危ういバランスの上に成り立つ2-Dトリオ。ロランの一石が広げる波紋。妖精を巡る議論。見えない水面下。
・鳴海家ほか捏造。
・卓球ドラパのようなヒリヒリ感
・目が滑るような話を書きたかったので目が滑ります
・根性のある人向け
「ドイツの僕の家には妖精が住んでいてね」
ロランが頬杖の上で目を細めた瞬間、薄く柔らかな膜を張った大和の微笑みがわずかに揺らいだ。やはり二人を同席させるべきではなかったか、と燎は後悔した。
今日は一足早い春の訪れを感じられるでしょう、と朝のニュースキャスターが告げていた通り、全ての授業を終えた土曜の真昼の教室は明るい日差しに包まれていた。眠気を誘うほどの暖かさだった。
学年末テストも終え、年度内最後の演奏会も納得いく仕上がりで幕を閉じた。クラスメイトの大半は進路変更をしないようなのでクラス替えはないに等しい。大きな環境の変化がないという安心感も手伝い、あとは修了式を待つばかりといった雰囲気だ。過酷な受験が控えている燎たち国公立理系クラスだが、ここ最近は緩慢に日々を消化するような空気が漂っている。
当然いつものように部活はある。しかし真面目な性分の燎と大和であっても、こうあっては帰りの挨拶も早々に部室へ行くのがどことなく躊躇われた。今日は少しのんびりしてみるのもいいかもしれませんね、と何かを汲み取ったように眉尻を下げる大和に燎は二つ返事で了承したのだ。
素行のいい生徒ばかりのクラスでホームルームが長引くことはそうない。二人には弁当に手も付けずぺらぺらと喋り続けるような習慣もない。いつものように会話と食事を済ませれば自ずと時間は余る。たまには食後にカフェテリアで楽譜を広げながら部活前の一時を過ごすのも悪くはないだろう、ということになった。
二人がカフェテリアについた時、ロランは大きなガラスが一面に並ぶ窓辺の席に腰掛けて頬杖をつき、穏やかな表情で外を眺めていた。四人掛けのテーブルには真っ白なコーヒーカップとソーサー、スマートフォンとイヤホン、ノートが一冊にシャープペンシルが一本。掃いて捨てるほどいる男子学生の卓につく彼は、しかしとても日本の公立高校生とは思えない雰囲気をまとっていた。
「やあ」
ロランは今日初めて顔を合わせたかのように笑顔を向けた。決してそんなことはない。朝から少なくとも数回は言葉を交わしている。三人は同じクラスで席も比較的近いのだ。
「お疲れ」
「お疲れ様です」
軽く片手を上げたロランに燎と大和は応じる。同級生同士の挨拶にしてはいささか他人行儀な気もするが他に適当な言葉はない。示し合わせたわけではない。けれど何となくここに落ち着いている。それだけのこと。
ロランは呼びかけた。その席を包む陽だまりのように、穏やかでごく自然に。
「どうかな、良かったら一緒に」
しかし一瞬で大和の表情にヒビが入る音が走る。そんな音などこの世に存在しないのに。燎は大和の顔を見た。
この二人が卓球をした日から何かがおかしい。兼ねてから燎は疑問視していた。しかし三流の探偵のようにこそこそ嗅ぎ回る主義もなければ、刑事のように周囲に聞きまわるほどの正義感もないし、ましてや記者のように本人に聞く度胸はない。特に大和に対しては、こういったケースにおいては仲間として尊重するのと同じくらい繊細な力加減が求められる気がした。出会った当初から徹底して大和は他人に立ち入らない代わりに他人を立ち入らせない。
「構いませんけれど、何か用件でも?」
大和は柔和に尋ね返した。その表情も口調も普段と変わらない。燎は安堵した。しかしこの言葉尻だ。用件がなければ、あるいはその内容次第では付き合う義理はないとも受け取れる表現である。燎は念のため神経の手綱に手をかける。
「特別なことは何もないんだ。部活の前なのに二人してここに来たということは、まだ時間はある……と思っただけでね。よく考えたら、僕らは一年間同じクラスで同じようにジャズをやっていたのに、あまり膝を突き合わせて話をしたことはなかった気がしたんだ。あまりにも僕らはお互いを知らない。その必要がないと言われればそれまでだ。でも僕だって高校生だ。他愛ないお喋りに花を咲かせてみたい時はある。君達と同じようにね。だから、どうかな」
