(対話シリーズ①)日常における非日常。抽象的。調査0の曲解釈。モブ少し(恋愛描写なし)。
駅ピアノネタをお借りしました。ありがとうございました。
箱の中に流し込まれた無数の豆が、ゆったりとした僅かな傾きの中でざあざあと音を立てているようだった。生命が起こす不定形な波打ち際のようでいて、限りなく人為的で人工的なものだった。
だだっ広い構内に鎮座したそれは、彼にとってあまりにも馴染み深く、だからこそこの場には相応しくないものだ。しかし周囲を歩く人々がそれを意に介している様子はない。そこにおかしな物などないかのように、あるいは元からそこには何もなかったかのように速足で通り過ぎていく。確かにここは本来何もないただの駅の通路なのだから間違ってはいないのだが。
疑っていた目が釘付けになり、確かめようと歩み寄る足がその場に縫いとめられる。
初めは脇を通る人間のうち何人かがぶつかりそうになり、怪訝そうな顔をした。だがすぐに彼もまたそこにある物体のように、元から何もなかった存在と化した。
眼前を行き交う往来の向こうで、その黒い箱はただ黙して透明な誘いの霧を周囲に滲ませている。それは待っているのではなく、分かる者にだけ分かるある種の暗号だった。
霧が瞬く間に収束し、彼だけに向けて放射される。全ての選択肢が消え去り、風景は箱と彼だけになった。
まばたきの中に、かしゃりとシャッターが押された瞬間の液晶画面のように、一瞬だけ男の姿が見えた。指で素早く画面をなぞった時のように次々と譜面が現れ、無数のイントロが早送りで切り替わっていく。
靴音が響くことはない。聴こうとする者はおろか見ようとする者もいない。それでも、無音の呼び声に選ばれてしまった。何をもってしても切り離せない細い糸が伸びてきて胸の奥の小さな穴を通り抜け、結ばれた。
蓋にそっと手をのせる。箱の向こう側で流れる小さな影のいくつかが次第に澱んで、じいっとこちらに視線を投げかける。彼は努めて意識しないようにして指先を縁に掛けた。
それは彼の人生において最も慣れ親しんだ蓋だった。にもかかわらず、今までに一度も感じたことのない滑らかさと生温かさがあった。彼は持ち上げた蓋の先に刻まれたアルファベットを見やり、そこで初めて全貌を確かめた。ごくごくありふれたアップライトピアノだった。
椅子を引いて腰掛ける。床が変わるだけでこうも感覚が変わるのか。彼は二度の座り直しを余儀なくされた。この世で彼に安らぎと快い緊張をもたらしてくれる最たる場所のはずが、ひどく落ち着かない。吸い込んだ息の猥雑さに顔をしかめる。それでもルーティンをこなさずにはいられなかった。
鈍く光る鍵盤に指をのせる。
吐き出した鋭い息が紛れて消えるのに合わせて、彼はいつもより僅かに早く踏み切った。
一音目を静かに押し込む。
フランツ・リスト。暗い雲S.199。
放たれた音の小ささと響きのなさに彼は愕然とした。
批評や採点はない。なのに重々しく垂れ込め周囲を取り巻くこれは何なのだろう。彼は自問への自答を諦め、左手の和音をさざめかせる。
次第に雑踏のざわめきが遠のいていく。自分とピアノだけが周囲から切り離され、独立した一つの物質になっているような錯覚に陥る。
彼は灰色の和音を投げかける。
ここはアウェーでもなければ戦場でもない。なのにこの場所で頼れる者はただ一人の己とこの物言わぬ黒い箱しかいない。その当然の事実が彼を追い詰める。しかし静かなホールで弾く時とは全く違う奇妙な一体感が、覚えのない高揚に変わって薄らと胸の底を浸した。
右手の音階が少しずつ高度を上げ、暗雲にか細い手先を伸ばしていく。
最後の白鍵から音が消えても、彼はなかなか指先を離せずにいた。
しばらく経って胸の奥の糸がふつりと切れた。急速に辺りの風景が動き出し、ざあざあと豆の擦れるような音が戻り出す。そこで彼は額に右手を当てて俯き、はあと呼吸をした。冷え切った指先に一向に熱が戻らない。なのに身体の芯は酷く熱く、喉の奥が渇き切っている。
ぱちぱち、と波の弾ける音に彼はやっと顔を上げた。
くたびれた帽子をかぶった初老の男性が、うんうんと頷きながら手を叩いている。ネクタイを緩めた男性、派手な髪の女性、穴の空いたジーンズの男性。その誰もが、黒い椅子に呆然と腰掛けたままの彼に思い思いのささやかな称賛を送っていた。
彼は背もたれに体重をかけてゆっくりと立ち上がり、一人一人に頭を下げた。
それが終わったのを見計らって、温かな言葉の中から杖をついた年配の女性が歩み寄ってきた。彼女は白髪混じりの頭を上げ彼に一言二言声を発すると、皺の目立つ手を持ち上げ幾分高いところにある彼の肩をぽんと叩いた。彼は目を丸くして数秒呆気に取られていたが、彼女が黒い椅子に杖を引っ掛けて置き、覚束ない足取りで座ろうとしているのに気付き慌てて手助けをした。
彼女の目配せに彼は黙って頷いて背を向けた。
雑踏に埋もれていくピアノに耳を傾けながら、彼は出口に向かった。
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