1部の頃。ジャズコン前に青くんが打ち明けたこと。フォロワー様とのやりとりに着想を得ました。許可を頂きありがとうございます。※作中の生物は驚きの見た目なので心臓の弱い方は検索注意
『未知なるカンブリア紀――失われた海洋生物を追い求めて――』
棚から本を抜き取る。薄めだけど大きなサイズに少し期待が膨らむ。
表紙一面に広がるのは暗い海。底から海面を見上げているようだ。上の方が明るくなっていて光の筋が何本か射している。生き物は写っていないシンプルな写真。だけどどこか神秘的で吸い込まれそうな感じがする。
表紙をめくると、最初の方にカラーページが何枚か。はじめの見開きに大きく描かれているのは……アノマロカリスだ! 本を握る手に力がこもる。
僕は一旦本を閉じて棚から顔を出した。壁の時計はもうすぐ部活の時間を指している。図書室でちょっと本を見たらすぐに練習を始めるつもりだったのに、ついうっかりしてしまった。急がないと。
本当ならもう少し中身を確かめてから借りるかどうかを決めたかったけれど、今日はそうも言っていられない。きっとこの本はいい本だ。根拠はないけどそう信じられる気がする。こんなに素敵な表紙とアノマロカリスなんだから。
貸し出しカウンターに本を差し出して、手前の荷物置きスタンドにカバンを置く。本を入れるスペースは……あった。よかった。
「依吹」
「は、ひゃい!」
そんなタイミングで声をかけられるとは思っていなくて、僕は両手をびくんと震わせてしまった。先輩、しかも堂嶌さんだ。
「悪い。驚かせるつもりはなかったんだが。今から部室か?」
「は、はい! こちらこそすみません! これを借りたらすぐに……」
と言いかけたところで、僕はハッとして視線を床からカウンターに引き戻す。幸い司書の先生は本を裏向きにしてバーコードを読み取っているところだ。
「そうか。なら……一緒に行こう。少し待っていてくれないか。すぐに終わる」
見られなくて良かったと安心する前に、堂嶌さんはそう言って颯爽と僕の脇を通り過ぎ、長机の並ぶフロアを突っ切って棚の中に消えてしまった。そして僕がもたもたとアノマロカリスをしまっている間にもう戻ってきた。何となくそうかもしれないとは思っていたけれど、案の定遠目からもわかるくらい分厚い本を手にしている。
「待たせた」
堂嶌さんはこちらに向かって頷きながら流れるように本を差し出し、返却が先ですとカバンから別の本を二冊取り出した。これもまた分厚い。くすんだ色のハードカバーには、
『コーヒーハウスの文化史』
『ミルクが先か紅茶が先か 〜英国ティータイム論壇今昔〜』
と書かれている。堂嶌さんは入れ替わりに手渡された本をカバンにしまう。
『付加価値戦略 〜チェーン店で一杯八百円のコーヒーが売れるワケ〜』
『“見えないものに価値を見いだす”思考法』
「……依吹?」
堂嶌さんが振り返って声をかけてきた。僕がポカンとしている間に、準備を済ませて出入口に向かっていたみたいだ。
「ごめんなさい! あ……あの、ど、堂嶌さん!」
カバンを引っ掴んで僕は後を追う。
「――相談したいことがあるんです!」
どうしてそんなことを口走ってしまったのか、自分でも全く分からない。ただ、出入口の扉を開けたまま押さえていた堂嶌さんがすぐに
「……構わない。俺で良ければ聞かせてくれ」
と答えてくれたことに、僕はそれだけでもう何かが一つ解決したような気持ちになってしまった。
でもそんな風に安心していられたのはほんの少しの間だけ。よくよく考えてみたら、これまで堂嶌さんと二人で話したことはほとんどなかった気がする。
優しい先輩だというのは分かってはいる。けれど部活の時は大抵ピアノを弾いているか、譜面を読んでいるか、誰かと話しているか、考えごとをしているかのどれかで、今なら暇そうだから声をかけてもいいかなと思えるタイミングは滅多にない。時々話しかけられることはあるけれど音楽の話ばかり。しかもいつも真剣だから背筋を伸ばして聞くほかない。だから僕はまだ堂嶌さんのことを知っているようでよく分かっていないのだ。
そんな堂嶌さんに、何で僕は。
歩きながら制服の胸元を掴んで下を向いた。カバンと一緒に胸の中がどんよりと暗く重くなっていく。堂嶌さんは優しい。でも厳しくもある。ちょこちょこ叱られては口を尖らせたり笑ったりしている智川さんの姿が頭をよぎる。僕が堂嶌さんに叱られたら、とてもじゃないけどあんな風に笑うことなんてできないだろう。
堂嶌さんについていった先は図書館の一階だった。
