堂嶌夫妻の会話。燎幼少期。全て捏造。夫婦としての愛情表現を含みますが年齢制限はありません。
ふいに目が覚めた。
カチリ、とオイルヒーターのサーモスタットが鳴る。
真っ暗な視界が徐々に輪郭を持ち始め、薄ぼんやりとした天井の景色を取り戻していく。
すう、すう、と小さな寝息に横を向く。燎はうつ伏せでこちらに顔を向けていた。頭を撫でようとした手を一度引っ込め、伸びてきた前髪が目にかからないようにそっと払う。
僕はそろそろと羽毛布団から這い出た。息子の肩口まで布団を引き上げてから、記憶を頼りにスリッパへ足を入れる。
音を立てないようにドアノブを押し下げて廊下へ出て、リビングへと向かう。身体の軽さにはたと思い至りポケットに手をやったが、空だ。枕の下に入れたまま出てきてしまったか……いや、そもそも寝室に持ち込んだ記憶がない。洗面所かリビングか。見当を付けてみてもどこにスマホを置いてきたのかまるでピンとこない。そこだけ記憶が抜け落ちているようだ。今日帰国した妻にどうしても見せたい写真があるのに。
額に当てた手が熱い。すっかり寝入ってしまった。帰宅は夜十時頃と聞いていたが、一体今何時なのか。僕としたことが。
廊下の突き当りのドア越しに壁掛け時計が目に入りその針のありかを読み取った瞬間、僕の手は額からぽろりと落ちた。
ダウンライトの薄明かりが灯るリビング。三人掛けソファの端に彼女が腰掛けていた。背もたれに頼らず背筋を伸ばし、ある一方に顔を向けたまま微動だにしない。その横顔は真っ直ぐに伸びた長い黒髪で隠れている。唯一明るいところがあるとすれば、座面に投げ出された手の青白さだけだ。
僕の背後でがちゃんとドアノブが音を立て、スリッパが両の足から抜け、凍りついた湖面のような床が素足を焼いた。
「ごめん」
抱き締めた身体が想像よりも細くて、戸惑いに力が抜けそうになる。
彼女はしばらく何も言わずされるがままだったが、やがてふらふらと片手を漂わせ僕の肩に置いた。しかしすぐにずるずると垂れ下がり、指先が引っ掛かることもなく僕のパジャマを滑り落ちていく。
肩口で彼女が微かに身じろぐ。
「……だいじょうぶ」
「……何がだ帰国早々に。こんなになるまでまた君は」
「でも」
「でもじゃない。そんなに身を削らなきゃいけないほど君の演奏は……!」
しまったと思った時には遅かった。彼女の肩が跳ね、ハッと上がった顔が僕を正面から捉えた。まん丸に見開かれた暗い瞳に仄赤い灯りが映り込んで、小さな穴を穿っている。
「すまない、言いすぎた」
「……自分でも、わかってるから」
彼女は小さく首を振る。その頬には色も温度もない。手の平を添えると、彼女はゆるゆるとまぶたを落とした。
「……りょうくんは」
「大丈夫、ちゃんと寝てる」
彼女は僕の手の中で黙って頷き、細く長い息を吐き出した。
「あなた……」
「うん」
「……おなかがすいたわ」
今度は僕がため息をつく番だった。
「いつから食べてない」
「成田で食べたのは覚えてるんだけど……」
フライトの時間を思い起こし見当をつける。到着の知らせが入ったのは夕方五時頃……となると、八時間はゆうに越えているではないか。
僕は再び氷の上を歩いて台所に向かい冷蔵庫を覗き込んだ。幸い牛乳がまだある。二人分のマグカップを出して注ぎ、レンジで温める。自分のにはインスタントコーヒー、彼女の分にはハチミツ。
僕がカップを両手に振り向くと、彼女は虚ろな目を向けていた。生命力は最後の一欠片までステージと防音室に置いてきてしまったらしい。と言っても、戻ったところで拾い集められるわけもない。
「ありがとう」
決してピアノ向きとは言い難い細い骨格と薄い肉付きの指がカップをまばらに包む。彼女は静かに数回飲み下してテーブルに戻し、肩でゆっくりと呼吸をした。
「あなた」
「うん」
「……たまにね、考えることがあるの。私がピアニストじゃなかったら、もっと燎くんは幸せだったんじゃないかって」
ぱたぱたとこぼれ落ちた涙が僕の心臓を剥き出しにして濡らしていく。
「燎くんには……私みたいになってほしくないの。お友達にいっぱい囲まれて、みんなから愛されて、ずっと笑っていてほしい。それだけでいいの。なのに私は、私は……!」
「――ッ」
開いた口は何も言葉を出してくれない。胃が締め付けられ、苦いものがじわじわと滲み出ていく。僕は目を逸らした。カップの中は暗い灰色で濁っている。
「少なくとも、せめてもう少し休んでいれば……おばあちゃんの言うとおりに……そうしたらもっと……」
彼女は目元を拭い、濡れた指先をマグカップの持ち手に引っ掛ける。しかし持ち上がることはない。ゴトン、という音と共に白い水面が大きく波打っただけだ。彼女は力なくうなだれて、両手で顔を覆った。
「ねえ、あなた……私、…………ちゃんとお母さんかしら」
最後の音が掠れて消え入る。
僕はついにこらえきれず彼女を抱き寄せた。さっきより体温は戻ってきているが、そのか細さが変わることはない。後頭部の丸みに手を滑らせて包み込む。息子もじきに同じ形になるのだろう。
「大丈夫。君は間違いなく世界一のお母さんで、世界一のピアニストだ。君が選んだことに間違いなんて何一つない。僕が……僕と燎が保証する」
彼女が大きく身体を震わせる。僕はまだ冷たさの残る黒髪に顔を寄せ、彼女を抱えたままソファに深く身を預けた。
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