[19]すべてを葬れたら

ロランと輝之進。親友からの手紙が届いたらまたこうなってしまうのかな、という話。
後半には出来心で書いた村上春樹風バージョンがあります。あやふや再現度。全方位にごめんなさいなので何でも許せる人向け。




『やあRolly、元気にしてるかい?』
 ドイツ語で書かれた一行目に亀裂を入れる。
 決して心が痛まなかったわけではない。彼が純粋な親愛の情のもとに手紙を寄越してくれたことを知っているからだ。でも僕は敢えて自分の心に見てみぬふりをして亀裂を広げた。何が書かれているかひと目では分からなくなるくらいに小さく破ったあたりで、この学校にドイツ語が読める人は一人もいないことに思い至った。語学の授業は日本語と英語しかないのだからここまでする必要はない。
 無意識の感傷というものがあるのかもしれない。僕は手から力を抜いた。一度握りしめてしまった小さな紙切れたちは最初こそ絡まり合っていたけれど、すぐに風に煽られてバラバラになった。水色の空、白く薄い雲、爽やかな秋風、舞い散る紙吹雪、母国の親友からの手紙を破って空に放つ高校生。アニメのワンシーンのようだ。
 もう少し眺めてから戻ろう。僕は手すりにゆったりと腕を引っ掛けた。グラウンドで走り込みをする運動部員が謎の紙切れに大慌てするところを眺めるのも楽しいかもしれない。
「ロラン」
 でもそううまくはいかなかった。もう少し眺めていたかったけれど、背中で返事をすればもっと怒らせてしまうだろう。僕は諦めて振り返った。きっと彼からの手紙はまた届く。
 輝は肩で息をしていた。エレガントを地で行く輝がろくに隠しもしていない。センターで分けて内巻きにした前髪は一房頬に貼り付いていた。よほど慌てていたのだろう。練習場所からこの屋上まではそこそこの距離がある。ウェーブのかかったロングヘアーだけが優雅に風にたなびいていた。
 また間に合わなかったのね、と小さく吐き捨てるような呟きが聞こえた。
「輝」
 手すりに背中を預け、右手で左肘を抱く。
「迎えに来てくれたのかい」
「思ってもないことを言わないで。何もかもわかってるくせに」
 それまでコンクリートの床に目を落としていた輝はサッと顔を上げ僕を見据える。鋭い眼差しだった。とても言い逃れが許される雰囲気ではない。
「どうだろう」
 僕は曖昧な言葉を返した。けれどそれは紛れもない本心だ。
 輝は頭がいい。ボキャブラリーも豊富だ。実力もセンスも折り紙つき。そして優しく繊細な一面もある。僕は大切な仲間として決して輝を疑うことはないのだけど、輝が時々意図して本音をカモフラージュをすることを僕は把握している。その行為が誰かや自分を守るためだということも。だから正確なところはわからないのだ。
「ロラン……!」
 僕の予想通りもどかしそうに輝は歯噛みする。今度こそ僕の心も痛んだ。けれど何と説明したらいいのだろう。全ての事情を打ち明けたところで相手はドイツ人だ。それに根本的な原因である僕の家庭は、一介の高校生にどうこうできるような規模の家じゃない。僕自身にすらどうにもならないのだ。本気で心配している輝に、何も打つ手はないという現実を突き付けることのほうが酷ではないか。何度考え直しても僕にとっての妥当な結論はそこに落ち着いてしまう。輝の怒りはもっともなものだと分かっていても。
 ひゅうう、と計算ずくの台本に書かれたアニメのワンシーンのように風が鳴る。
 僕は微笑んだ形の顔を動かさないようにして心の中で笑みを重ねる。僕は生まれた時からリーダーになるべく育てられた。組織のトップに立つものとして、他人が自分の思い通りに動くことは当たり前であり落ち着くことであり、同時に望まれることでもあった。こんな風に知的さや風格を漂わせつつ、かつ物腰は柔らかに振る舞うことも。周囲に望まれたものになるのは簡単なのに、なぜ自分が望むものになるのはこうも難しいのだろう。自由を志す輝を見ていると、僕のような作り物の人間が作った台本の上で輝を歩かせてしまっていいのかと時々気が咎めてしまう。
 そろそろ戻ろうか、と言うとあの時以上に怒らせてしまう気がした。僕は白状する以外のちょうどいい言葉を探しながら輝の髪を目で辿る。もう手紙はグラウンドに散らばった頃だろうか。まだ何の声も聞こえてこないからもうしばらくかかるのかもしれない。
 少しだけ後ろを見る。紙切れはまだひらひらと舞っている。僕は下を向いてもう一度笑みを重ねる。




