあるのだ。決して四角四面に押し込めていいものではない。長く息子のレッスンをしてくれているあの先輩がそういう指導をするとは思えない。
「そうなの? 珍しいじゃない。でも悪いだけの話ではないと思うわよ」
 私はやっと取り戻した平静さと声色で応える。ところが、息子のそらした目がこちらに向くことはない。
「いや、その…………思い当たる節が」

 かち、こち。
 古典的なドラマみたいに時計の針が大きく響く。
 私は息子に気取られないようになるべく注意しながらゆっくりゆっくり視線を落とし、焦げ茶色のコースターで食い止めた。力を抜いて、震える両手の指を組んで膝の上に置きなおす。心臓が急に膨らんで、顔まで脈を打っているようだった。唇を引き結んで音を立てないように細く長く息をする。
 思い当たる節。息子の言うそれに私が思い当たるものはない。あるとしたら何なのだろう。
 育児も教育も人に任せてばかりの私が言うのは不届きな話だが、幼い頃からしっかり者の息子だった。見せてくれるテストの答案はどれもほぼ満点。通知表も褒めるところしかなくてコメントのしようがない。三者面談では話すことがないと先生に言われるのがお約束。親が心配になるくらいの真面目さはひとえに折り目正しい私の母の教育の賜物で、贅沢な悩みだった。
 把握している限り、息子は体調が悪い日を除けばピアノの練習はほとんど欠かしたことがない。勉強の相談を夫に任せる代わりにピアノは全面的に私が見ている。前回見た時は何の問題もなかった。
 だとしたら友人関係……唯一の心配の種が最有力候補になってしまう。輝ちゃんが音楽スクールを辞めた時はどうなることかと延々気を揉んだ。仲が悪くなったわけではなかったようで、そのあと輝ちゃんと同じ吹奏楽部に入って他にも新しい友達が出来たと聞いた時は心底ホッとしたものだ。それでも、よそのお子さんと比べたらずっと人付き合いは不得意な方。幸い友達付き合いは続いているようだが、多感で繊細な年頃。何かあったとしてもおかしくはない。
 それに、こんな出来のいい息子なのだからいよいよ誰かに告白されたなんてこともありえない話ではない。もしかしたら人を好きになってしまったという可能性だって……いや、それは一旦置いておこう。あくまで可能性の一つ。すごく確率の低い可能性の一つ。
 どきどきする胸を落ち着かせようとコーヒーを流し込んでも全く収まらない。グラスで濡れた手をどうしようかしらと立ち上がろうとしたところで、ふいに息子が席を立った。

 スリッパがぱさぱさと音を立てて向かった先は、リビングのグランドピアノだった。
 思ってもみない行き先に私の足は硬くなってしまって言うことをきかない。弾くなら運指を見なきゃいけないのに、息子はもう椅子に腰掛けており指先はピアノの陰に隠れてしまった。
 始まった。

 ワルツだ。高いメロディが甘やかな和音を含み、穏やかに上下しながら空気を膨らませていく。
 と思ったら急なパッセージに爪先でステップを踏むようなスタッカート。よく手が動いている。頭の中に理想の演奏がイメージできている証拠だ。
 冒頭のフレーズが短いスパンで形とテンポを変えながらくるくると様々な面を見せて踊っている。変化は目まぐるしいものの強引さは感じられない。時々前のめりに音が詰まりがちなのは緊張しているからだろう。高音が時折引き攣れたり左手に一瞬の躊躇いが感じられる。
 しかし問題はそこではなかった。