床は広いウッドデッキのようになっていて、ベンチがいくつか置かれている。二階の図書室が屋根代わりになっており、大きな柱が何本か立っている以外に遮るものは何もない。涼しい日陰を風が吹き抜けていく。衣替えで半袖の夏服になったばかりの腕がひんやりする。
堂嶌さんは飲み物は何がいいかと訊ねてきた。咄嗟に何でもいいと答えてしまい、僕はまた肩を落とした。本当は何でも飲めるわけじゃない。堂嶌さんがよく飲んでいるのはブラックコーヒーだ。でも僕はあまり得意じゃない。飲めるのはルバートのだけ。
近くの自販機から戻ってきた堂嶌さんの手に緑茶のペットボトルを見つけた瞬間、僕は思わず命拾いしたと感じてしまい、また落ち込んだ。全部自分のせいなのに。
お金を払うと言った僕に堂嶌さんは優しく首を振って、コーヒーの黒い缶をカコンと開けて口を付けた。僕もペットボトルのフタに取り掛かる。手が滑ってうまく開かない。堂嶌さんはというと、スマホを見ている。とととん、と人差し指が画面の下の方を軽く叩いている。
「事情があって部活には少し遅れると連絡しておこう」
堂嶌さんがメッセージを送る前に無事ペットボトルを開けきり、僕はホッとした。
同じものをと言って緑茶が出てきたということは、堂嶌さんは緑茶が好きなんだろうか。ピアノ歴が長くてコーヒーや紅茶に興味があるのだから洋風趣味なのかと思っていたけれど、意外とそうでもないのかもしれない。書道が得意らしいし。
「……それで、話はできそうか」
堂嶌さんは缶を脇に置いて切り出した。
「え? えっと……」
「言いにくいなら無理はしなくていい。俺は本を読んでいるから、話したくなったら声をかけてくれ。読書の途中でも構わない」
僕がまごついているのを見て、堂嶌さんはベンチに深く座り直してゆったりと脚を組んだ。そして本当に本を取り出して読み始めてしまった。もう僕がここにいるかなんて全く関係ないみたいに本に集中してしまったのか、堂嶌さんはそれっきり口を開こうとしない。
『“見えないものに価値を見いだす”思考法』。
堂嶌さんは群青色の表紙をめくる。目次にじっくり目を通し、前書きの小さな字に取り掛かる。
黒くてまっすぐな横髪の奥で、切れ長の目がまばたきをしながら字を辿っている。すらっとした長い指。難しそうな厚い本。膨大な知識。だけじゃない。
僕は自分の頭に手をやった。今朝直しきれなかった癖毛がまだ少し跳ねている。あと一年経ったら僕もあんな風になれるんだろうか。そう考えることすら何だかおこがましいような気がしてしまう。
ぱらり、とページがめくれる。僕はペットボトルを握ったままだったことを思い出した。ぎゅっと目をつぶってごくごくと二口飲む。ちょっと渋い。冷たさがお腹の中に落ちて、じわじわと広がっていく。浅くなる息をどうにか落ち着かせたくて何度も深呼吸を繰り返す。
「僕、自分に自信が持てないんです」
やっとのことで言葉にした。ペットボトルがきりきりと手の平を冷やしていく。
「……なるほど」
堂嶌さんはそれだけ言うと、本にひもの栞を挟んで閉じた。
「もっとうまくならなきゃと思って、たくさん練習してきました。でもまだまだで。堂嶌さんたち先輩方も、九鬼くんも星乃くんもすごくて。全然追い付けなくて。僕が未経験者だから当然だって頭では分かってるんです。みんなの言葉を借りるなら、入部したばかりの頃よりできることも増えてきた……と、思うんですが……褒めてもらっても実感が持てないことがあって……本当に、だめですよね。こんなんじゃ」
蛇口をひねったみたいに止まらなかった。本当は心のどこかでずっと言いたくて仕方がなかったのかもしれない。でも、口に出してしまえばしまうだけ、解放感で空っぽになった心の中に罪悪感がどかどかと詰め込まれていく。
「褒めてもらっても実感が持てない、か……」
堂嶌さんは本を膝から下ろして腕を組み、右手を顔の色んな場所に当てながら考え込み始めた。僕もそこでやっと思い出してペットボトルを隣に置く。堂嶌さんはなかなか喋ろうとしない。こちらを見ようともしない。一体何を考えているんだろう。やっぱり叱られてしまうだろうか。僕は背筋を伸ばして姿勢を正した。服のシワを整えたり、シャツの襟をまっすぐにしたり。それでもどきどきして落ち着かない。
堂嶌さんはしばらくしてから動きを止めて、口を開いた。
「前提を覆すようで悪いが、結論から言うと無理に自信をつける必要はない。と俺は思う。まあ、あくまで個人的な考えだから鵜呑みにはしない方がいいかもしれないが」
「……え?」
自信を付けなくてもいい。それはどういうことなんだろう。無理しなくてもいい? 無理しないと追い付けないのに? このままでいたくないのに?