ロランは長い口上を同じ言葉で締めくくった。そこまで言われては断る方が失礼だ。元より燎に誘いを断る理由はない。ロランの話題と知識の引き出しは、燎が知る限りでは同年代の誰よりも多い。美少女アニメから世界経済、西洋の古典文学から宇宙開発。どんなに難解な分野でもロランの手にかかれば容易く解きほぐされ、一つのガイドブックのように編み直された形になる。言葉は平易で話は順序立てが出来ており、全体の構造も整然としている。話題運びや質問のタイミングも巧み。人を引きつけて離さない話術だ。燎にとっては知見に満ちたロランの世間話が本当に世間話だったことの方が珍しかった。下手したら小難しい一冊の本を読むより、ロランの話に耳を傾けた方が面白みがあるとすら感じられるほどに。
だがそれは大和をないがしろにしてまで叶えるものではない。ロランと話をしたければ個人的に誘えばいいだけなのだ。恐らくロランは断らない。
かつてロランの翳した言葉に燎は暴力で応えた。それはピンポン玉のやり取りに比べれば遥かに重い。ロランが秘密裏に手打ちの提案を持ちかけてこなかったら、今頃どうなっていたことか。少なくともこうしてお茶に呼ばれることはなかっただろう。あったとしても、円滑にやり取りを成立させられる自信は燎にはない。ロランほど燎は精神的に器用ではない。
「……いいですよ」
少し含みのあるような沈黙の後に大和は了承した。燎はまずロランの言う世間話が今回ばかりは本当の世間話であることを祈った。
ロランと大和は決して険悪ではない。しかし確実に溝がある。卓球の日までにはなかった溝。二人から明示こそされてはいない。だが察しが悪いと時たま言われる燎ですら気付ける程度のもの。これを抱えたままあと一年、しかも受験を――自分のだけでなく仲間達の分も――込みで過ごすとなると、もはや涼しい顔などしていられない。やはり躊躇せず具体的な対策に踏み切ったほうがいいのかもしれない。
注文カウンターから受け取ったコーヒーを手にロランの向かいに着く。大和にどうぞと笑顔で勧められるまま、燎は窓際の椅子を引いた。ロランの真正面だ。大和は燎の右隣りに腰掛け、微笑みを崩さずに使い捨てお手拭きのビニール袋を真っ直ぐに割く。
「待たせた」
「気にしないで。こう見えて待つのには慣れてる」
ロランの答えは初手からどうとでも受け取れる言葉だった。気にしないでだけで済むものを、なぜ彼はこのように一言添えるのか。文脈からして悪意はない。注文カウンターは空いている。オーダーに不備もない。何もかもがスムーズだったはずだ。振り回している? 試している? 何か気付いて欲しいことがある? 最後の案が正答だとしたら、それは特に燎にとって難しい類のメッセージだ。過去の言動や表に見える性格から類推することはできる。しかしこのように感覚的でこちらの直感だけが頼りになるような端的な言葉は不得意なのだ。
こちらにそこまで考えを及ばせるメリットはない。恐らくロランにも。燎は全ての可能性を手で攫って捨てる。
実際のところそれは正解だったようで、ロランの話は本当に世間話だった。今日は暖かいねから始まり、テストもコンクールもないのは楽だけど張り合いがないね、と進んでいく。SwingCATSの調子はどうかなと聞かれたが、燎の当たり障りなく、かつ偽りのない現状報告にロランは満足そうに頷いた。探りを入れる気はなかったようだ。
一方的に疑ってかかり、探りを入れる同然の態度を取っているのはこちらではないか、という気もしてくる。燎はカップに口を付ける。百円のコーヒーは正しく百円の味がする。
話題の切れたところでロランは頬杖をついて窓の外を見た。その仕草は整った外見と相まって外国の映画のようだった。しかしここは公立高校のカフェテリアだ。国公立コースこそあるものの、学校自体は進学校ではない。往来を行くのはうららかな陽気の下でのんびりと歩く日本の高校生だけだ。