 最初はワルツだと思ったけれど、このリズムと変化に富んだ構成に印象的な旋律。
 ジャズだ。
 主人の影響で幅広い音楽に親しんできた息子ではあったがジャズを弾いたことはほとんどなかったはず。どうして急にこの曲を弾いたのだろう。
「ええっと……ごめんね。聴き覚えはあるんだけど曲名が出てこなくて」
「ビル・エヴァンスのワルツ・フォー・デビイだ」
「そう! そうだったわね。そういえばそう……」
 おろおろと目をさまよわせる私に、息子はリビングの奥の棚から迷わず一枚のCDを引き抜いて側にあるプレイヤーにセットした。夫が「壊れない限りこれで最後の一台にする」と言い切ったスピーカーが音を流しだす。
 たったいま息子が弾いたのと同じ曲だった。どことなくピアノの弾き方が似ている気がする。溜めたり引っ張ったりする拍子の取り方が独特に感じられるけれど、ベースとドラムの力が手伝ってリズム感には軽やかなキレがある。
 耳に残りやすく、それでいて何度も聴きたくなるような深みもある演奏だった。母の贔屓目を認めた上で比較すると、息子の演奏はやや抑揚がはっきりしており鮮烈な印象があった。
 改めて聴きながら考えてみる。曲自体の難易度はさほど高くないように思う。やっぱりさっきの燎くんは実力を出し切れていない。
 私は口元に人差し指を押し当てた。
「今の、もう一回弾いてくれる?」
 再生が終わり息子がプレイヤーを止めた瞬間を見計らって声を掛けると、
「え?」
 と、振り返った息子が信じられないような目でこちらを見た。恐ろしいものを見ているような目でもある。母に叱られると思っているのかもしれない。
 息子は言われるがままに再び椅子に付いた。今度は私もその斜め後ろに立って演奏の全てを見届ける。
「大丈夫、お母さん怒ってるわけじゃないの。意外な曲だったからちょっとびっくりしただけ。とっても素敵だったからもう一回ゆっくり聴いてみたいのよ。だから燎くんも力を抜いて」
 さっきは緊張していただろうにあのレベルだ。驚きよりも興味が勝ってしまう。リラックスして本当の自分で弾けたなら燎くんはきっともっと。
 息子は黙って頷いて、身じろぎを一つするともう一度弾き始めた。

 全然違う。
 音の柔軟さと繊細さが段違い。手の動きもさっきよりずっと滑らかで、爪の先まで神経が通っている。高音は澄んでいて軽やか。低音の豊かな響きとの対比に美しい彩りが見える。でもお高く止まった様子はなく、語りかけるような情も感じられる。左手が深く沈みこみながら奏でる複雑な和音から滲み出るような切なさには込み上げてくるものがある。
 素早いストライドも難なくこなしている。忙しなさはなく余裕すら見えるほどに。

 中盤に差し掛かった。息子は聴く人の手を取って連れ出すみたいに軽快に指を踊らせながら鍵盤を駆けていく。それに合わせて拍子を取るように首が左右に揺れた。
 そのとき私は見てしまった。それまで真剣な面持ちで引き結んでいた口元が、ふっと緩んだのだ。
 燎くんが笑った。
 あの時の私だ。
 初めて思いのままに表現できたと自信を持てた時の私。心の奥底から湧き上がるような名前のない感情、それを形にしたいと訴える本能、どうしたら叶うのかと苦しむ頭脳、ひとりでに騒ぎ出す指先、その全てがぴたりと合致した時の本能が爆発するような歓喜。
 クライマックス。ハンマーが弦を打って切れのある旋律を跳ね上げる。舞い上がった空気が音の形になって白い天井をかき混ぜながら満たしていく。自分以外の演奏に対してこんなにも終わって欲しくないと強く願ったのはいつぶりだろう。
 息子は最後の音からしなやかに指先を引き上げた。柔らかく残った余韻が温かな風のように心地良く全身を包んだ。

「燎……くん」
 口元を覆った手をなかなか下ろせない。燎くんも椅子に腰掛けたまま微動だにせずじっと押し黙ったまま。
「…………やっぱりすごく上手いわ。本当にびっくりした。さっきよりずっといい。ジャズもこんなに弾けるのね。いつから練習していたの?」
 気がはやってつい早口になってしまう。今すぐ根掘り葉掘り聞きたくて仕方がない。どんな練習をしてきたの。他に何が弾けるの。誰に教えてもらったの。先生はこのことを知ってるの。興奮のあまり語気が強まりそうになる。取り繕って優しい母の顔を演じるのにかなり力を使った。
「……結構前から……なんだ」
 息子は鍵盤に向かって俯いたまま呟いた。私は額に手をやる。失敗した。あまり言いたくないことを言わせてしまったかもしれない。
 プロのクラシックピアニストの母に隠れてこっそりジャズの練習を積んでいたなんて、息子からしたら裏切り同然の行為だ。さぞかし気が咎めただろう。息子が幼い頃から、燎くんとピアノを弾くのが楽しいと私は何度も口にしてきた。それは私の前向きな本心だった。でも息子にとってはどうだっただろう。もしかしたら呪縛だったのではないか。このままお母さんの大好きなクラシックを弾き続けてね、という愛情の皮をかぶせた温かな呪いの言葉。
 本当は訊かなくてもわかる。母の前でこんなに楽しそうに弾きこなしてみせるのだ。一朝一夕で身につくものではない。本気でジャズに魅せられて連日弾き込んできたのは明らかだ。
 いつだって息子は真面目でどんな音楽にも正面から取り組んできた。多少の好みや入れ込みようの違いはあった。でもこんなに情感のこもった弾き方をしたところなんて、今までただの一度も見たことがない。