ぴりぴりと痛む手の平が、吹いてきた風でひゅうっと熱を失う。僕は親指を隠すようにしてぎゅっと拳を握った。
「依吹。聴いた人全てが感動する演奏は、この世に存在すると思うか?」
「え? ……そ、それはもちろん!」
突然話の中身が変わってしまった。驚く暇もない。とにかく僕は正直に大きく頷いた。だって初めて聴いたSwingCATSの演奏がそうだったんだから。
なのに堂嶌さんは小さく笑った。
「そうか。申し訳ないが、俺はそんな演奏は究極的には存在しないと思っているんだ」
「そんな……どうして」
冷たい水を浴びたような心地がして、僕は思わず食らいつくように堂嶌さんの方へ体を向けた。
誰よりも音楽歴が長くて練習熱心な堂嶌さんが、何でそんな諦めるようなことを言うのだろう。諦めているなら何でそんなに練習ができるのだろう。堂嶌さんは嘘を付いたりわざと人を傷付けたりするような人じゃない。いつだって真面目で誠意のある人だ。でもだからこそ、この言葉が強い真実味を持って迫る。
そこで堂嶌さんは例え話をしてきた。いま流行っている曲が全部素晴らしいと思えるかどうか。一流の歌手にも必ずといっていいほどアンチがいること。今では有名な歴史上の作曲家の中には、生前見向きもされなかった人たちが大勢いること。
「プロですらそうなんだ。アマチュアの俺たちなら尚更だろう」
それは至極まっとうな意見で、現実だった。疑いようも、口のはさみようもない。
「……落ち込んだか?」
「あっ……いえ、その……少しだけ」
僕は取り繕うのを諦めて頷く。
「でも、なら堂嶌さんは……どうしてそんなに頑張れるんですか?」
堂嶌さんは座ったまま身体ごと少しこちらに向き直り、斜めに座るような格好になった。
「全員を感動させることはできなくても、全員に近付けることはできるだろう。俺が目指しているのはそこだ」
「なるほど……」
「それに、努力が実を結ぶことを経験上知っているからだ。いい結果が出れば自信に繋がる。ただ、これは昔からピアノを弾いている俺にとっての結果論でしかない。もっと普遍的な精神論で語るなら……人を信じているからだ」
そこで堂嶌さんはふっと緩むような笑みを滲ませた。その瞬間、僕の脳裏に智川さんの笑顔が浮かんだ。
「といっても大したことはしていない。単純に人の言葉をそのまま受け取るだけだ。人からの厚意を歪めてしまうくらいなら、自分の私情というフィルターを通す必要はないからな」
堂嶌さんはあっさりと言い切った。自分を捨てることが初めから勘定に入っているなんて。なのに堂嶌さんが犠牲になっているとは思えないのが不思議だ。
「もし依吹が今考えているのがトモのことなら、だが。あのトモの言葉なんだ。子どもじみた言い方にいちいち全力で気を遣っていたら持たないぞ。素直に額面通り受け取っておけばいい」
「は、はい……」
智川さんから、青は素直だなあとよく言われていたことを思い出す。そのたびに僕はそんなことないと首を振っていたように思う。そしてその後でいつも、これで良かったのだろうかと一人で考えていた。褒められて率直にありがとうございますと言えるほど僕は素直ではない。堂嶌さんに言ったように自信もない。でも僕が否定してしまうと、それはそれでいつも善意で褒めてくれる智川さんに失礼なんじゃないかという気持ちもあった。
智川さんはいつも温かい言葉をくれる。でも僕はそれをちゃんと受け取れていなかったのかもしれない。ずっと苦しかったのはそのせいだったのだろうか。堂嶌さんが言うように本当に智川さんを信じるなら、そのまま受け取ってもいいのかもしれない。僕の考えがどうであれ、まずは智川さんの気持ちを大切にしなきゃ。そして、智川さんへの尊敬や感謝の気持ちを伝えなきゃ。
僕が僕を認められなくても。
ペットボトルはまだ濡れている。ポケットからハンカチを出して拭き取ってからゆっくりと流し込む。少しぬるくて、さっきより甘さを感じる。
堂嶌さんはこれからも、必要とあらば例え厳しい現実でも堂々と突きつけるのだろう。でも、きっとそれだけでは終わらない。堂嶌さんは現実的だからこそ、そんな現実に合わせてこれからやるべきことの道筋を常に考えているのかもしれない。
「ありがとうこざいます。その……思い切って相談して良かったです」
「そう言ってもらえて俺も嬉しいよ。トモのようにはうまくやれないからな。実は少し自信がなかったんだ。だが、依吹のおかげで前向きになれそうだ」
結果は自信を生むからな、と堂嶌さんはまた小さく笑って缶コーヒーを手に取った。
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