学校から帰ってきた燎が帰宅早々やりたがったこととは。真面目すぎる息子を持つ父の心理。期待ゆえに苦しむ母の葛藤。堂嶌家捏造。
「ただいま」
息子の声に、僕はアイロン台から顔を上げる。
燎は額の汗を手の甲で押さえて息をつく。十月に入ったが、今日も外は汗ばむ陽気だったらしい。昼前にエアコンを付けたままリビングにこもっていたから、天気が良いことくらいしか気付かなかった。
「おかえり」
「父さん、ちょうど良かった。アイロンを次に借りてもいいかな」
「いいよ。あと二着で終わるから」
「ありがとう。着替えてくる」
燎は頷いて廊下へ戻っていく。ちらりと見えた黒くて四角い鞄はマチいっぱいまで膨らんでいる。見た目だけで分かる。僕の仕事鞄よりも間違いなく重い。
僕に似たのか妻に似たのか――いや、妻のお母様だろう。妻はピアノ以外のこととなるとうっかりしやすいし、僕はオンでもオフでも手を抜ける時は適度に抜く――生真面目で何事にも妥協したがらない性格。今日は土曜日で授業は半日だから教科書類はそんなに必要ないはずだ。きっと参考書や楽譜、趣味で読み進めている本まで詰め込んでいるのだろう。
この後二時間もしたらピアノの個人レッスンだ。少し休んで行けばいいのに、着替えてアイロン掛けとは。出来のいい息子を持つのは父親として実に誇らしいが、心配にもなってしまう。頑張りすぎてはいないだろうか。その努力は強迫的なものではないだろうか。いくら親といっても、高校二年生になった息子にあれこれ詮索したり世話を焼きすぎるのはマナー違反というもの。そもそもプロとして独立した際に自活できるようにと幼少期から技術を教えてきたのは僕ら夫婦と妻のお母様三人で決めて取り組んできたことだ。成果が出ているのはいいことじゃないか。
僕は自分に言い聞かせてコードレスアイロンをせっせと動かす。もたもたしていたら着替えを済ませた息子が戻ってきてしまう。その前にこの二着を仕上げてアイスコーヒーの一杯でも出してやらないと。
「父さん」
「ああ、燎……」
僕が最後の一着をアイロン台に着せたところで廊下の扉が開いた。燎はこちらを見るなり、一瞬目を点にした。
「すまない。ちょっと考えごとをしてしまって。これで最後だから」
「大丈夫。構わないよ」
燎は長袖のワイシャツを何枚かと楽譜、文庫本一冊ずつをテーブルに置いてキッチンに向かい、アイスコーヒーとグラスを手に戻ってきた。僕がもたついて待たされるのも計算済みということか。全く、どちらが親なのか分かったもんじゃない。
燎が高校生になってしばらくした頃、妻は
「燎くんを見てるとね、負けてられないって思うの」
と言ってマグカップをぎりぎりと握り締め、リビングのグランドピアノを睨み付けていた。その真剣な目付きは母親の目ではない。仕事の目だった。
燎は部活にのめり込むようになってから自宅で弾く機会は減った。しかし、週末になると部活やレッスンの前後にこのグランドピアノで練習をする。
中学生の頃は一時期遠慮がちに目を伏せて弾いていたこともあったが、今ではそんな素振りを見せることはない。妻が「私に気を遣ってクラシックを弾き続けているようなら遠慮はいらない。ジャズでもポップスでも好きなものを弾いていいの」と言ったあの日から、燎は何かが吹っ切れたように目の奥を燃やして没頭するようになった。妻と同じ目で。
かねてから「いつか私の好きなクラシックを弾く燎くんが見たい」と言っていた妻からしたら断腸の思いだっただろう。燎は真面目で従順で能力がある。期待してしまうのは当然だ。しかし妻は母親としての個人的な欲を自ら切り捨てた。自分に非情になることが、子への最大の愛情なのだと。
「燎、終わったよ」
「ありがとう」
息子は文庫本に栞を挟んで閉じ、アイスコーヒーを一口飲んでからソファを立つ。いつの間にか僕と同じ身長になっている。きっとアイロン掛けの技術だって僕と遜色ない。
自分で学校からの書類を確認して、制服の衣替えの通知を見て、余裕を持って週末のうちに早めにクローゼットを開けてワイシャツにシワがないか確認して、形態安定だからさほど気にしなくてもいいだろうに、念の為だからとか、衣替え初日はパリッとしていた方が気持ちが引き締まっていていいからとかいう理由で自らアイロンを掛けたがるのだ。恐らく僕が何も言わなくても仕上がったワイシャツはきちんとハンガーに掛けて、使い終わったアイロン台は冷めてから畳んで片付けてくれるのだ。そして再びソファに腰掛けて一息ついたと思ったらすぐに軽い練習をこなしてレッスンに出かけていく。
そんな息子なのだ。
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