[03]ミズ・ブルー

玲玖中心・メンバー多数。炸裂するリックワンマンショー。お裁縫をする燎。




「ああっ、そうだすっかり忘れていた!ボクとしたことが!」
 ガタン、と椅子が大きく揺れて床を踏み鳴らした。
 氷室はスマートフォンから顔を上げた。
 立ち上がった安藝月が目を閉じて天を仰いでいる。戦争のなくならない世界に絶望する舞台俳優のようだ。左手はぎゅっと心臓を掴み、右手の甲は額に当てがわれている。
 この場にスポットライトがなくて良かった、と氷室は再びスマートフォンに目を落とし半壊の城壁をタップして修復を開始した。ハンマーを担いだ熊が数匹現れ、瓦礫を片付け石を積み直していく。
「テル!キミは裁縫というものはできるかい?」
 安藝月は身体の向きを変え尋ねる。右手が額を離れて優雅に放物線を描き、揃った指先が天城の胸の前でピタリと止まった。
 同時に、天城が身体を強張らせた。限定ファンデーションとハイライトで仕上げた白い眉間にピシリと亀裂が走る。
「裁縫、ねえ……まあ……」
 天城はたっぷりと時間をかけて首からネックストラップを外し、バリトンサックスをスタンドに預けた。重量に耐えきれず木の床が軋む。
 天城は目を閉じて左右に首を振って後ろ髪を大きく揺らし、後頭部のリボンの下に片手を差し込んで軽く払うような仕草で前に持ってきて胸元に流した。両手の指先を手櫛にして丁寧にサイドの髪を整え、それからやっと薄く目を開けた。
「……出来なくはないけど?でもアイツに頼んだ方が早いんじゃない?」
 細い視線だけがピアノに向かうのを安藝月は目で辿る。差し出したままの手がヒクリと動いた。
「まさか……リョウかい?」
「嘘だと思うなら本人に聞いてごらんなさい」
天城は早口で答えるなりそっぽを向いた。

 安藝月はしばらく手を腰に当ててピアノの主に目を凝らした後、大きく頷いて踏み出した。
「リョウ!キミは裁縫が得意だと天城から聞いたんだが本当かい?」
 高らかな呼び声に堂嶌が楽譜を置いた。
「期待に添えず申し訳ないが、決して得意ではない。ただ最低限のことが出来るだけで」
「ふうむ……その最低限というものに、ボタン付けは含まれているかい?」
「ああ。オーソドックスなものなら」
 その一言に安藝月は両手を叩いて鳴らした。
「素晴らしい!じゃあキミにお願いするとしよう!ボクの愛しのミズ・ブルーをね!」

 行田がドラムの前に腰を下ろし、神条がペットボトルのレモンティーを手に咳き込み、部室の外で智川が朗らかなエチュードを吹き始めた。氷室はあくびを噛み殺しながら、黄金色に輝く麦畑をタップした。揃いの緑の服に身を包んだ小ネズミたちが駆けてきていそいそと刈り取りを始める。
 堂嶌は僅かに口を開いたまま黒い椅子から安藝月を見上げていたが、智川のエチュードが終わったところでハッとまばたきをした。
「悪い、そのミズ・ブルーというのは……誰のことなんだ?」
「そういえばそうだった、すまないね。キミにはまだ紹介していなかった。彼女さ。どうだい、美しいだろう?」
 安藝月は堂嶌へ歩み寄り、きっちりと畳まれた白いワイシャツを両手で差し出して見せる。堂嶌は額に手を当てて息を吐いた。
「なるほど、そういうことか……わかった」
 堂嶌は立ち上がって自らの鞄から小さなソーイングセットを取り出して戻ると、ピアノの鍵盤の蓋を静かに閉め、椅子の向きを安藝月の方に変えてから座り直した。
「ありがたい!彼女は今月ボクのクローゼットに加わった新入りでね!なのにもうこんなになってしまって、見ていられなかったのさ。ボクはね、この胸ポケットの刺繍に一目惚れしたんだ……青い薔薇!花言葉は夢叶う!最高だと思わないかい?」
 安藝月は抑揚をつけながら歌い上げるように主張する。
「そうだな。シンプルでいい。制服のジャケットから見えないしな」
 堂嶌は託された彼女を膝に載せて、取れかけたボタンを検分した。それが終わると、黒いソーイングセットのファスナーを摘んでくるりと一周させて開き、慎重に鍵盤の蓋に置いた。
「そう、このさり気なさがいい!いつもの総柄ももちろん好きさ。でもたった一輪……人知れず胸元で咲く彼女の健気さに心動かぬほどボクは鈍感な男じゃない。さすがリョウ、やはりキミは只者じゃないと思っていたさ!ボクの見立てに間違いはなかったというわけだな!」
 堂嶌は無言でセットから小さな糸切りバサミを取り上げ、ボタンの根元の糸を切り落とす。
「ちなみにミズ・レッドという姉がいてね……ほらここに。彼女もなかなか素敵だろう?」
 安藝月は自分のジャケットの左側の襟を少し引っ張って見せる。堂嶌は下を向いたまま針に糸を通し始めた。
「赤……確か愛情や情熱……だったか」
「エクセレント!キミは本当に見所のある男だね!」
 安藝月は両手を広げて再び天を仰いだ。

