[02]暗がりで光るもの

奏斗と優貴。奏斗から見た神条さん。奏斗がプレイ中のゲームや過去を捏造。




「うわ……」
 横に長い大判のキャンバスは、端から端まで暗色で塗り込められていた。
 黒々と広がる海の真ん中には、尖った山のような形の島。その稜線は細々とした建造物でびっしりと覆われており、ところどころに超高層ビルが突き立っていた。島の周囲には人工港湾に灰色の船が取り巻き、海上には大型重機が浮かぶ。動植物の類は一切なく、色を添えているのは無数に散らばっている小さな点状のライトだけだ。
「ノクリスに伸ばせぬ黒い手はない」
 氷室は住人の台詞を思い出した。
 MMORPG「ロストノートオンライン」で氷室が長く拠点として過ごした、常夜の街ノクリス。
 魔族に太陽を奪われて以来一度も日の光を目にしていないとされるこの街は、明かりを求めて機械に頼った結果この姿へ変貌を遂げたと言われている。水や風など周囲からあらゆるエネルギーをかき集めて電気に変換し、その電気で機械を動かしてさらに大きな電力を生産する独自のテクノロジー。それはノクリスを黒い鉄の街として高度に発達させ、やがてその無機質な身体を肥大化させていった。
 氷室は、初めてここを訪れた日にはその見た目の異質さに驚き、他の街と違ってゲーム内時間が経過しても昼夜のビジュアル変更がないという設定に忠実なシステムに舌を巻いた。
 こういった原画展のようなリアルイベントにはさほど興味がない性質なので、入場者特典を受け取ったら軽く見て回ってさっさと帰る予定だった。しかし、思い入れのある風景を普段のパソコン画面と違う俯瞰の視点で眺めていると、今までの記憶が次々呼び起こされてしまう。液晶よりも遥かに大きいキャンパスに緻密に描き込まれた細部には鬼気迫るものがあり、なかなかその場を離れることが出来ない。
 物語の冒頭は、親友が実は魔族だと発覚し、プレイヤーを魔族に仕立て上げ全ての罪を擦り付けた挙句身ぐるみを剥いで――本当に全所持品と所持金が失われた時は真っ青になった。例えそれが二束三文にも満たない初期装備と薬草と小銭でも、MMORPG界では異例のこと。タイトルのロストはこのことだという冗談はSNSでの鉄板ネタだ――世界から追放するというもの。プレイヤーは素性を隠して、己を鍛えながら親友を殺すための情報を集めるのがストーリーの趣旨だ。
 その過程で、登場人物から助言を受け辿り着くのがこの街だ。そこでプレイヤーは新たな相棒に巡り合うことになる。闇に覆われた重苦しい景色には似つかわしくない、ふわふわと波打つのピンク色の髪の少年。ちょうど今氷室の眼前で、ロープに膝が触れるほど近付いて絵に見入っている彼のような。
「タ……神条さん?」
 本来なら休日に知人を見かけても知らん振りをする氷室だが、一度うっかり登場人物の名前を言いかけてしまった以上、訂正するにはこうするしかない。
 しかし、神条はキャンバスのギリギリまで顔を近付けて海洋観測艦を凝視するばかり。目を見開いたり細めたりしては、時折微かな唸り声を漏らしている。やっと背筋を伸ばしたかと思いきや、今度は両手を腰に当て、海底資源採掘プラットフォームを眺め始めた。氷室は再度開きかけた口をつぐみ、足音を立てないようにそっと踵を返そうとした。
 すると突然小さな両肩を跳ねさせ、神条がくるりと振り向いた。
「……氷室? 何でここに……ああ、そっか。ゲームか」
「え? ……えっと……まあ、そんな感じです。神条さんはこの絵が好きなんですか?」
 口ぶりからして、神条はこのゲームのプレイヤーではなさそうだ。氷室は当り障りのない質問をしてこの場をしのぐことにした。
 部活の合同練習で時たま顔を合わせはするものの、神条は部室に入るなりすぐさま部室端の定位置に陣取って練習を始めるのが常だ。弦から指を離している間は助言をしたり檄を飛ばしたりで気忙しい。非社交的な氷室は挨拶を交わすのが精々。お互いのプライベートは一切関知していない。
「ああ。絵もだけど、昔からこの画家が好きで。『あさのこないまち』っていう絵本、聞いたことある?」
 神条は再び絵に向き直った。
「ゲームの公式サイトで、タイトルだけは。原案なんですよね」
「そう。この画家は近い将来必ず売れる。もし俺が今社会人だったら、無理してでも何か買ってたね」
 神条はキャンバスをまっすぐに見据え、異能力漫画の未来視能力者のように断言した。満月のような瞳がこの街にない温度を湛えて鋭く光る。氷室は一歩も動けないまま、波の立たない海面に視線を漂わせた。
「そういえば」
 と、神条がトートバッグから小さな封筒を取り出して見せた。
「これ使う? 俺ゲームしないから」