 喉の奥が震える。首元に手をあてても治まらない。エアコンですっかり汗は引いたのに手の平から滲むものが止まらない。
「……いいのよ、燎くん。ジャズでもポップスでも。好きなものを好きなだけ弾いて。自分の一番好きなものを自分の道にするの」
 私はもう一度息子の背中を撫でるように口にした。それが心優しい母親の言葉になりきっていたかどうか、自信は持てない。
 ぴくっと白いシャツの肩が跳ねてこちらを振り向く。私と同じ水色の目は半信半疑と驚きで塗りつぶされて、でもその内側はきらきらと日の光に瞬く朝の波間を映していた。「おかあさん、ぼくグリッサンドができるようになったんだ」と、まだぎこちない指先で白い鍵盤の砂浜にささやかな波打ち際を生んでみせたあの日の光だった。
「母……さん?」
「え?」
 右の頬を流れていったものが何なのか分からなかった。指先でちょんと触れると温かくて、三本の指をこすり合わせるとすぐに乾いて消えた。私は顔を背けてダイニングに向かった。
「……嬉しかったの。燎くんに好きな音楽が見つかったことが。昔から何でもよく聴いていたでしょう? でも特別なお気に入りがあるってやっぱり違うと思うの。お母さんにとってクラシックがそうだったみたいにね」
 ダイニングからさっき座っていた椅子を持ってきて、息子から少し離れたところにゆっくりと腰を下ろした。
「ジャズでもポップスでも弾けばいいって言ったのも本当。燎くんにクラシックを勧めてきたのはお母さんが好きだからっていうのもあるわ。でもそういう気持ちを抜きにして言うと、ピアノの根本的な基礎はクラシックにあると思っているからなの。今なら分かるわよね?」
 息子は教えを請う生徒の顔になり、背筋を伸ばして頷く。
「考え方は人それぞれだけど、私は基礎がしっかりと身に付いたら他のジャンルを本業にしてもいいと思う。燎くんの実力はもうその域だわ。正直言ってクラシックは……無理に続けなくてもいい。何なら……もし燎くんが嫌になっていたのなら」
 息子の前では一人の母親でありたい。なるべくピアニストとしての顔は出したくない。そう努めてやってきたつもりだった。でも今だけは出来そうになかった。表情を消して堂嶌家のピアニストの顔を作っていないと、何かが崩れ落ちてしまいそうだった。私は言葉を切って一度大きく息をした。
「……いいのよ、クラシックを辞めたって」
「母さん、無理はしなくていいから」
「大丈夫! 大丈夫だから! それに、無理してたのは燎くんでしょう? お母さんのせいで何かと遠慮させてしまってたわよね?」
「それは」
 息子はさっと顔を強張らせ実質の肯定を見せた。やっぱりそうだったのか。
「……いいの。燎くんは何も悪くない。お母さんがいけなかったんだわ。本当に……申し訳ないことをしてしまったわね」
 再び口を開きかけた息子を首を振って制して私は席を立った。視線の先にあるプレイヤーは先ほどのCDが入ったまま停止している。脇に置かれたジャケットの裏を見てトラック番号を指定する。
「…………私にも弾かせて。もう一回聴いてから」
「そんなことしたら来月のラフマニノフが」
「大丈夫。それくらいじゃお母さんのクラシックは絶対に曲がらない」
 絶対に。つい熱のこもってしまった言葉に、息子はそれ以上何も言わなかった。

 一音たりとも聴き逃さないように旋律の内訳を頭に焼き付けていく。曲はさほど長くない。しかも同じパターンを何度も弾いている。さすがに全部を覚えるのは無理でもメインフレーズを覚えれば冒頭だけでも弾けるはず。
 脳に抱え込んだ音をこぼさないように、ゆっくりとピアノに向かう。息子は既に私のダイニングチェアに座って鍵盤の前を開けていた。譜面台にはいつの間にか楽譜が置かれている。音楽スクールの昇級試験みたいだった。
 浅く腰掛ける。
 譜面があるなら予定より少し長く弾ける。
 両手を握って開いて、握って開いて、息を吸って、吐く。

