(39)いっそこの手で焼き払えたら お題:春一番

優貴の過酷な登校風景再び。思春期全開。体質や母親など捏造。(27)初雪との繋がりがありますが、単品でも読めます。




「優くん、薬忘れてる」
「……ありがとう」
 母の声に振り返る。昨夜飲んだ分の副作用がまだ残っているのか、頭がくらくらする。うまく目が開けられない。狭い視界の中でどうにか母の手元を捉え、小さなファスナー付きのビニール袋を受け取る。玄関は薄暗い。袋の上から、昼と夜の分がきちんと入っているのを手探りで確かめる。母を信用していない――わけではない。けれど、こういう細かいところがどこか抜けているのがこの母親だ。
 壁のスイッチを探り当て、ぱちん、と電気を付けて屈み込む。普段よりボリュームのある朝食で膨れた胃が重い。根菜たっぷりのポトフ。全粒粉のパン。ヨーグルト。得意げな母の顔。きっと、自分が教室に着く頃にはSNSに写真が載っているのだろう。小綺麗なテーブルセッティングに「#花粉症対策 #言葉にはできないけど #応援してる」といったタグが並んでいるに違いない。正直何でもいい。応援でこの体質が治るならここまで苦労はしていない。精神論をどうこう並べるくらいなら、自分の行動範囲のスギの木を全部伐採して灰の一粒も残さぬよう完璧に燃やし尽くして欲しかった。

 バッグの内ポケットに薬を入れる。同じ所には予備の使い捨てマスクが三枚。保湿タイプのポケットティッシュも予備を三個。飲み物がなみなみと入った細身のボトル。渋めの緑茶はあまり気乗りしないが、背に腹は替えられない。母一押しのルイボスティーよりはマシだ。
 マスクのノーズワイヤーをぴったりと押さえて、のろのろと立ち上がる。普段より一時間早く寝たはずなのに、どんよりと重い眠気が鼻から上に垂れ込めて、一向に覚める気配がない。睡眠が足りていないのか、疲れなのか、薬のせいなのか、考える頭も働かない。吐き出した息がマスクの中に充満する。鼻が通っていたなら、きっとコンソメと土っぽい野菜の匂いがしていただろう。

 荷物の準備を終えて靴を履き、壁に手をついて立ち上がると、靴箱の脇の姿見に自分の姿が映った。
 これから乱れ放題になるであろう癖毛に、大きめの丸眼鏡、鼻から顎まですっぽり覆うマスク。教科書とノートに加えて花粉対策グッズで膨らんだバッグ。そして背中から突き出したウッドベース。どこからどう見ても憂鬱そうだった。とてもじゃないが、あまり良い音を出すベーシストには見えない。
 姿見から、体ごと目をそらす。玄関扉に体重をかけて押し開けると、生暖かい突風が殺到した。この風の中に一体どれだけの花粉が飛び交っているのか。想像しただけで、本当なら見えないはずの小さな黄色い粒が目に見えてくるような気がした。暖かいのに寒気がする。
 どう考えてもこの国に四季なんていらない。秋以外、存在価値はないのだ。あの木を誰も焼いてくれないというのなら、もう自分の鼻を焼くしかない。今年こそは、頼み込んででもレーザー治療を受けよう。そう固く決意し、肩に食い込む太いストラップを握り締める。