 それは氷室が持っている物と同じ、限定装備をダウンロードするためのシリアルコードだった。引っ張られるように視線が吸い寄せられ、逸らすことが出来ない。コード一つにつき得られる装備は一つ。キャラクターを二人育成している氷室は是が非でも二枚手にしたかった。
「それはもちろん、あればありがたく使います。でもいいんですか? ぶっちゃけ……売れると思いますよ? この装備、性能いいんで」
 氷室は封筒に釘付けになっていた視線を首ごと引きはがし、神条に尋ねた。
「だとしてもその金額じゃ絵は買えないだろ。そのかわり……そうだ、聞きたいことがある。氷室、この後の予定は?」
「……特にないです」
 氷室は一枚目より随分と重さを感じる封筒をリュックに仕舞い込み、肩ベルトを掛け直した。

 神条の先導で氷室はショッピングモールの地下まで降り、地下街へ出た。広々としたメイン通りには両サイドに色とりどりの雑貨やファッションアイテムがずらりと並び、休日を満喫する買い物客で賑わっている。しかし神条は全く目もくれず、速足ですいすいと雑踏を躱して進んでいく。彼の髪がピンク色でなければすぐに見失っていたかもしれない。氷室はすれ違いざまに人と何度も肩をぶつけそうになりながらどうにかついていった。
 メイン通りの終わりが前方に小さく見え始めたあたりで、神条は急に左へ進路を変え狭い脇道へ入った。急に暗くなった景色に、人ごみを抜けきった氷室は辺りを見渡す。数十メートル先の突き当たりには細い上り階段、左右に並んでいるのは開店前の居酒屋とバーがほとんどで、人気は全くない。しかしその中に一軒だけ明かりのついた店があった。タイルには電灯を内蔵した昔ながらの四角い看板がぼうっと白く光り、「珈琲と紅茶の店 とるこ」と古めかしい飾り字の店名を浮かび上がらせている。
「へえ、ネットで見た通り渋い店構えだ」
「……初めて来たんですか?」
「そう。ここは牛乳が美味しいらしくて」
 珈琲、紅茶、とるこ、牛乳。全ての単語は頭の中で散り散りになりまるで繋がらない。氷室はドアの脇に置かれた魔神のランプのような形の大きな照明を、
「入るぞ」
 と声をかけられるまでぼんやりと眺め続けてしまった。

 客は一人もいない。手狭な店内は表とさほど変わらないくらい薄暗く、天井に半球のシェードを被った仄赤い電球がいくつか点在する程度だ。お好きな席へどうぞとの声に神条が選んだ席には、厚手の暗いワインレッドのテーブルクロスが掛けられ、座席につくと端のフリンジが太ももに触れるのが少しくすぐったい。
「すごい」
 神条はフリンジを手に取って少しいじった後、左右を見渡した。
「汚れた時のことを考えてないんだな」
「え?」
 釣られて氷室も店内の品々を目で検分する。天井のシェードはよく見ると凸凹の小さなタイルが嵌っている。壁面には複雑な装飾の額縁、棚には異国情緒漂う置物がいくつもあり、埃を取るのには苦心しそうだ。このテーブルクロスも見た目は重厚でいいが、乾きにくいだろう。フリンジはすぐに汚れるかもしれない。
 感心した氷室が視線を戻すと、神条の目はとっくにメニュースタンドに釘付けだ。ハガキ大の小さな透明板に写真が挟まっている。
 一日限定十杯 スペシャルミルクセーキダブルバニラアイスのせ
 氷室は目を逸らし、無言でそろそろとメニュー表を抜き取って開いた。
 注文を取りに来た店員に神条は迷わず告げた。
「アイスチャイを一つで」
「ア…? えっと、アイスカフェオレをお願いします」
 注文の品がやってくると、神条はストローをグラスに挿し、空になった細長い紙製の袋をテーブルに置いて指で押さえつけ、数回しごいた。神条は見事な真っ平になった袋を脇に置き直し、口火を切った。
「単刀直入に言う。カケルのことを聞きたい」
「――! 智川さんの、ことですよね」
「ああ」
 氷室は下を向いて少しずつ紙包みの端を破り、慎重にストローを取り出した。それでも、額に刺さる視線はすぐにこの手の震えを見抜くかもしれない。
「どうしても引っかかることがある。早めに手を打ちたいんだけど本人が話さなくて埒が明かないんだ。手掛かりは氷室しかない」
 氷室は恐る恐る顔を上げた。するとそれに気付いて今度は神条が俯いた。
「悪い、怖がらせた。過去を詮索されるのは嫌だと思う。敵に塩を送るのも気が進まないよな」
「いや、それは……一回組んだわけですし、敵だなんて思ってませんよ」
「よかった。嫌なら無理に答えなくていいから」
「はい」
 氷室は頷いてグラスを取った。氷がたっぷり浮かんだカフェオレを少し口にすると、やっと人心地がついた。氷室はグラスをコースターに戻し、椅子に深く座り直した。フリンジを引っ張らないように、両手を注意深く膝の上で組む。
