(48)現実 お題:五月病

三年生になった太陽と月。シリアス。誰もベルリンに行かなかった世界線。




「はああ……」
 翔琉の上半身がローテーブルに崩れ落ちていく。水を掛けられた砂山のようだった。ノートにのたうつ数式にこめかみが着陸し、くしゃりと音を立てる。燎は顔をしかめた。こうなる前に急いでノートを閉じるべきだった。しかし後悔しても遅い。翔琉はうつろな目をぼーっとアイスコーヒーに向けたきり微動だにしない。もはや何を言っても頭に入らないだろう。思わずつきそうになったため息を深呼吸にすり替える。これ以上この部屋を重い空気で充満させるわけにはいかない。
 手を伸ばしたグラスの表面にはうっすらと水滴がつき始めていた。外は今日も良く晴れている。半分開けた窓からは暖かい空気が穏やかに流れ込んでいる。風でノートがめくれることもない。今までの翔琉なら、燎の隙をついて昼寝を決め込むか、こんないい日はテスト勉強なんかより練習すべきだと説得に持ち込んでいたところだ。
 重症かもしれない。燎はアイスコーヒーの苦みで頭を冷やし、口を開いた。
「トモ。少し休憩にしようか」
「おー……」
 何よりの楽しみであるはずの休憩にすら、翔琉はまばたき一つしない。燎は少し考えてから自分の勉強道具を全て片付けた。翔琉の教科書も閉じ、茶髪の下敷きになっているノートも慎重に引き抜く。紙のこすれる不吉な音に、判断を誤ったかと胃が縮む心地がしたが、幸い無事に回収することが出来た。テーブルの上をグラスのみにして手持ちのウェットティッシュで拭き、消しゴムのかすとまとめてゴミ箱に捨てさせてもらう。
 ピカピカに磨き上げられた天板と、生気を失っている翔琉がひどくアンバランスだった。日曜日の午後を満喫する子どもたちの歓声が外を走り抜けていく。燎は耐え切れなくなり、同じく持参してきた小型ワイヤレススピーカーの電源を入れ、スマートフォンのプレイリストを開いた。しばらく指をさまよわせ、クラシックのピアノソロを選ぶ。故郷の風景を描いた静かな曲集だ。四小節ほど経ってから翔琉は呟いた。
「俺がこうしてる間も、鳴海はうまいことやってるんだろな……」
 翔琉・ロラン・奏斗が三人ともベルリン行きを断ったことで、新学年は何事もなく始まるかに思えた。しかしどこからか噂が漏れたらしく、いつの間にか校内には評判が広まっていた。ジャズ部には海外からスカウトされるほどの生徒がいると。翔琉も直接質問されれば正直に答えるほかない。おかげで今年度の部活紹介のステージは信じられないほど盛り上がり、体験入部希望者が次々にやってくることとなった。
 ビッグバンド部になりそうだなと笑っていられたのは最初のうちだけだった。数日後には、本当に大所帯になった時のための練習メニューや指導方針、学校側に楽器を手配してもらうための交渉などで頭を痛める羽目になってしまった。結果的に、楽器やジャズの難しさや既存メンバーの本気具合に気圧され体験の時点で辞退する者も続出し、幸か不幸か残った正式な新入部員は一握り。それでも自分たち三年生と二年生を足した人数より多い。しかもそのほぼ全員がジャズ未経験者なのだ。贅沢かつ失礼な悩みだとは承知だが、歓迎の気持ちと同じくらい問題は尽きない。
「どうだろうな。俺からは何とも言えない。少なくとも鳴海本人からそういう話は聞いていないし、悩みがあったところで顔には出さないだろう」
「だよなあ……」
 伝え聞いた話では、アニソンジャズという間口の広さと動画チャンネルの人気を誇る星屑旅団はさらに賑わっているらしい。ロランより輝之進に尋ねた方が実情を聞き出せそうだが、SwingCATSより多忙を極めているのは想像に難くない。声をかけるのも気が引ける。
 三年生初の中間テストを控え、授業は一気に受験ムードに染まり始めた。日々の課題と予習復習に受験勉強が加わるだけでも大きな負担だ。翔琉にはルバートでのアルバイトもある。シフトを減らすことになったとはいえ、拘束時間は燎より長い。そこに自分の練習時間と後輩の指導。本当なら一分一秒でも惜しいはずなのに、この頃は気付けば回転の鈍った頭を痛めて俯いていることが増えた。燎にとって基本的に勉強はノルマさえ決めてしまえばこなすだけだ。分からない部分は調べるか、担当教師に教わりに行けばいい。だが部活に関してはそうはいかない。何もかもがまだ軌道に乗っておらず、全てが不透明で、常に時間は足りず、正解の見えない場所でただ場当たり的に対処するのが精一杯の現状。待ち受けているのは引退という冷酷なタイムリミットだけだ。正式な規則はないが、受験に影響のないよう夏から秋をめどにと通達が来ている。今は五月。夏を引退とするならあと……。
 燎は額に手をやった。冷え切った手の平を当てても一向に明晰さがやってこない。プレイリストは随分進み、もう二度と帰れない故郷を歌っている。このままではただ時間が過ぎるだけだ。考えなければならない。なのに考えたくない。
 グラスの表面の水滴が連なり、大きな雫になって滑り落ちていく。燎は額から剥がれ落ちた右手を奮い立たせ、再びアイスコーヒーを取った。