(10)煙が消えても お題:蚊

燎と祖母。歳を取るということ。家族でも分からないこと。変化は受け入れるべきものなのか。※堂嶌家捏造



 パチッ。
「燎、そっちに蚊が行ったかも」
 和室の敷居を跨ぐなり、祖母がこちらに向かって声を上げた。老眼鏡を外して座卓に置き、辺りをきょろきょろしている。両手を構えて叩く体勢でいるものの、肝心の標的は近くにはいないようだ。
 祖母の言葉に従い俺も目を凝らして辺りを見回すが、それらしい姿は見つけられず羽音も耳には入ってこない。
 母は打ち合わせのため外出、父は書斎に篭もっている。祖母と二人の小さな和室は静まり返っていて、書道にはうってつけの日曜の午後……のはずだったのだが。
「はあ、もうそんな季節になったのね」
 祖母は単衣の肩を落とす。
「早いな」
「本当にね。そこ、しばらく見ててくれる? 蚊取り線香探すから」
 俺の言葉に祖母はこぼして、座卓から老眼鏡を取り上げ掛け直した。淡い水色の麻の裾を手で払って畳に膝を付き、押入れを開ける。
「うーん、確か毎年この辺りに仕舞ってた気がするんだけど……」
 祖母はこちらに背を向けて呟きながら小箱の中や物入れの引き出しを検分しだした。
 毎年この部屋に蚊が現れると、祖母は蚊取り線香を焚くのが習慣だった。コンセントに差すタイプのものを一度勧めたこともあったが、やはり昔からのものが落ち着くらしい。線香を据える朝顔柄の小皿に愛着が湧いているのも理由の一つのようだ。俺が物心付いた頃には既にこの和室にあったのだからかなりの年季物と思われる。
 手伝おうかと思ったが、この押入れにはそういった祖母愛用の品が細々と、しかも恐らく大量に収まっている。孫の立場でもおいそれと手出しはしにくい。
 やむを得ないか。俺はリビングに踵を返して収納庫の日用品置き場から小さなスプレーを取ってきた。
「今日はこれを使おうか。刺されるよりかはいいと思う」
「そうね……探してる間に刺されてしまったら元も子もないし」
 振り返った祖母に頷いてキャップを外し天井に向ける。

 プシュッ。
 蛍光灯の輪に白い煙がかかり、もやもやと広がって消えていく。
 一度押し込むと適量が噴出されるタイプのこのスプレーに初めは家族全員効果を疑っていたが、ある日リビングのテーブルに蚊の死体が落ちているのを祖母が見つけた時には皆して小さな感動を覚えたものだ。
「これでしばらくは大丈夫」
「ありがとう、助かるわ」
 祖母はまた小さく肩を落として押し入れを閉める。その背中は優しく笑ってはいたが、どことなく何かを諦めているようにも見えた。
 和室には僅かにガスの臭いが漂っている。火もなく煙もなく人体に害はない。それでも、どうしても小さな違和感が拭いきれない。
「これからは、それ使おうかしら」
 祖母は座卓について黒い毛氈と半紙を広げ文鎮を据える。その言葉が独り言なのか判別は付かない。
 結局俺は何も答えられないまま、祖母の対面に正座し黙って文箱を受け取った。