(おまけ)


 白い紙切れは僕が何もしなくても勝手に風に吹かれて空中に踊り出た。
 僕はそれをぼんやりと眺める。親友と名乗る彼からの手紙をたった今破ったのは紛れもなく僕で、そこに至った経緯には何かしらの理由があったはずなのに、切れ切れの字が僕の手の平から全て離れる頃にはあまりよく思い出せなくなっていた。元から関心というものがなかったのかもしれない。『やあRolly、元気にしてるかい?』確かそんな書き出しだったはずだ。
「ロラン」
 輝は言った。息を切らしている。その次にまた何か言うつもりなのか、その答えがイエスかノーかすら僕はうまく言い当てることができない。当然、イエスだったとして何を言おうとするのかを正確に当てるのは難しいだろう。予想を付けることは簡単だ。今までの傾向や輝の性格からある程度の選択肢は出せる。ただ可能性が高いだけであって確証はない。いつだって輝は輝の世界の中に生きていて、輝にしかない感覚で彼の言葉を選ぶ。無意識で放ったバリトンサックスのアドリブのように。だから僕はいつも読み取れないでいた。一方で、それを楽しんでいる僕もいる。輝は僕に対して何もかもお見通しのロランと思っているようだけれど、それは推測が当たり続けているだけだ。
「はあ、また間に合わなかったのね」
 輝は呟く。それは僕に向けられた言葉のようでいて、輝自身に向けられた言葉のようにも思えた。分かったのは、先ほどの答えがイエスだったということだけ。
 また間に合わなかったのね。
 僕は心の中で反芻する。それから、あの時もそうだったなと思い返す。確か四月。四月二十日くらいだったはずだ。いや、二十二日くらいだったかもしれない。どちらでもさほど大きな違いはないけれど、どちらだったかなと僕は考えてみる。
「輝、迎えに来てくれたのかい」
「思ってもないことを言わないで。何もかもわかってるくせに」
 輝は何か言いたげにこちらを見ている。どうしてなの、かもしれないし、ちゃんと相談しなさいよ、かもしれない。あるいは今夜は推しの配信があるんだから私を悩ませないで、かもしれない。僕は輝がユピテルの新曲――タイトルは確かcrispyだ――に心を踊らせるところを想像してみる。お気に入りのマイセンのティーカップを手に――ソーサーを使わずコースターを用いるのが輝のお決まりのスタイルだ――着飾ったアイドル達のトークに耳を傾ける。それからほとんど手付かずの紅茶をコースターに置いてcrispyに聴き入るのだろう。
 そこまで想像したところで、僕はどれも当たっているようでどれも違っているような気がしてきた。結局のところ僕は輝の言葉を待つしかない。待ったところでそれが輝の本心なのか確かめるすべは持たないのだけど。輝にはそういうところがある。イエスと思われる流れでもノーと答えることがある。地面に落ちてしばらくじっとしていた枯れ葉が突然ちょっとした微風でひっくり返るように。
「どうだろう」
 僕は本心から言う。
「ロラン……!」
 輝は訴えるように拳を握った。驚くほど予想通りだった。なのに僕は輝を怒らせるようなことばかり言ってしまう。わざとではない。人に対して戦略的にわざと怒らせることはあっても、僕は輝をわざと怒らせるようなことはしない。大切な仲間だからだ。ということは、輝が望む僕の本心というものは得てしていずれも輝を怒らせてしまう。そういうことなのだろう。やれやれ。僕は少しだけ後ろを見た。紙切れはまだその辺でひらひらしている。僕は下を向いた。家に帰ったらcrispyを聴こう。紅茶を飲みながら。マイセンはあっただろうか、確か一脚、と思い浮かべてから僕は思い出した。あれはマイセンじゃない。ロイヤルコペンハーゲンだ。そう、今日はロイヤルコペンハーゲンのティーカップに紅茶を注ぐ。それからcrispyを聴く。いいシナリオだ。僕は少しだけ微笑んだ。それから輝のことを考えた。これから輝とどんな話をしたらいいのか。crispyの話はどうだろう。いや、間違いなく輝は怒る。これはイエスだ。やれやれ。