七月のワビサビ。
「堂嶌くん、ちょっと相談があるんですが」
大和が歩み寄ってきて声をひそめた。しかしその目は燎に向いておらず、ごく自然に部室を見渡している。燎もそれに習いできるだけ何気ない風を装いピアノの蓋を閉め、腕を組んで同じ方向に視線を投げかける。
練習を終え、部員達がめいめいに自分の楽器を片付けていく。時折暗くひんやりとした風がひゅうと吹き込んでは白いカーテンを大きく膨らまし、景色の右半分を覆い隠す。
どす、ぱちん、ぎい。不規則で雑然とした音と他愛ないお喋りがピークに差し掛かっていく。そこを見計らったかのように大和が僅かに口を開いた。
「音楽とは関係のないことで」
「俺でよければ」
燎は意識して視線を前方に集中させながら、口だけを動かし小声で応じる。
「助かります。詳しくは後ほど連絡を。ああ、依吹くん、手伝いますよ」
大和は返事を待たずに声のボリュームを切り替え、片手を上げてその場を後にしていく。
「夏休みのことで君に見てもらいたいものがあります。少し時間をもらえませんか」
燎のスマートフォンにメッセージが届いたのはその一時間後のことだった。
期末テスト最終日。部活はこの日まで休みなので校内で練習することはできない。メンバー達は早く帰宅して休む者とルバートに行く者に分かれた。大和と燎は一緒に自己採点をするからという名目でグループチャットに欠席を届け出た。案の定追随したがる者はいない。
「何というか……大和は器用だな」
「そうでしょうか」
燎の選んだ言葉に大和は柔和な笑みを見せる。
差し出された盆にはグラスに注がれた冷茶。氷は入っておらず、淡い緑がゆらゆらと漂うように底に霞をかける。
「ありがとう」
そっと持ち上げて静かに口を寄せる。薄いグラスの縁が唇のカーブにピタリと沿うのが心地良い。きりりと冷やされているのに、その舌触りのとろけるような滑らかさに息を飲む。ふうと冷たい息がこぼれると同時に、喉の奥からほのかな渋みが香って鼻に抜けていく。
ちりん。
庭園の木々のざわめきが七月の午後の陽射しを遮り、モザイクの影を縁側に落とす。開け放たれた障子から流れ込む風は確かに熱をはらんでいるのにどこか軽やかで、
「いいものだな。時間を忘れてしまいそうだ」
と燎は物思いに浸りそうになったまぶたを開いて丸いグラスの縁を視線でなぞる。
「そうですね。僕も本題を忘れるところでした」
大和は一枚のルーズリーフを手渡す。それは箇条書きのメモでクラス名と科目がいくつか書かれており、その下にはプリントが何枚、参考書のここからここまでといった内容が並ぶ。
「これは……課題か?」
「はい、夏休みのです。もう決まっているものがあったそうで」
燎は顎に手をやって改めて先頭から検分する。ボールペンで書かれた字はやや走り書きのように傾いているが、非常に形が整っていてバランスが良く読みやすい。燎は肝心の課題の物量を意識できないまま、その整然っぷりにただ感心して下まで終えてしまった。慌ててまた先頭に戻る。
「なるほど……意外と多いな。これより増えるとなると」
裏面まで読み終えて燎は顔をしかめ、ルーズリーフの向きを変えて大和に返した。
「ええ。対策が必要かと」
「それで俺か」
「すみません。君しか頼れそうになくて」
大和は指を揃えてルーズリーフを二人の中間に置く。
「いや、構わない。むしろ先手を打てるのはいいことだ。しかしそれにしても、自力で課題をこなせないのが前提というのが何とも情けないな」
「まあ、それは……そうですねえ」
大和は淡い苦味の混じった笑みで応じ、おかわりを入れてきましょうと席を立った。
風が舞い込み、風鈴を鳴らす。
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