花の舞

(対話シリーズ②)駅ピアノを弾く輝之進。鍵盤シンメ少し。
「対話」の続編のようで少し違う。ふんわり別軸。



 遠ざかる黒い背中を、私は口紅の広告が掲示された柱の陰からじっと見つめていた。人ごみから頭ひとつ抜け出た長身が小さくなって見えなくなるまで。
 彼が後にした空席の周りには何人か知らない人達が立っている。その人達は顔を見合わせ、手を広げたり首を振ったりして何事か話をしていた。私は髪に手櫛を入れて整え、背筋を正してまっすぐにその方向へ歩き出した。
 正直、彼の演奏はあまりはっきりとは聴き取れなかった。このヒールよりもずっと大きな音が出せる楽器なのに。彼のことだからきっと原曲に忠実に弾いたのだろう。場所がガラッと変わるんだから演奏だって変えちゃえばいいのに、相変わらずクソがつくほどの大真面目な堅物だ。でも選曲は彼にしては悪くなかったと思う。

 近付く私に気が付いて、みんながこちらを向いた。半分くらいの人が少し後ずさりする。慣れた光景だ。昔に比べれば。今日はサロンのために気合を入れて高いヒールにしたんだから当然だ。
 私はいつもよりちょっとだけ低い椅子を見下ろした。どこにでもある平凡なアップライトピアノ。でも、パッと見て何となく弾きにくそうだと直感した。
 視線が伝わってくる。私はぎゅっと両の拳を握ってから強く息を吐いて手を開いた。ロングスカートを巻き込まないよう手を差し入れながらサッと腰掛ける。
 椅子の高さがバッチリなのが小憎らしい。でもありがたい。私は一度目を閉じ、表情を描き変え、目を開けた。

 エレガントに力をかけようとした指に黒鍵が抵抗した。
 重い! あいつこんな鍵盤で弾いてたの!? いや違う、重いからあんなに辛気臭い曲にしたんだわ!
 私は自分の選曲を後悔した。
 ショパン。子犬のワルツ。
 よりによって何でこんな可愛くて速い曲にしたのよ。可愛いからよ。いつだって私は弾きたい曲しか選ばない。今日は子犬のワルツの気分だった。それだけだ。
 サロンで塗り替えてもらったばかりの白い爪に火がついた。
 何となく思い付いて、私はちょっとだけ姿勢を前にずらした。限界まで速く弾いてみたり、これでもかと目いっぱい溜めてみたり。子犬なんだから転んだっていいでしょう。うまく走れない鍵盤ならこうしてやるわ。人間ヒールでも走ろうと思えば走れるの。舐めないで。今日は八センチよ。
 ここはコンクールじゃない。ただのいつもの駅に、たまたま平凡なピアノがあっただけ。それだけなんだから。
 鍵盤の上で小さな花びらのようなピンクのホロがきらきらと舞っている。気持ちが良い。ピアノを弾いてこんなに心が躍ったのは久しぶりかもしれない。

 こんなものかしら。ううん、上出来。すごく。
 私は顔を上げて肩で息をした。いつの間にか周りの人はさっきの倍くらいになっていた。
 拍手と笑顔と言葉。私は咄嗟に口元を右手で覆って顔を背けて、それから両手で乱れた髪に手櫛を入れた。急いで立ち上がり、さあ次の方どうぞと椅子を引く。
 私の出番はもうおしまい。ここはそう振る舞うべき場所だ。私は鍵盤に背を向けた。すると、
「あの」
 学ランに身を包んだ小柄な男の子がおずおずとこちらを見上げている。
「その……お姉さん、爪が綺麗ですね」
「ありがとう。嬉しいわ」
 私は今日一番の笑顔で答えた。