 画面の端に通知バッジが点灯した。新たなフレンド申請だ。ステータスは申し分ない。氷室は承認ボタンを押して即戦力を引き入れた。
 部室の隅の引き戸をガラガラと引いて神条が出て行き、戻ってきた柏橋と入れ違いになった。
「ん」
「どうも」
 そのやり取りと微かなハサミの音を最後に、物音はなくなった。

 安藝月は力なく両腕を下ろした。
「本当にね……」
「リックさんどないしはりました?」
 柏橋が怪訝そうな顔で一直線にやってきて、安藝月と堂嶌を交互に見やる。
「リクがリョウにお仕事の依頼デス。ショクニンサンデス!」
「こういうのは職人さんじゃないとは思うけど……でも堂嶌さんってそんな感じするかも……」
 星乃がその隣に並び、くっついてきた依吹がその背後から堂嶌の手元を覗き込んだ。
「二人とも、これくらいのことであまりおだてないでくれないか」
 堂嶌は白い糸をボタンの根元に手早くクルクルと巻き付けた。
「リョウ、ツンケンはよくないデス!」
「……謙遜のこと?」
「そう、ケンソン!だってリョウ、こんなに上手デス。イッツマジック!」
 首を傾げた依吹に星乃は胸を張り、柏橋が調子を合わせる。
「確かにすごい手際やな……つかソーイングセットって今どき女子でも持ってないんちゃいます?」
「うーん……どうなんだろう」
 依吹が首を反対側に傾けて考え込んでいる間に、堂嶌は最後の一針を縫い終え、余った糸を切った。
「応急処置だが、これでどうだろうか」
 差し出された彼女を恭しく受け取り、安藝月はうっとりと微笑んだ。
「ああ、おかえりミズ・ブルー。一段と美しくなって帰ってきてくれたね。リョウ、ありがとう。どうだい、お礼に今度一緒にセッションでも」
「それは楽しみだ……と言いたいところが、この休憩時間が終わったらすぐに出来るだろう?」
「それもそうだ、任せてくれたまえ。ボクのとっておきのフレーズを咲かせてみせるよ!彼女のようにね!」
 安藝月は左手で彼女をひしと抱きしめ、右腕を大きく伸ばして観衆を総なめする様に左から右へと滑らせ、最後に拳を握りしめた。誰とも視線は合っていなかったようだが、気に留める様子はない。
「期待しているよ」
 堂嶌は椅子からその後ろ姿を見届けると、目を細めて道具を一つずつ片付けていった。
 氷室はスマートフォンの画面を一瞬切り替えて時計を確認した。先ほど智川が提示した休憩終了時間を十五分もオーバーしていている。しかし、誰も何も言わない。部室の外では当の本人による新たなエチュードが始まった。氷室は城門の見張り台から鷹の偵察隊を森へ放ち、新たな防衛隊のパーティ編成を練り始めた。