堂嶌家。春。よく晴れた日曜の朝。母とピアノの在り方。
「ねえ、最近風邪薬のCMを見なくなったと思わない?」
ソファに座っていた母がテレビに向かって尋ねた。
「確かに。言われてみればそうかもしれない」
父はテレビに視線を向けたまま、マグカップのコーヒーから口を離した。
日曜日の朝。毎週見ているニュース番組はエンディングトークに差し掛かるところだった。天気予報を紹介したばかりのスタジオは和やかな空気に包まれ、今日は全国的に花見日和ですね、とまさに話に花を咲かせている。アナウンサー達の表情も、いつもより心なしか晴れやかに見える。
ソファに座っていた母は腰を浮かせ、ローテーブルのリモコンを取った。
『いよいよ春本番となりました。お出かけが楽しみな季節ですね。皆様よい週末をお過ごし下さい。それではまた来週』
右から左へと流れていたスタッフロールが終わりを迎えた。中央のメインキャスターが笑顔で語りかけ、姿勢の良い背中を傾けてゆっくりとお辞儀をした。他の出演者もそろって一礼をし、テロップと共に番組はつつがなく終了した。画面はCMへ移り、スギの木を背景にくしゃみをするタレントが映し出される。母の言う通り、少し前までのこの時間帯は、コートとマスクに身を包んだ女優が風邪薬のCMをしていたはずだ。
母はリモコンでテレビを消した。ふっと息を切ったようなリビングには、離れた台所で祖母が片付けている食器の音だけが控えめに届いてくる。普段は何事もテキパキと順序良く時間を大事にがモットーの祖母だが、季節に気持ちも和らいでいるのか、その後ろ姿はどことなくのんびりとしている。母はリモコンをマグカップに持ち替えると、ソファに浅く腰掛けてこちらを向いた。
「お父さんと燎くんは、そろそろアイスコーヒーにする?」
「うーん、父さんはまだホットだな」
「俺もしばらくはホットだと思う」
「お母さんも」
母はゆったりと返事をしながらカップに目を落とし、残ったカフェオレを傾けて立ち上がった。
「おばあちゃんもまだあったかいお茶でしょう?」
「そうねえ……朝はあったかい方が落ち着くかもしれないわね」
パタパタとスリッパが鳴る。シンクで空のカップを洗い始めた母と入れ替わり、祖母は水を入れたケトルをスタンドへ差し込み、スイッチをピッと入れた。
大きな掃き出し窓の向こうは、白い遮像カーテン越しでもわかるほど明るい日差しで満ちている。カーテンと床の隙間からこぼれた日の光が、フローリングに長いかげを作る。
ピアノは、直射日光にもエアコンの風にも弱い。なのに、母はそれを誰よりも熟知した上で、わざわざ大きな掃き出し窓のあるこのリビングにグランドピアノを置いた。もちろん、ピアノもエアコンも配置には最大限の工夫をし、カーテンは遮熱機能の高いものを選び、窓は二重ガラス。軒先には酷暑対策に伸縮式の屋根までつけている。その他にも母はこのピアノのためにあれこれと気を配っていた。下手したら、一人息子の自分より手をかけているかもしれない。
しかし、最近になってそれは違うことに気が付いた。やはり母にとってピアノは物でしかない。ただ、ピアノを含む時間や空間を丸ごと大切にしているのだ。単純にプロとしての責任で楽器のコンディションを維持するだけではない。季節、曜日、天気、気温、家族の雰囲気。そういった、曖昧な、けれど確かな移り変わりがあり、そして人の心を動かし、形作っていくもの。その全てが母にとっての「ピアノ」のようなのだ。
「燎くん、ピアノは生き物だってよく言うじゃない? 木で出来ているから色々なものに弱くて気を遣うって。でもね、お母さんは他の意味もある気がするの。例えばこのグランドピアノ、世間には何台も出回ってるわよね。じゃあ、その全てがこれと同じピアノだと思う? どこにあったとしても、これと同じモデルなら全く同じ音が出せると思う?」
かつて、母の言葉に自分は首を振った。明確な根拠は即座に思い浮かばなかったのに、不思議と確信をもって違うと言いきれるほど母の話には説得力があった。
「お母さんもそんな気がしてるのよね。うまく言えないんだけど。でも、きっとそうなの。ピアノが生きているってそういうことなんじゃないかなって」
スリッパの音と共に母は戻ってきた。母は一直線に掃き出し窓に向かい、白いカーテンをめくって目を細める。
「ほんと、今日もいい天気ね。お花見いいかも。そういえば家族で最後にお花見したのって、何年前だったかしら」
「燎が中学生の時……だったか。久しぶりにみんなで出かけるのもいいかもしれないな。燎が良ければ、だが」
父の視線に頷く。これから本格的に受験勉強が始まる。受験が終わったとしても、大学次第では入学前も慌ただしくなるだろう。そうなれば家族で過ごす時間はいよいよ皆無に等しくなってしまう。
「どこに行こうかしら。おばあちゃんはどこがいい?」
母は急須を手にした祖母へ問いかける。しかしその手は掃き出し窓を全開にし、振り返った足は何の迷いもなくグランドピアノへ向かっている。
「それは言動不一致じゃないか?」
たまらず苦笑いした父に、母はアナウンサーと同じ笑みを返した。
「だって、こんな日に弾かないなんてありえないもの。おばあちゃんだって今からお茶の時間だし。二曲なんてあっという間よ」
その後に控えている服選び(迷いに迷った挙句父を呼びつける時間も含む)とメイクは、いつも通り勘定に入っていない。この調子だと出発は昼前になりそうだ。今日の部活が午後からで助かったと胸を撫で下ろすべきか、息子の部活が午後からだから気が緩んでいるのか。白いカーテンの裾は、思い出したかのような微風に時々そよそよと揺れている。
「いや、四曲だよ」
何をするべきかは「ピアノ」が導き出していた。
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