「ドイツの僕の家には妖精が住んでいてね」
しかしロランは映画の台詞のように切り出した。あまりにも突然だった。
「妖精……?」
ふっ、と無風の室内で大和の髪が揺れた気がした。燎は意識してロランに視線を固定した。目の前でいざこざを起こされては心地が悪い。それにここで二人に不用意に会話をさせれば最悪の場合取り返しのつかないことになるかもしれない。ここで二人を同時に失うわけにはいかないのだ。自分が傷付くだけならまだいいが、それ以外の影響があまりにも大きすぎる。燎は目を閉じて双方のチームメンバーの顔を思い浮かべる。
自分を棚に上げるつもりはないが、怪我のリスクを除外すれば、殴り合って喧嘩両成敗に持ち込める間柄の方がよほど分かりやすくて助かるかもしれない。
ともかく、と自らに結論付けて燎は目を開けた。ロランと一対一の率直なやり取りに持ち込めば自ずと大和は聞き役に回るはずだ。大和には申し訳ないが沈黙は金なり。どうしても言いたいことがあれば大和自ら割って入るだろう。そうならないのが最善だとは思うが。
「ドイツにも妖精はいるのか。妖精といえばイギリスだとばかり思っていたが」
事実として興味がある話題ではあった。妖精は実在するかと聞かれれば、燎自身の答えは「いるとは考えにくいが、歴史の中でまことしやかに長く語り継がれている以上いないとも言い切れない。なので妖精の実在を信じている人間を否定する気はない」だ。不確かなものから生まれた芸術は後世でも長く愛されている。その根源を「ない」と断言するのは演奏者としてどうしても憚られてしまう。
「そうだね、有名なのはイギリスだ。でもドイツにも妖精の伝説はある。日本のゲームやアニメで時々出てくる『コボルト』というモンスターがいるんだけど、元になっているのはドイツの妖精なんだ。あまり知られてはいないけど、グリム童話にもコボルトは登場する」
「ほう……」
「基本的には人の家や鉱山に住んでいてね。その関係で、彼らの名前を取って元素のコバルトは名付けられたと言われている」
「それは初耳だ」
燎は顎に手をやる。ファンタジーを否定する側の科学がファンタジーの力を借りていたとは。
「それで、その人の家に住むというコボルトがドイツの鳴海の家に居着いていると」
「話が早いね」
ロランは頬杖を解いて膝に下ろした。今ごろ脚の上でゆったり指でも組み合わせているのだろう。
燎はカップの持ち手に指を通す。どうしたものか。大和は黙ったままだ。先ほど感じたような不穏さはもう見られない。もう少し話を聞いてみてもいいだろうか。幸か不幸か時間はある。
それに、妖精と住んだことのある人間などそう簡単にはお目にかかれない。運が良ければファンタジーの実在についても考えを深められる。ロランが良くも悪くも嘘が上手い人間だということを差し引いても聞く価値のある話題だった。
「僕の家はそんなに歴史のあるものじゃない。家屋はそこそこ大きいけれど、祖父がほぼ一代で築いて父が盤石にしたようなものだ。だからまさか妖精が住むなんてね。誰も信じてなかったよ」
ロランははにかんだような笑みで続きを語り始めた。
「当時僕の家では大きな犬を飼っていたんだ。食事の時間は決まっている。その日もいつものように家政婦が配膳して犬を呼びに行った。でも二人が戻ったとき犬の皿は空だったんだ」
「空?」
ファンタジーというよりミステリーだ。家政婦を雇うほどの家という点も気にかかるが、その指摘は今は不要だろう。燎は端的な返事のみにとどめて続きを促す。
「ゴミ箱に捨てられていた……なんてこともなかった。大型犬だから食事はそこそこの量がある。隠すのは難しい。そうこうしている間に僕らの食事の時間が近付いてきて、家政婦は取り急ぎもう一度犬の食事を準備していつもの仕事に戻っていった。結局わからずじまいだ」
カチャン、と右隣りで硬い音が上がる。燎はやっとそこで我に帰った。
「不思議ですね」
大和はカップに目を落としている。燎はその淡々とした横顔がしばらく動かないことを確認してからロランに注意を戻した。
