青と翔琉。うにいくらパンに憧れる青くん。
「今日もダメか……」
依吹はマーガリンコッペパンを手にうなだれた。
普段は持参の弁当だが、母がうっかり寝坊してしまった時には臨時の小遣いを手渡されこうして購買のお世話になっている。好みの味であり、かつ腹に溜まる母手製の弁当は、馴染みのメニューのローテーションであっても飽きが来ない。依吹の毎日の楽しみのひとつだ。ただ、購買の新鮮さは新入生の好奇心と食欲を否応なしに掻き立てる。母には申し訳ないと思いつつも、依吹は少しだけ膨らんだ財布を手に密かに胸を躍らせるのだ。
しかし、それは喜びに満ちた買い物とは限らない。この高校の購買は手頃な価格で美味しいと評判なだけあり、戦争とまではいかないものの目当ての物が買えないのが当たり前。特に、併設の食堂の厨房から運ばれる作りたてのサンドイッチは専門店に匹敵する味との呼び声が高い上、数が少ないため滅多にお目にかかれない。入学してから丸二ヶ月経った現在、依吹のクラスで特製サンドイッチにありつけた者はたった一人、盗塁を買われて推薦入学した野球部の男子だけだ。今や特製サンドイッチはクラス内で都市伝説と化しつつある。
特に、一番人気のうにいくらパンは。
「はあ……」
依吹はとぼとぼと購買を後にし、飲料自販機へ足を向ける。
グラニュー糖たっぷりのマーガリンコッペパンも悪くはないのだが、気が進まない物を買わされるのはやはり悔しい。せめて飲み物だけでも良い物を、と手の中の釣り銭を自販機に投入し、普段の物より二十円高い濃厚カフェオレのボタンを押した。
「お、良いもの買ってるじゃん」
「はい!?」
突然声を掛けられ、依吹はそれまで落としていた肩をびくりと跳ね上げた。
「あー、その、驚かすつもりはなかったんだけど……ごめんな?」
「い、いえ!智川さんは悪くないです!」
慌てて首を振る。
「あんまりにも元気がなさそうだからつい声かけちゃった。どうした?」
たかが購買のパンで落ち込んでいるなどと部の先輩に知られるのはばつが悪い。どう言い訳しようかと依吹は智川の顔から視線を逸らし、
「いえ、全然大したことでは……あ」
結果、それに目が留まった。留まってしまったその瞬間、依吹は猛烈に後悔した。
白いレジ袋が引っかかっている手首の先、智川の手には高校の購買にはおよそ似つかわしくない高級そうな手提げ袋が握られていた。楕円形の手提げ穴のある分厚い乳白色の袋。底部の大きなマチは菓子店のものを思わせるが、それとは異なり、中身が見えるよう中央部に透明フィルムで大きな窓が作られている。そこから覗く僅かな赤い光に、依吹の本能と眼は完璧に縫い留められてしまったのだ。
「あー……もしかして、これ?」
気付いた智川が、自分の手元と依吹の顔を交互に見やり、答え合わせにそれを掲げる。
「す、すみません……授業が早く終わったので、今日こそは買えるんじゃないかと思ったんですが……」
羞恥で顔を伏せる依吹に、智川は
「ははは、気にすんなって!俺、これ初めて買うのに半年かかったんだぞ?それまでに何回へこんだか」
あっけらかんと笑い、
「よし、落ち込んでる可愛い後輩のために智川さんが奢ってやろう!」
「……え?」
智川は屈んで自販機からカフェオレを取り出し依吹に手渡すと、片手のパンはそのままに、もう片方の手でズボンの尻ポケットから財布を抜き取り小銭を流し込んだ。楽器が上手い人はやっぱり手先が器用なのか、と依吹は突然の誘いに混乱した頭で考えた。
「俺もカフェオレにしよっかな……いや、やめとこ。このチョイスを優貴に知られたらまずい」
「え?」
「色々とうるさいんだよ、あいつ。気持ちはわかるんだけどなあ」
智川は苦笑いしながら商品ボタンを押し込む。ブラックの缶コーヒーを取り上げ、依吹を促しテラス席へ歩き出した。
食堂の外にはいくつかテーブルとイスが置かれており、天気の良い日は生徒達の人気スポットだ。しかし実際は「上級生の」が暗黙の了解。一年生の依吹にとっては、憧れつつも近付けなかった高嶺の花のような席だ。依吹は場違いさに萎縮して視線をさまよわせる。かといって先輩の申し出を断ることも出来ない。結局勧められるまま恐る恐る腰を下ろした。
「別に一年が堂々と座ったって良いと思うんだけどな」
