対話Ⅱ

(対話シリーズ③)コンサートホールのピアノを弾く燎。非日常感強め。勝手な曲解釈。モブ男女少し(恋愛要素なし)。



 上りエスカレーターの終点を境目に空気の匂いが変わった。
 空調で均一に整えられた空間が、天井にあるファンでゆっくりと撹拌されている。微かな機械音が切れ目無く続いている以外に音を立てるものはなく、革靴の発する音すらカーペットに吸い込まれてしまう。
 だだっ広いロビーはほぼ無人だった。彼は左右を見渡して目的の掲示物を見つけると、床一面に敷き詰められた毛足の短い灰色のカーペットを進んだ。
 扉は不規則に点在し、上方に数字のプレートを掲げている。彼は二番ホールの表示の前で足を止めた。大きな四角い両開き扉の脇に簡易的な折り畳みテーブルとパイプ椅子が据えられており、黒いジャケットに身を包む女性が腰掛けている。
 彼が女性に会釈すると、彼女は両手をきちんと揃え膝の上で重ねて丁寧に一礼した。彼女は脇の紙束の上から紙片を一枚取り、テーブルに滑らせて彼に差し出す。黒いボールペンも即座に出てきた。
 彼はペンを右手に取り検分する。どんな店でも買えそうなごく普通のノック式ボールペンだ。手を返して先端を手前に向ける。ペン先は既に出ている。
 彼は手を戻して必要事項を記入した。フリーピアノ貸出票。住所、氏名、年齢、職業、演奏歴。彼は最後の来館動機の項目に丸を付け、少し迷ってからペン先をそのままにテーブルへ置いた。紙片を逆に回して女性に差し出す。
「ありがとうございます。整理番号は九番です。中の係員にお渡し下さい」
 代わりに出てきたのは小さなプラスチック製のプレートだった。白くのっぺりした楕円形に、黒い文字で9と書かれている。
「ありがとうございます」
 彼は礼を返してプレートをポケットにしまい扉へ向かった。
 木製の大扉は艶めいた深い茶色で、中央には湾曲した真鍮の長い取っ手がある。彼は右側に手を掛けた。ひやりとした感触には無数の擦り傷が様々な方向に巡っており、とうに本来の輝きは失われている。

 温度と明度が一段階落ちる。
 ダウンライトが一つきりの小部屋の奥にはもう一つ同様の扉がある。彼は再び右手を伸ばし、徐々に力を込めて手前に引いた。かなりの重量にもかかわらず一切の抵抗なくスムーズに彼を招き入れた。

 その光景に、彼の視線はある一点でピン留めされた。
 前方から真っ直ぐにこちらへ伸びた細長い上り階段が、彼の背中の中心を辿って駆け上った。ゆっくりとした呼吸に合わせて、身体の奥がざわりと蠢いて全身の皮膚を震わせる。
 眩いライトが前方上空から照射され、薄暗がりの奥だけを横長の長方形に切り離している。その中央に、黒いそれはあった。
 幾度目かも分からない息を吐き出し切った拍子に、手の中から鞄が滑り落ちそうになった。彼は辛うじて指先をフックにしそれを食い止め、一段目へ踏み降りた。
 通路の両脇にずらりと並ぶ無数の椅子が沈黙の波を割る。
 この階段も隙間なくカーペットで埋められている。彼は前方に焦点を合わせたまま、意識のみを記憶に傾ける。
 最後にこういった場所を訪れたのはいつだったか。小学生の頃のスクールの発表会か、中学生の頃のコンテストか、母親のコンサートか。思い当たる記憶の後端は酷く茫漠としており、曖昧な境界の先は音楽室と部室とジャズ喫茶の鮮明な光景が占拠するばかりだ。
最後の段に到達したところで彼は初めて係員に気付いた。舞台袖の小さな階段の下に立ってこちらを見ている。会釈をして歩み寄り、短い挨拶と共にポケットのプレートを手渡し、ステージに上がった。

 煌々とした舞台でその一部分だけが際立った存在感を持って彼を迎えた。
 確かめるまでもない、完璧なグランドピアノ。
 黒いボディは隅々まで磨き上げられており、細かな光彩を放っている。
 その陰で椅子に腰掛けていたのは、母だった。
 微かな機械音が次第に曖昧になり、消失した。早まりそうになる足を懸命に堪えて彼は一直線に向かい、その空席を確かめた。
 椅子を引く。腰を下ろす。足を定位置に据える。光る床面はその一挙手一投足を拾い上げて響かせる。ルーティンの鋭い呼吸すら別人のものに変えるさまに、指先が跳ねる。
 静かな予感が走った。

 ラフマニノフ エチュード「音の絵」Op.39-2 海とかもめ。
 鍵盤は燃えるようだった。
 神々しさすら湛えていた黄金色の照明は一転して無慈悲に象牙色を焼き、乱反射した光の粒が目を射る。それでも冷たいさざ波を起こさなければならない。そのさざ波は繊細でなければならない。彼は全神経を手指に集約させ力を制御しながら、注意深く鍵盤を撫で波間を揺らがせる。
 一滴が広げる波紋のように、僅かなタッチの差が幾重にも増幅され鳴り響く。指先から伝える意思の一切が、寸分の狂いもなく吸収され反芻され形となって拡大していく。呼吸すらも音色として取り込まれそうな錯覚に彼は口をつぐみ、淡々と規則的に左手を動かしながら旋律をなぞる。

 次第に弦が呼び始めた。早く次を。呼応が応酬へと変容する。
 楽譜通りに正確に弾く意思を許容しながら否定され、期待されていく。彼は急かす声に抗いながら鍵盤の上の譜面を追う。
 極光には暗礁を。暴風には波濤を。支配されるのはどちらなのか。あるいはどちらでもないのか。無機の根底が巻き起こす渦に彼は雷鳴を振り翳す。

 右手をしなやかに往復させて波の形を変え、一定のリズムで空間を広げていく。遠ざかる雷鳴に混じって高い鳴き声が聞こえた。
 再び彼は左手をひたりと白鍵に這わせた。最後に数度和音を重ねて静寂を呼び戻し、右手をそっと引き上げる。
 もう、眩しくはなかった。