「他にも父の万年筆のインクがいつの間にか補充されていたり、ほつれていた裾が元通りになっていたり、朝取り替えたばかりのトイレットペーパーがその日の夕方には残りわずかになっていたり」
頭の中に映像がよぎる。豪邸の豪奢なトイレ。無人の一室でひとりでに猛烈な勢いで減っていくトイレットペーパー。ロランの作り話かもしれないがあまりにもあんまりだ。燎はうっかり笑いそうになった。口元を手で覆っても間に合わず、
「面白いだろう?」
とロランから懐かしそうに笑われてしまう。
「ふふ。つまり、協力もしてくれるけど悪戯もする妖精なんですね」
大和は同じように少し笑ってから話をまとめた。トイレットペーパーで笑っても許される雰囲気で助かったと燎は胸を撫で下ろす。
「そうなんだ。彼らは僕らを助けてくれる。そしてその報酬に食事を要求する。伝承によると、贈り物をすれば彼らはイタズラをやめてくれるらしい。ただ、二度と帰って来なくなるとも言われている。そこでちょっと二人に聞きたいんだけど」
ロランはそこで口調を落として燎と大和を交互に見やった。笑っている場合ではない。燎はトイレットペーパーを無理やり頭の中から追い出す。さすがに見え見えの展開だ。
「贈り物、した方がいいかな」
案の定だった。
「はああ…………」
大和が人前でここまで深いため息を付いている現場を見たのは初めてかもしれない。
「ファンタジーに正論をお返しするようで申し訳ありませんが、それをお決めになるのは鳴海くんとそのご家族では? 僕らがここで意見をするのは簡単です。ですが僕らの一存で鳴海くんのご家庭に何か不都合が起こっては責任の取りようがない」
取りたくても、と大和は添えて答えを締めくくった。まさかここまで意見するとは思わず、燎は額に手をやる。非の打ち所のない、理屈の根本へ一直線にメスを入れる発言だった。燎は肩で一つ息をし、腕を組んだ。大和を守りつつロランの機嫌を損ねず、かつ自分の好奇心を満たすための最善手を狙わなければならない。
「大和の意見には俺も同感だ。今の話とこれまでの話を鑑みるに、鳴海の家はかなりのものだと思う。家柄だけじゃない。国民性による考え方の違いもあるだろう。助太刀を求めてくれるのは友人としてありがたいが、コボルトに縁のない日本の男子高校生である俺達が無責任な話をしてもいいのか? 単純に議論で盛り上がりたいだけならそう言ってもらえると助かる。話題自体は非常に興味深いからな。俺個人としては、だが」
友人とクラスメイトのどちらを使うべきか一瞬迷った末の判断だった。ここは情を打ち出したほうがいいだろう。
「確かに君たちの意見は至極もっともなものだね。僕もきちんと論旨を伝えておくべきだった。答えはどちらでもあるんだ。幽霊が存在するかしないか、みたいな議論は昔から盛り上がるものだろう? そういうことを僕もやってみたくてね。そして贈り物についての意見をもらいたかったのも本当だよ。最終決定権は父にある。でも、だからこそではあるんだけど、君たちが責任を負うことはないから安心していい。意見を参考にさせてもらうことはあっても、それは僕自身の個人的な主張をまとめるための参考だからね」
ロランはテーブルの上で両手の指を組み合わせる。幸い気分を害しはしなかったようだ。
「そういうことなら改めて遠慮なく卓に付かせてもらおう。鳴海自身の考えも聞きたい」
「そうですね。それに、今のお話を聞いて鳴海くんにお伝えしたいことが出てきました。堂嶌くんもきっと興味の湧く話題ですよ」
「へえ、とても興味深いね。詳しく聞きたいな」
ロランは再び頬杖を付いて微笑んだ。
「ああ、俺もぜひ聞きたい」
やはり自分には探偵も刑事も記者も向いていない。一旦全てを脇に置いて座り直し、耳をそばだてる。
大和はにっこりと笑みを浮かべた。
「実は、僕の家にも住んでいるんです」
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