レイと翔琉祖父。突然の申し出に、孫の旅立ちを控えた祖父が思うこと。懐かしい思い出、若者たちと音楽の展望、自分の老い先。
※翔琉祖母が既に亡くなっている設定です
「オーナー、お願いがあるんです」
星野君はそう言って、まっすぐにこちらを見つめた。いつもの人好きのする笑顔はすっかり消え、真剣そのものという表情だけがそこにあった。
閉店作業を終えた店内には、星野君と私の二人しかいない。栢橋くんも翔琉もいない状況で切り出したとなれば、よほどのことかと身構えてしまう。となるとやはり、翔琉のスカウトについてだろうか。
しかし、そんな私の想像を裏切り、星乃君は意外なことを口にした。
「ワタシにコーヒーのいれかたを教えてくれませんか」
ぱち……ぱち。
自分のまばたきの音が聞こえてきそうだった。それくらい、この静かな店内で私は長く言葉を失った。
「……黙ってしまってすまなかったね。星乃君の熱意に驚いてしまったんだ。君が仕事熱心なのはわかっていたけどね」
「驚かせてしまってごめんなさい。ワタシ、カケルにコーヒーをいれてあげたくて」
「翔琉に?」
なぜそこで翔琉の名前が出てくるのだろう。
席を勧めると、星乃君はカウンターの椅子に腰をおろし、テーブルに両手を置いた。
「ワタシ、カケルに心配してほしくないんです。SwingCATSも、レイも、大丈夫だって伝えたい。ワタシはカケルにベルリンに行ってもらいたい。でも、ただ行くだけじゃダメなの。楽しんでほしい。だから」
星乃君はテーブルの上で拳をぎゅっと握りこむ。たどたどしい日本語は、初出勤の日を思い起こさせた。
あれからまだ一年も経っていないのが信じられないほど、星乃君は頼れる存在だ。お客様のオーダーをほぼ正確に聞き取れるようになったし、伝票に書き込む日本語もきれいな字になってきた。もっとも、読めさえすれば英語でも構わないと伝えてはいるのだが、テカゲンはゴムヨウと言い張り常に日本語を貫いている。
星乃君は、もうすっかり「ルバートの人間」だ。
コーヒーフィルターに手を伸ばしかけたが思い直し、手を引っ込めてココアの準備に切り替えた。片手鍋にココアと砂糖を入れ、冷蔵庫から牛乳を取り出す。
星乃君はコーヒーも飲むがココアも気に入っている。案の定、星乃君の張り詰めた顔つきがゆるんだ。アメリカ出身だからか、甘みのしっかりしたものが舌に合うのかもしれない。
「ワタシ、ルバートのココア好きです。なつかしくて」
立ち上るココアの香りに星乃君は目を細める。
「アメリカの味もこんな感じだったのかい?」
「ンー、ちょっと違います。でも不思議。ずっと前から飲んでるような味がするんです」
カウンター越しにこちらを伺う姿に、幼い翔琉の姿が重なる。コーヒーを飲みたい飲みたいとせがんでは、毎回ひと舐めしかできずに悔しがっていたあの頃。翔琉にはこれで十分だ、と私が差し出したココアを不満そうに(その割には実に美味しそうに)飲んでいたものだ。
翔琉が晴れてコーヒーを飲めるようになった中学生時代から、ココアの出番はすっかり減り、今やメニューには載ってこそいるがあまりオーダーが入ることはない。
私が見送る側に回り始めたのはいつからなのだろう。妻も、翔琉も、ココアも。星乃君もいずれはここを離れる日が来るだろう。
私は星乃君のように心の底から人の笑顔を望めるだろうか。妻の検査入院ですらあんなに気を揉み、臨時休業しようかと本気で悩んだというのに。
沸騰寸前で火を止める。片手鍋を下ろし、マグカップに茶こしを当てて熱々のココアを注ぐ。冷蔵庫に残っていたホイップクリームを浮かべると、星乃君は子どものように笑顔を輝かせた。ずっと昔から見ているような顔つきだった。
「今日は特別におまけしてあげよう」
もう一さじクリームを追加すると、星乃君は英語で歓声を上げた。
さすがに赤の他人のお子さんにこれは世話を焼きすぎかもしれないが、孫にここまでしてくれると言ってくれたのだ。心が動かない方がおかしい。
とりあえず今日は見学だけしていくように、と伝えて自分用のコーヒーを準備する。星乃君はカップを手にしたまま姿勢を正した。
スマホやら何やらと娯楽の多いこの現代に、唯一の孫が自分と同じジャズを好んでくれた。それだけでも奇跡のようなものなのに、孫は世界を目がけて旅立とうとしている。そしてそんな孫を本気で応援してくれる子がいるのだ。孫と同じココアを飲み、同じ音楽を聴き、演奏している子が。
ジャズは落ち目? とんでもない。そんなことを言う奴がいたら、今すぐこの子たちの演奏を聴かせてやりたい。
まだくたばるわけにはいかなそうだ。この子たちの音楽が、世界に知れ渡るその日まで。
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