(46)春の歌周囲を覚えず お題:春眠暁を覚えず

燎VS睡魔。本当の犠牲者は……。



 やっと終わった。
 思わず口に出してしまいそうになるほど、今日は朝から不調だった。終礼の最後、クラスの全員が一斉に椅子を引いて立ち上がる。自分もと意識を揺り起こそうとしたが、少し出遅れてしまった。机に両手を付いていなければふらつきそうだ。教室は帰り支度をする物音や話し声で一気に騒がしくなる。なのにその雑音はどことなく音の根元が揺らいで聞こえた。
「堂嶌くん、大丈夫ですか? 体調が良くないなら……」
 悟られないように振る舞っても大和にはお見通しらしい。不安そうに顔を覗き込まれてしまった。こうなったら正直に打ち明けるほかない。
「すまない、気を遣わせてしまった。体調は問題ないよ。ただ異様に眠気がひどいだけで」
 大和はなるほどと表情を崩し、窓の外へ視線を向けた。
「そういうことでしたか。確かに今日は暖かいですよね。天気も良いですし」
 その言葉通り、窓の外には澄み切った春の空が広がっている。一時期は急激に冷え込む日もあったが、ここ数日は朝晩も過ごしやすく実に快適だ。快適すぎて困るほどに。

 委員会に出席する大和と別れ、部室に向かう。時間にはかなりの余裕があった。外の空気を吸えば少しはすっきりするかと思ったが、この陽気だ。かえって睡魔をのさばらせてしまうだろう。
 それでも部室の窓を全開にしてしまうのは無意識の習慣だった。ふんわりとそよぐ風。ぽかぽかとした日差し。
 ――駄目だ。このままではまずい。
 自分のまぶたは重くなる一方だ。いっそどこかで仮眠を取るべきだった。しかし時すでに遅し。じきに他の部員もやってくる。練習前に副部長が寝ていては示しがつかない。
 ぼんやりする景色に目を凝らし、荷物を片付けジャケットを脱ぐ。少し肩は軽くなったが、それだけだ。気付けばセッティングの済んだピアノの前に腰を下ろしていた。だがこんな調子で練習など出来るはずもない。閉じたまぶたを手の平で押さえる。生暖かい暗がり。遠くの方で小鳥がさえずっている。
 ――小鳥。
 そういえば、春の歌のあの装飾音はどんな音階だったか。もう長く弾いていない譜面を暗闇から引っ張り出す。自分にメンデルスゾーンのような記憶力があればよかったのだが、残念ながらそんな夢のような話はない。弾きながら思い出すほかないだろう。
 鍵盤に両手を置く。
 柔らかく吹き寄せる風を吸い込むと、脱力の拍子に白鍵を踏み抜きそうになる。なぜよりによってハーフタッチの連続するこの曲にしたのか。首を振る。何もかもが遅い。頭の中にはメンデルスゾーン無言歌集作品第五巻「春の歌」しかない。

 緩やかな坂道を下るように一小節目へ踏み込んだ。
 働かない神経を叩き起こして左手に集める。柔軟に、かつ繊細に。「弾く」という動作を捨て、左手を別の物体に変えていく。指先だけで制御しきれない部分は手首で、それでも足りなければ肘でフォロー。そこにあるべき音を正確に再現するための存在に徹する。
 中間部に入る頃には装飾音の弾き方も指に馴染んできた。抑揚をつけながら膨らませていく。手応えに任せて力強く盛り立てたくなるが、それは恐らくこの曲の趣旨ではない。華やかであれ。しかし華美であってはならない。
 意識して力を緩めながら主旋律に戻る。しっかりと体の温まった時こそ勢い余ってしまうものだ。急いては事を仕損じる。レコードに針を落とすように、静かに締めくくった。

「……リョウ」
 暖かな余韻に満足し指を引き上げた瞬間、低い声が響いた。
 しまったと顔を上げる。腕を組んだ優貴が出入口の枠にもたれてこちらを睨んでいた。
「あんまり真剣に弾かれると入るタイミングなくなる」
 優貴は無表情ですたすたと歩き、壁際の椅子に腰かけて眠る翔琉と光牙と暁の前を素通りした。優貴といいこの三人といい、いつの間に来ていたのだろう。全く気付かなかった。
「ユウ、これは一体どういう」
「見ての通りだけど」
 優貴はウッドベースケースの長いファスナーをぐるりと一周させ、淡々とセッティングにとりかかる。
「俺まで寝るかと思った。そこはせめてシュトラウス二世の春の声だろ」
 もっともな指摘と共に、ウッドベースがドスンと根を下ろした。