燎にとっての特別な掃除。記憶と音楽。
タン、トン、タン。
空間に一人分の足音が反響する。最後の一段を上りきるまで、燎はついに誰とも会うことはなかった。春休みの初日。朝一番の校内には全く人気がない。とても都市部の高校とは思えない静けさだった。周辺には通勤の車通りもあるが、最上階のここまでは届かない。このあと部活に励む学生の喧騒が響き渡る様子が想像しがたいほどだった。
実に掃除日和の朝である。
職員室で借りてきた鍵を差し、回す。部室の景色は昨夜片付けた時のままそこにあった。当然のことだ。けれど、閉め切った白いカーテンが窓越しの朝日に照らされ、内側から黄金色の光を放っているのを見ると、どことなく別の場所のように思える。早く仕事を始めなくてはならないのに、なかなか自分の足が動こうとしない。胸の奥に小さな何かが詰まったような、微かな感覚。何かに引き留められている錯覚を覚えるも、視線や物音はない。きっと、感慨がそうさせているのだろう。
ゆっくりと深呼吸をすると、急に左手の荷物が重さを取り戻した。壁の時計を見上げる。思っていた以上に時間が経っていた。よし、と呟き早足でグランドピアノに向かう。全ての荷物を椅子の脇に置き、カーテンへ。全てのカーテンを開け放ち、窓も全開にする。ひんやりとした風が吹き寄せるが、幸い風は穏やかで、朝家を出た時よりいくらか気温が上がっている。振り返り、後方の出入り口の引き戸も開けておく。
上着を脱いで部室の隅の椅子に掛け、黒い薄手のニットに着替える。長い袖を丁寧に折り畳んでまくり、同じようにまくったワイシャツの袖口をかぶせる。一度手を洗ってから戻り、隅々まで丹念に水気を拭き取る。
水で冷やされたばかりの指先が、もう熱を取り戻し始めていた。思わず大きく息をついてしまう。
「よし」
今度は確実に、自分への鼓舞だった。
普段より大きく椅子を引き、鍵盤蓋の縁に指をかけ、引き上げる。ずらりと並んだ白鍵と黒鍵に指先をあてがう。初めて触れた時の印象がうまく思い出せないくらい、二年間弾き続けた感触は今やしっくりと指に馴染み、懐かしさすら覚えるほどだった。学校の備品だと頭では理解していても、既に感覚が「自分の場所はここだ」と主張しているようだった。軽く手を乗せるだけで、勝手に脳の奥深くから次々に記憶が引き出されていく。過去の出来事、練習した曲、今から弾いてみたい曲のいくつか。それほどまでに、自分の記憶は音楽と密接に結びついているのだと実感させられた。
ゆっくりと屋根を開いて突上棒で支え、内部を覗き込み、埃の詰まっている箇所を検分する。調律検査カードを取り出して見ると、最後の調律日はちょうど一年前だった。
Cに人差し指を添え、押し込む。窓を開ける前にするべきだった、と少し後悔するも遅い。諦めて聴覚からピアノ以外の全ての音を追い出し、耳を傾ける。波打ちながら膨張し、減衰していく音を追う。もう一度、さらにもう一度。
――ザアアッ。
校庭の木々のざわめきが、はっきりと音を取り戻す。気のせいと言われればそれまでの範疇だが、やはりわずかに下がっている気がする。前回の調律は事前の告知もなく、いつの間にか終わっていた。何気なく目に留まったカードに新しい日付が書き加えられていたのを知った時、自分はどんな顔をしていたのだろう。こんなにも自分の記憶を占めているもののはずなのに、どうしても思い出せない。ただ、気付いた時には翔琉に何度か呼びかけられていた映像だけが、ぼんやりと頭に残っている。
学校の仕組みでそう決まっているだろうから、ただの生徒の一存でとやかく意見するのは難しいだろう。個人の私情が絡んでいるなら尚更だ。しかし、それでも副部長の権限とピアニストの権利でどうにか立ち合いの許可をもらえないだろうか、と考えずにはいられない。
クリーナーとクロスを手にする。耳の奥に少しだけ、沈んだCが残っている気がした。
この掃除を終えたら、最後の一年が始まるのだ。
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