[10]七月三十日

家族シンメ。七月と八月のあいだの深い溝。まとわり付くあの日の記憶。拓夢の過去と栢橋家を捏造。



 かちゃ。
 傷だらけのドアレバーが店内に蓋をする。軽快なジャズトリオがすうっとフェードアウトしていく。
「はあ…………」
 長い長いため息が誰もいない控え室にぼうっとモヤのように広がって、微かなウッドベースのソロと混じり合って消える。
 閉め切られた窓の向こうから、ジリジリジリジリとセミの鳴き声が聞こえる。耳から入ってきた騒音が頭を揺さぶる。目の前の景色があの日に塗り替えられていく。止めなきゃいけないのに自分で自分の足が止められなくて、そうこうしている間にふらふらと引っ張られるように窓辺が近付いてきて、
「あかん」
 八月が迫りくる。
 大量の絵の具を水に溶かしたような真っ青な空。べたべたと手で塗りたくったような雲。こどもがふざけて遊んだみたいな真夏の真っ昼間。
「ほんま、」
 祖母の声が聞こえないくらいのセミの大声。それすらつんざく上の弟の絶叫。きょとんとしている下の子の丸い目。ちぎれんばかりに振り回される自分の右腕。ほどけて落ちそうな左手の指先。真っ黒なワンピース。夏休みの学ラン。白黒の垂れ幕。花。煙。額縁で笑う、
「ほんま、何やねん……!!」
 ぶわあっとガラス越しの熱気があの煙の臭いをまとって顔じゅうを覆う。目をつぶっても耳を塞いでも鼻をつまんでもあの時の上の弟のように泣き叫んでも何も変わらないのは分かっている。それでも、それでも首くらいは振りたかった。窓枠をぎゅうっと握りしめて涙をにじませるくらいはしたかった。レイが来るまでの五分でいい。そうしたら少しは、
「ヒロ〜! まかないお待ちデス! 今日は新作ですよ!」

 見られた。

 背中の中心から頭のてっぺんに向かって冷たいものが一瞬で駆け登り、窓枠から指先がびくんと跳ね上がる。胃が縮こまる感覚に胸がぎりぎりと締め上げられ、何もない中身が震える空気になって開いた口からじわじわと漏れ出していく。
 いや、背中だけや。落ち着け。
 この間〇・二秒。
 昨夜スマホで見た動画サイトのコメントが頭の中の下のほうに小さく映る。肺の奥のスイッチを無理やり入れて一発で普段の栢橋になる。額の汗を手の甲で拭って振り返る。クーラーが効いていても窓際は暑いから。
「へえ〜、何や新作って。トモさんに教えてもろたん?」
「ハイ! でもワタシもちょっと一工夫。It's spicy」
「スパイシーか! 夏はガツンと! やな」
 エプロンを身につけたレイは、まかないをトレイごとテーブルに置いて拓夢に顔を向けた。
「ヒロ……Are you alright?」
 澄んだ金色の目。何の疑いもない眼差し。意識をかき集めて据えたばかりの視線が、力を失ってぽとんと死に際のセミになりかける。本当にそうやって死ぬのかは知らんけど。
「……ああ、大丈夫。アイムオーライ。でもどうにも暑くてなあ……しんどいっちゃしんどいわ。レイちゃんもきついやろ」
「ハイ。日本の夏、本当に暑いですね」
「無理せんと、ちゃんと休んでな」
「ヒロも。Take care」
 レイは優しい語尾でにっこりと微笑んで控え室を出て行った。陽気なトランペットソロが一瞬だけ聞こえて、ドアがかちゃんと閉まるのと同時に小さくなる。
「テイクケア、かあ……」
 椅子を引いて腰かける。そこでやっと、せっかく作ってくれたまかないにろくなリアクションも取れていなかったことに気が付いた。何作ったん、うまそうやな、ありがとう。ありがとうすら言えていなかったのだ。
 天井を向いて口からモヤを吐く。それが白くなることはないし、あの煙の臭いに染まることもない。大丈夫、ルバートは全席禁煙だ。
 肩で大きく深呼吸をしてまかないに手を伸ばす。キッチリ四方の閉じられたホットサンドが二つ。グラスのアイスコーヒーが一杯。プレートの下には紙ナプキンが一枚。しかしそこに何かが書いてある。
「おつかれさまです:)」
 シワの寄った白い紙ナプキンにのたうつボールペン。ゆがんだひらがな。やけにバランスのいい顔文字。
「レイちゃん……」
 再び見上げた天井が、ゆらりと白く揺らいで滲んでいく。はあ、と小さく息をすると喉の奥が少し痛んだ。すすった鼻の前で、こんがり焼けたパンの香ばしさがほわほわと漂っている。
 紙ナプキンをトレイから離れたところにそっと置いて、ホットサンドを取り上げる。まだ芯には温かさが残っていて、そこでやっと頬が緩んだ。
 角にかじりつく。カリカリのトーストがサクサクと砕けてバターの香りが上がったと思ったら、溶けたチーズがとろりとはみ出て伸びてきた。空中で橋になったチーズを慌てて口でたぐる。
「ミートソース……?」
 食べかけの断面に、まだ辿り着いていない赤いものが見える。ちょうどいい温度だった一口目に味をしめ、安易にかぶりつく。
「うわ、かっら!!」
 口に入れた瞬間ビリッと痺れるような痛みが走って思わず声を上げてしまう。スパゲッティ用のミートソースに唐辛子か何かが入っているのだろう。タバスコかもしれない。
 キンキンのアイスコーヒーが口の中を鎮めてくれる。冷たい息を吐く。
 窓の外は変わらず青い。暑くて外には出たくないしセミの声は聞きたくない。
 でも、よく晴れた日だ。