(30)タイトル未定 お題:風邪

アンコン後のSC2年生。何かと気を揉む武宮先生。



「うん、うん! 今日もみんないい……調子って感――じックシュン!」
 課題曲を通しで合わせ終えた瞬間、智川くんはふわふわとした喋り方から盛大にくしゃみをした。トランペットを咄嗟に持ち上げ床に向かってくしゃみをするあたり、申し訳ないけれどさすがだと思ってしまう。生粋の演奏家というものは、そんな無意識の仕草にも矜持のようなものが表れるのかもしれない。
「お前を除いてだよ。バレバレだっての」
 弦に触れていた手を腰に当て、神条くんはすぐさま口を開く。
「管楽器ってこういう時めんどくせーよな。ドラムはマスク付けときゃ割とどうとでもなるし」
「ならない。コウも先週ブレてただろ。誤魔化せると思ってたのか?」
「あ? ごまかす気はねーよ。俺は俺のやれる全力をやるだけだ。ちょっとくらい風邪ひいても叩けるなら大したことじゃねえ」
「はあ!? それでパフォーマンス落ちたら意味がないんだよ。やっぱり馬鹿には分からないみたいだな」
「んだと!?」
 スツールを蹴り飛ばしそうな勢いで行田くんが立ち上がる。もはや矛先は完全に逸れてしまった。いつもは智川くんと堂嶌くんに仲裁を任せているけれど、今回は智川くんを働かせるわけにはいかないし、アンコンであんなことがあった後でこの話題となれば堂嶌くんも強くは出にくいだろう。僕が出た方がいい場面かもしれない。
「まあまあ二人とも。お互いの言いたいことはよく分かります。ですが、まずは智川くんのことが先決です。智川くん、今日は早退した方がいいんじゃないでしょうか。二人の言う通り、管楽器は呼吸が乱れるとすぐに表に出てしまいます。それは君が一番熟知していることでしょう」
「そりゃそう……だけど、クシュ!」
 幸いこの作戦はうまくいったようで、神条くんと行田くんは押し黙り背を向け合った。神条くんはチラリと智川くんを見やってぼそぼそと尋ねた。
「……ルバートのシフトは」
「いや、今日は入ってない」
 その返事に、神条くんはフンと鼻を鳴らすようにため息をつく。
「それは不幸中の幸いですね。智川くん、今日は僕たちで練習しますからゆっくり休んでください。次のステージまでまだ余裕もあります」
「うん……じゃ、今日はそうしよっかな。みんなごめん」
「気にすんな。スパッと治してバシッと帰ってこい」
 歩み寄ってきた行田くんが、落ちてしまった智川くんの肩を軽く叩いて笑う。その間に堂嶌くんが部室の隅からティッシュの箱を持ってきて差し出した。
「その間にお前が腰抜かすほど上手くなっとくから。覚悟しといて」
 神条くんが言い放った瞬間、智川くんは鼻をかみながら笑い声を上げた。何と器用なのだろう。本当に失礼ながら、つくづくすごい人だ。
「っはは! ん、そーだな!」
「だから! お前は何で素直に人に優しくできねーんだよ!」
「うるさいな、本当のことだから何だっていいだろ!」
「よくねえから言ってんだろーが!」
 再び口論を始めた二人に智川くんは力の抜けた笑顔を向けて部室を後にした。振り返ると、堂嶌くんが心配そうに空っぽの廊下を見つめている。彼の心理を思えばもっともだろう。こういう時いの一番に動いて世話を焼きそうなはずなのに、今日はらしくなかった。けれど、それは仲間であっても決して咎めていいものではない。誰がいつ同じ事態に陥ったっておかしくないのだ。次の本番では自分かもしれない。もし自分が彼のように体調を崩してしまったら、やはり打ち明けるのはすごく難しいだろう。実際、サッカー部の時は多少の風邪なら練習や試合には出ていたのだから。
「……大和」
 堂嶌くんが重々しく口を開いた。激しい水掛け論にかき消されそうなくらいその声は小さい。僕は聞き逃さないようにじっと彼を見つめて続きを待った。
「俺がこういうことを言うのは本当に……いかがなものかと思うんだが、来週の模試……大丈夫だと思うか」
 しまった。すっかり失念していた。
 僕は思わず額に手をやった。そういうことを口に出来るくらいには堂嶌くんも回復してきた、と見るべきだろうか。でも今は考えている場合ではない。校内の定期テストと違って模試はどんな問題が出されるか予想をつけにくい。労力は普段の倍か、智川くんが数日休むことを加味すればそれ以上だ。
「どうにか……ええ、どうにかしましょう」
 僕は息を整えて頷き、吠える行田くんへ足を向けた。