ワビサビ。プロフ捏造企画。燎が最近ハマっていること:書の鑑賞。
モブ女視点(恋愛要素なし)。着物設定をお借りしました。ありがとうございました。
最後の書を見納め、私は深呼吸をした。微かな墨の匂いが胸の奥に染み込んでいく。
ここにいるのは今や私と男性一人だけ。名残惜しいがそろそろ帰らないと、お夕飯の支度に間に合わない。私はハンドバッグを両手で握り直した。
「堂嶌くん?」
決して大きくはないが不思議と良く通る声だ。
きゅっきゅっと絹鳴り(きぬなり)がして、明るい水色の髪と白い着物の肩口が視界の端をよぎり、消えていく。
あの光沢と細かい柄。まさか。咄嗟に振り返って答えを確かめた私は、飛び出しそうになった言葉を手で押さえ付けた。
白大島!!(しろおおしま)
あの感じ、亀甲……いや、蚊絣(かがすり)……? 男性の白大島なんて初めて見た。すごい……何マルキなのかしら……。ああ、もっと近くで見たい!
今度は心臓が暴れてしまいそうだ。私は口を塞いでいた手を離した。指先をきちんと揃えて胸に当て直し、もう一度深呼吸。敬愛する先生の展覧会で粗相があっては、書を嗜む者以前に大人の女性として失格だ。
「大和……?」
会場の奥にいた黒髪の男性が向き直る。白無地のワイシャツにチャコールグレーの細身のパンツ。首元にゆったりと巻かれた渋めの青いストールの下には黒い小さなボタンが点々と並んでいる。
「すみません、この格好だと気付きにくいですよね」
「いや、こちらこそすまない。大和がプライベートで着物を着るのは簡単に予想できたはずなのに。すっかり熱中してしまってたみたいだな」
白シャツの方が堂嶌さんで、白大島の方は大和さんか。二人とも私よりずっと若く見える。年齢の割に高尚なご趣味だ。
「お好きなんですね」
大和さんの言葉に、堂嶌さんは壁に掛かった書に目を向けた。
「きっかけは祖母の勧めだったんだ。初めは文字の形すら読み取れなくて困ったよ。でも、書も音楽に通じるものがあると気付いてからは楽しくなってきたな。自分で取り組むばかりでは視野が狭くなる。良い物に触れるのは……」
しみじみとした語り口に大和さんは頷きながら相槌を打っている。
「すまない、また喋りすぎてしまった。俺は自覚している以上に好きなんだろうな、こういう物が。ただ……」
「どうかしましたか?」
「大和の前でこういう話をするのは失礼だったかもしれない」
「君が礼節を欠いたところなんて、今まで一度も見たことありませんよ?」
「それは買い被りだと思うが……ありがたく受け取っておくよ。実は今朝、祖母から着物を着て行けと勧められたんだが、断ってしまってな。申し訳ないことをしたとお前を見て思ったんだ」
堂嶌さんは腕を組んだまま俯いた。黒くて長い前髪が表情を隠す。大和さんはそんな堂嶌さんに黙ったまま穏やかな眼差しを向けている。
私は出入口の前から引き返して、二人から少し離れたソファに腰掛けた。先生の書を見上げると、少しだけ白大島が目に入る。私はハンドバッグを脇に置き、膝の上で両手を重ねた。伯母から譲り受けた着物に、母から貰った指輪。
「着物自体は好きなんだ。身も心も引き締まる。だがピアノを弾くにはどうしても袂の揺れが気になって落ち着かない」
「なるほど、君らしい。弘法筆を選ばずとはいかないものですね」
温和な口調でゆったりと喋る大和さんに、堂嶌さんは俺は弘法にはなれないよと力なく笑って首を振った。
堂嶌さんも着物がお好きだったのか。しかもピアノまで。多彩な人もいらっしゃるものだ。
「ですが今日は部活が休みですから着物でもいいのでは?」
「それが、この後トモ達と楽器店に行く約束をしていてな。そうだ、大和も一緒にどうだ?」
「いいですね。大所帯になりそうですが、それでも良ければお供させて下さい。その前に一周見ていっても?」
「もちろん。その間俺はトモに連絡しておこう」
堂嶌さんは頷いてスマホを取り出した。
「ありがとうございます。感想を家族が待っているので」
「お互い何かと逆らいにくいな」
「そうですね」
大和さんは微笑んで奥へ歩き始めた。絹鳴りが少しずつ小さくなって、隣の書の前で止まった。堂嶌さんは反対側へ行き、隅の方で画面に指を走らせる。
部活……ぶかつ?
目の前の書がぐにゃりと曲がる。私はくらくらする額にしばらく手の平を当ててから、ハンドバッグの持ち手を探り当て手首を通し、よろよろと席を立った。
大和さんの帯を見るのを忘れていたことに気付いたのは翌日になってからだった。
0コメント