その心境を読んだかのように智川はのんびりと腰掛ける。
「はい。出来立てが一番だぞ」
片手で手渡された袋を両手で支え持ち、そっと受け取る。
「ありがとうございます……わあ……」
手提げをそろりと開いて中を覗き込むなり、依吹は感嘆の声を上げた。慎重に手を差し込むと、温かい包み紙が指先に触れた。
うにいくらパンの正体は、ホットサンドだ。
薄切りの食パンを半分に切って作られた長方形のサンドイッチが二つ、茶色い無地のオーブンペーパーに包まれている。こんがりと焼かれたパンは両面とも見事なきつね色。トーストの間に挟まった大粒のいくらはなだらかな丘を作り、朗らかな陽光を受けて、細かな星々を浮かべている。少しでも力を込めれば零れ落ちそうだ。
顔を近づけた依吹は、ほわりと立ち上るバターの香りにごくりと生唾を飲み込む。
「い、いただきます」
いくらをこぼさないよう大口を開けるべきか、いやいや勿体ない。それにご馳走してくれた先輩の手前だ。依吹は迷った末、いつもの一口で――しかし顔は斜めに傾けて――おずおずとホットサンドに齧り付いた。
ぷしゅっ。
「……ん!?」
噛み締めた瞬間、サクサクと香ばしい音を立ててトーストが砕ける。その間からつるりとした醤油漬けいくらの皮膜が次々に破れ、瑞々しいエキスが弾けて溢れ出した。全く生臭さを感じない。覚えのある爽やかな後味に、
「レモン……?」
はたと気づいて依吹はひとりごちる。
「よく分かったな!俺全然気付かなかったんだぞ?」
喫茶店の孫なのにな、と智川はおどけて笑う。
「た、たまたまです」
依吹は恐縮してぶんぶんと首を振る。そして二口目を頬張ろうとして今度はその首を捻った。
「え?これがうに……ですか?」
先ほど齧った断面に目を凝らす。いくらの両脇にバターソテーしたスライスオニオンが見て取れた。その陰に、薄く塗られた濃い橙色のペーストが見える。これをうにと呼ぶなら、うにいくらパンと銘打つには余りにも量が少ない。
「そ。少ないよな!もっと入れてくれよケチくさい」
智川が調子を合わせて文句を言う。
「と思うんだけど予算かなあ……これ以上値段上げたら誰も買わないだろ」
「そ、そんなに高いんですか!?」
依吹は素っ頓狂な声を上げる。毎回購買に着く頃には完売札がメニューの上に貼られており、値段が隠れてしまっていたからだ。
「聞いて驚くなよ!……と言いたいけど、言ったら腰抜かしそうだから黙っとく」
「え……?そんなに凄いものをご馳走になってしまって良いんでしょうか……」
クラスメイトから高いらしいとだけ聞いていたので、通常商品よりちょっと高い程度だろうとふんでいた。しかしそれはとんでもなく楽観的な思い違いだったのかもしれない。依吹は身体を丸めて俯いた。
「いいのいいの。俺が先輩風吹かしたいだけ。でもせっかくだから大事に食べるんだぞ?」
「は、はい!もちろんです!」
大きく頷いて二口目を頬張った。少し湿気を帯び始めたトーストはモッチリとした食感に変わり始め、パンの優しい甘みが伝わってくる。
咀嚼を続けると、とろりとしたオニオンソテーに混じって、濃厚なうにの風味がじわじわと口の中に広がってきた。うにと聞いて軍艦巻きに載っているようなうにを想像していた依吹は予想に反した塩味に驚く。これは瓶詰のうにだ。先程は申し訳程度の少なさを嘆いたが、実際に口にしてみれば、独特の風味はこの量でも玉ねぎの甘さと十分渡り合えると感じた。計算された量なのだろう。多すぎればいくらの良さも損なってしまうかもしれない。
「ふう……」
ゆっくり深呼吸したくなるような味わいだ。しっかりと焼かれたトーストのカリカリ食感に、うにとバターとオニオンの奥深い甘みとコク、いくらを包むレモンの香りが見事にマッチしている。最後に舌と鼻に残るピリッとした黒胡椒が良い刺激となって、早く次の一口を食べたくなる。
この後に質素なコッペパンを口にする気にはとてもなれなかった。
「智川さん、あの」
「ん?」
「今度自分でも買いたいので、値段……聞いてもいいですか」
「おっ、度胸あるねえ」
ニヤリと笑みを浮かべた智川の答えに、依吹はしばらく立ち上がれなくなってしまった。
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