「ありがとう。じゃあさっそく聞かせてもらう。このコード進行に心当たりはある?」
 神条はスマートフォンのメモアプリを開いてこちらに寄越した。
 そこに書かれた三つのコードに、組んでいた両手がぱらりとほどけた。指先が冷え切って力が入らず、手の平で包んでさすっても一向に温かさが戻らない。今カフェオレを飲んだばかりなのに、もう口の中は渇ききってしまった。湧きもしない唾を飲むと、舌と上あごがこすれてざらりと音がしそうだった。氷室はぎゅっと拳を握った。
「やっぱりそうか……あいつ、このコード進行の時、たまにおかしいんだ。妙に力が入ってて。本当にたまにだし、注意して聴かないと気付かないレベルなんだけど」
「コンクールの課題曲です……昔の」
 氷室があるジャズソロコンテストのジュニアトランペット部門に出場した時だ。当時の氷室は敵がいないと言われるほどで、今回も優勝候補と目されていた。しかし直前になって無名の新人がやってきた。それが智川だった。今まで大会には出ず完全に趣味として演奏をし続けてきたという智川のパフォーマンスに、氷室は度肝を抜かれた。
「失礼ですけど、バケモノだって思いました」
 氷室はじっとグラスを見つめた。表面の水滴が大きくなって流れ落ち、コルクのコースターに焦げ茶色のシミを作る。
「聴いた瞬間に、負けたって……そんなこと絶対思っちゃいけないのに。それくらいすごかったんです。惹きつけるを通り越して、何ていうか……飲み込むって感じで」
 周囲から神童と持ち上げられるようになってから、氷室の演奏は空虚な理想を追い求めるものに変わっていった。人の反応を伺いながら、良い評価が得られそうなテクニックを駆使して、認められ続けるためにその場しのぎの綱渡りをしていた。
 智川は、トランペットを握っているだけで楽しくてしょうがないと無邪気に笑う子どものようだった。技術は未熟で荒削りで、好き勝手で、ただただ俺の音を聴いてくれという意思の塊だった。その演奏には自分のやりたいことだけがぎゅうぎゅうに詰め込まれ、破裂しそうだった。こんな奏法を試したい、こんなテンポでやりたい、まだまだやりたいことはもっとある、俺のやれることはこんなもんじゃない、そんな一方的な押し付けだった。
 舞台袖からは智川の後ろ姿しか見えなかったが、空気が完全に彼のものになったのはすぐに肌で分かった。ある一ヶ所のフレーズで小さなミスさえなければ満場一致で智川が優勝していただろう。
「それから、吹けなくなりました」
 その大会のトロフィーだけは、一度も部屋に飾っていない。
「そうか」
 神条はそこで初めてチャイのグラスを手に取った。コースターには大きな輪が出来ている。持ち上がったグラスのへりからも、ぽたんぽたんと雫が落ちて、テーブルクロスの上に小さな水たまりを作る。やがて吸い込まれて、神条の前には暗い水玉模様がいくつも滲んだ。
「すみません。自分の話ばっかしちゃって」
「いや、俺の方こそごめん。そこまでの話だとは思ってなかった。カケルは『大会でやらかして氷室に負けた』としか言ってなかったから」
「何というか……だいぶざっくりしてますね」
「だろ? そのせいでどんだけ苦労させられたか。今も苦労してるけど。リョウがいなかったら俺はとっくの昔にキレてバケモノになってる」
 神条はしかめっ面でストローに口を付けた。みるみるうちに水面が下がっていく。解放されたストローの端はへこんでいびつに曲がっていた。
「神条さんは……優しいですね」
「……初めて言われた。カケルにも今度言ってやってくれ。お前が見放されずにいるのは優しい神条さんのおかげだぞって」
 神条は肩で大きな息をするなり、ストローの袋を取り上げいじり始めた。
「か、考えておきます」
 氷室は意識して両肩の力を抜き、グラスを取った。神条の言う通り、カフェオレは牛乳の甘みとコクが強く、濃厚な味だ。紙ナプキンを取り濡れた手を拭うと、少し温かさが戻ってきた。
「優しく見えるのは多分、俺も昔ちやほやされて痛い目見たからだよ」
「そうなんですか?」
「そ」
 短く言い残して神条は席を立ち、伝票を手に取った。氷室がテーブルに手をついて口を開きかけると、神条は自分のグラスの脇から何かを摘まんで氷室の前に置いた。
「今度機会があったら教える。それ連絡先」
 見ると、それは紙で出来た手作りの小さな白い星だった。五つの角は見事に均等な角度に揃えられている。
 氷室はそれがストローの袋を折って作られたものだと気付くまでに時間を要した。爪の先でひっくり返して裏面の書き込みを確認した頃には、神条は姿を消していた。