 息子の手の映像と私の手、さっきの息子の演奏とCDの音源、そしていま私の頭の中にある音。その全てをまとめて譜面を重ねて縫い付けていく。
 自分で弾いてみると主旋律がとても心地良くて優しい気持ちになれる。でも癒やされるだけじゃない。和音を重ねて上りつめていく時の高揚感には指だけでなく胸も踊るよう。息子はこんな気持ちで弾いていたのだろうか。
 序盤を終えて一度目の展開に入る。完璧ではない記憶を譜面で穴埋めして、気持ちのままにリズムの揺らぎを試してみる。果たしてこれがジャズとして成立しているのかは分からないけれど、曲としての体裁は保てていると思いたい。少し手応えを覚えて肩の力を抜き、次の展開の前まで弾いて演奏を終えた。
 楽しい。独特の難しさはあるけれどそれがやり甲斐にもなりそう。
 クラシックでは経験したことのない不思議な感覚だった。古い譜面を辿っているのに自分で音楽を作っている感触がある。私は笑顔で振り返った。しかし、息子は口元に拳を当てて笑いをこらえていた。
「母さんって……その、あまりジャズは」
「…………え?」
「いや……何でもない」
「嘘! なかなかうまくできてたと思わない? お母さんほとんど初見よ!?」
「――ッ」
 息子は耐えきれず吹き出し、そっぽを向き声を上げて笑い始めてしまった。こんな声で笑う子だったのか、と私は他人事のように眺めながら小さく笑った。
「はあ、プロやってて下手と言われる日が来るとはね。まあでも……燎くんで良かったかもしれないわ。悔しいけど……。もう、そんなに笑わなくてもいいでしょう!?」
「下手とは言ってない」
「ほとんどそう言ってるようなものじゃない!」
 息子は横を向いて背もたれに縋るようにして笑っている。果たして学校でもこんな風に笑えているのだろうか。それを知るすべはきっと私にはない。そもそも知る権利はもうないのだ。この子はもう中学生になった。親があれこれ詮索していい年頃じゃない。

 ふと思い出してCDの棚に向かう。主人が昔一押しだと言っていたジャズピアニストのアルバムがここにあったはず。おぼろげな記憶を頼りにアルファベット順に並ぶ棚を辿って、それらしい物を一枚抜き取る。これだ。
「そういえば燎くん、セロニアス・モンクは弾けるの?」
「……モン、ク」
 はあはあと肩で息をしていた息子がふっと呼吸を止めた。私は思わずにやりとした。
「ふうん、その調子だとさすがの燎くんでもまだこれからというわけね? 分かりました。じゃあ次の課題曲はこれにしましょう。お父さんも好きって言ってたし」
「それは!」
「あら、だめなの? お母さんさっきすごく楽しかったのよ。また燎くんと同じ曲を弾いてみたいわ。今度はちゃんと練習したい。ラフマニノフのことは心配しなくていいから」
 慌てて立ち上がってこちらを向いた息子を放ったらかして、私は先ほどの曲を口ずさみながらCDを入れ替える。

 再生ボタンを押してしばらくして私は凍り付いた。
「燎……くん」
「だから言ったじゃないか」
 息子は抽象画のような旋律を背に呆れて手を腰に当てる。その仕草も夫にそっくりだった。
 かつて夫は言っていた。「もしかしたら君は彼の独創的な音楽が苦手かもしれない。無理して聴くことはない。でもモンクはモンクなんだ。だから売れたと言ってもいい。好きになる必要はないけどありのままを認めてほしい。好きなものを否定されるのは僕も悲しいからね」と。
「やっぱり燎くんも、モンクはモンクだって思う? どんなに難解でもそれがいいんだって」
 息子は黙って頷いた。
「なるほどね。お父さんも燎くんもそう言うならそういうことなんでしょうね。分かったわ……まあ、モンクをどうするかは一旦置いておくとして、ファーストコンサートが決まったら教えてね。お母さん行くから」
「……母さん、気が早い」
 息子はモンクの旋律のように視線をあちこちにやる。その表情はすぐに、私と同じまっすぐな黒い前髪の陰に隠れてしまった。