(33)タイトル未定 お題:フリー

らすとじゃずの堂嶌家。母視点。シリアス。全部捏造。




「……うーん、美味しいと思うんだけど自信がないわ。見てもらってもいい?」

 煮汁が垂れないように気をつけながら、お玉を手渡す。母は具がたっぷりの筑前煮の鍋にまっすぐお玉を持っていき、迷いなく一口分すくい取って自分の小皿に移した。私はどこをすくったらいいか結構迷ったのに。

「うん、いいと思う」

 母は頷いて道具を調理台に置いた。そのタイミングでちょうどグリルのタイマーが鳴る。魚焼きの網が引き出された瞬間、甘く香ばしい匂いがふんわりと上がった。割烹着の背中越しに、色よく焼き上がった銀だらみりんが見える。母は焦げ目が縁取る切り身の端を菜箸で少し返して裏を確かめ、よしと呟く。それからテキパキと盛りつけの準備に取り掛かった。私の存在は勘定に入っていないようだった。私が普段仕事に追われるせいでここに立つことが少ないのだから、当然といえば当然なのだけど、実際にやっていることは指示を待つばかりの子どものお手伝いのようで、身の置き場に困ってしまう。

「おばあちゃん、お皿どっちにする?」

「そっちの四角いのがいいかもねえ……今日の銀だらは大きいでしょう?」

 母の様子を見ながら食器を出していく。母をおばあちゃんと呼び始めて十七年。もう何の違和感もない。けれど、何となくたまに母との距離感がよく分からなくなる時がある。この台所もそうだ。おふくろの味と言えば全て母の手料理。私は味見を任されても美味しいかどうかしか判断がつかず、ちゃんと家の味になっているのかピンとこない。息子が毎日口にしている味がどんなものなのか分からないのだ。

「どうしたの。さっきまであんなに張り切ってたのに」

 不思議そうな顔をするおばあちゃんに私は首を振る。

「お母さんはもうちょっと自信を持っていいと思うんだけどねえ……最近はほら、台所に立つのはお母さんじゃなくてもいいってよく言うじゃない? お父さんが料理するご家庭も多いんでしょう?」

 実の母からお母さんと呼ばれるのにも、何とも思わない。でも、銀だらみりんをのせるお皿一枚にすら悩んでしまう私には「お母さん」という肩書きがどうしても相応しくないような気がして、曖昧に笑うことしかできなかった。

 ピアニストとしてならどんな舞台でも立ってみせる。ソロでもアンサンブルでも、例え屈指の難曲だって弾きぬいてみせる。絶対に。そう言い切れる自信がある。なのに音楽のない場所となるとどうしてもこうなってしまう。私は一人の母親として、母親らしいことを子どもにしてこられただろうか。子育てのコラムには「働く姿を見せるのも立派な母親の在り方です」と書かれていたけれど、それは鵜呑みにしていい言葉なのか。答えを知ることは出来ない。燎くんはもう高校二年生で、学生時代の私よりずっと大人びている気がした。もしかしたら今の私よりしっかりしているかもしれない。私が多少弱音を吐いたところで、大丈夫だと答えるのは目に見えていた。

「何かをしてあげることが必ずしも母親の役目とは限らない、と僕は思う。何となく君もそう思わないか?」

 まだ燎くんが小さかったころ、あどけない寝顔を見ながら泣いていた私に夫が言ってくれたことを思い返す。それは何の根拠もないアマチュアの言葉だったけれど、どんなプロのアドバイスよりも胸に響いた。今になってもはっきりと思い出せるくらい。

 鍵の回る音が小さく聞こえて、私は玄関へと急いだ。あなた、と階段の上に向かって呼びかける。きっと書斎から下りてきたら銀だらみりんの香りに嬉しそうにするだろう。燎くんもだ。最近出していなかったとおばあちゃんに聞いたからきっと喜んでくれるはず。

 でも、目の前に立っていた燎くんは青白い顔をしていた。いつもこうだ。久しぶりに母親らしいことができると張り切った日に限って、良くないことが起こる。私は尋ねていいものか悩んでから小さく口を開いた。

「どうしたの? 何か……あったの?」

「……トモが、海外に行くかもしれないと」

 消え入りそうな言葉と共に、白いブレザーの肩ががっくりと落ちる。その姿にあの日の燎くんが重なる。何よ、全然しっかりしてないじゃない。やっぱり子どもじゃないの。音楽に悩んで、大事な本番で熱を出して、大事なお友達を失うかもしれない不安に目の前を真っ暗にして。

「そう、それは……ずいぶん急なのね」

 私は持ち上げた右手をどうしたらいいか迷ってしまい、口元に押し当てた。燎くんはもう抱き締めてあげられる歳じゃない。自力で考えて答えを出して、自分で自分の責任を取っていく年頃なのだ。でも、だからといってこのままでいいはずがない。母親として何もしてあげられなくてもいいと言うのなら、私は今、どうしたら。

「海外……ね。とにかく……今はすごくショックだろうけど、とりあえずご飯を食べましょう。お母さんが聞いていい話なら……一緒に考えさせて」

 声の震えをどうにか抑え付ける。燎くんは額に当てた手をそのままに、力なくうなだれるように頷いた。真っ白な背中が洗面所に消えていくのを、私はエプロンの裾を握りしめて見送る。それから、演奏前のルーティンと同じように深く呼吸をして背中の紐をほどいた。

 大丈夫、きっと大丈夫。