(62)真夏のメルティースノウ お題:セミの声

ユピテル目当てに一人映画館を訪れた輝之進。でも思わぬダメージを受けてしまったようで……?






 一人で来て良かった。
 ハンカチを下まぶたに押し当てる。何度そうしただろう。そろそろ乾いたところがなくなるかもしれない。広げるのが恐ろしい。念のため濃い色のものにしたけれど、涙にファンデやマスカラの繊維が混じってひどいことになっていそうだ。こんなところを誰かに見られたらと思うと、考えただけで震えてしまう。

 映画が終わり場内が明るくなってからしばらく経った、と思う。満員に近かった席はがらんとしている。残っているのは、感想を熱っぽく語るオタクのグループと、自分と同じように目元を拭いている人くらいだ。この顔で外に出たくはない。けれど、ここで鏡を出して化粧を直すつもりもない。今ならパウダールームも空いていると信じて重い腰を上げる。
 腰を上げて、ヒールにうまく体重が乗らなかったことに驚いた。足首からぐらりと体が崩れる。あっ、と咄嗟に手を出し前の椅子の背もたれを掴む。せっかく落ち着いた息がまた荒れてしまった。今日はとことんダメかもしれない。忘れ物がないか念入りにチェックしてから、座席の列の間をそろりそろりと抜けてエントランスに向かった。

 シアターの扉を出て通路を進む。ヒールがカーペットを引きずる音がする。さっきよりもショッパーが重く感じる。右腕から外し、左腕の肘にかけ直す。と、ちょうどさっき見た映画のポスターがあった。
『見習い魔女のメルとハル』
 ふわふわの魔女の服に身を包むメルが、杖を片手に空を仰いでいる。視線の先には、ぎっしりと星が敷き詰められた夜空にちらちらと舞う雪。メルの隣には、日本の学生服に魔女の外套を羽織ったハル。二人とも、ころんとした丸い顔にくりっとした目。小柄で短めの手足。主題歌がユピテルじゃなかったら絶対見に来なかっただろう。
 ダメだ。あのストーリーを見終わったあとにこのポスターはダメ。ユピテルのメルティースノウが流れてきてまた泣いてしまう。
 取り急ぎ写真を撮らなくては。幸い今なら誰もいない。バッグから通常盤と限定盤のCDを出して、ポスターの前に掲げシャッターボタンを押す。
 無人のパウダールームで顔を立て直し、映画館を後にする。時間の感覚がよくわからない。エスカレーターから見えた時計塔は夕方六時を指していた。けれど、ショッピングモールは自分がお昼に着いた時からずっと混んでいて、窓がないせいで時間がちゃんと流れているのか実感が湧かない。

 自動ドアがすーっと開くと、蒸し暑い空気に乗ってセミの声が耳を突く。そろそろ八月も終わりだというのに。
『ねえ、雪が降ったら また思い出してくれる? 出会ったときのことを
 そう言えたらどんなによかったかな
 君の町はあたたかいから雪が降らないなんて 知りたくなかった』
 ユピテルのメルティースノウがセミの声とマッシュアップを起こして気持ちが落ち着かない。クーラーで冷たくなった腕はそれっきり全然温かくならない。暑苦しい風が肌を上滑りしていくだけだ。

 何も喉を通らない。飲み物が精一杯。アイスティーのストローから口を離し、深いため息をつく。
 本当は限定スイーツを食べて帰るつもりだったのに、計画が丸つぶれだ。あんな内容だなんて聞いてない。ユピテルのインタビュー記事以外何も読まずに行ったのがいけなかったのかもしれないけれど。
 窓際のカウンター席からぼんやりと外を眺める。ここではセミの声は聞こえない。空は少しずつ夜に向かっている。歩道を歩く人たちはみな、それぞれに忙しそうで、楽しそう。
 ああ、この人たちもみんなメルとハルを見ればいいのに。
『君が忘れても 僕が思い出させる
 君がくれた魔法でいつか 雪を降らせてみせるから
 どうかその時は 思い出して』
 親に、帰りが少し遅くなるかもと連絡を入れてスマホをロックする。
 まだ帰りたくない。せめて、暗くなるまで。外でセミの声がしなくなるまで。