(63)あたたかな耳 お題:夏の終わり

ひとりの夜、季節の移り変わりを知るロラン。他人には明かさないこと。父との会話で気づいたこと。ロラン父捏造。





 ヘッドホンを外すと、両耳を覆っていた熱と湿気がふわっと逃げていく。彼らもきっと窮屈だっただろう。イヤーパッドと耳の間、という超狭小空間で同じフレーズを何十回も聞かされ続けたとあっては。
 ヘッドホンを外したのは僕だけど、本当の意味で解放されたのは彼らかもしれない。いつまで同じところをいじってるんだ、そろそろ他のパートも手を入れたらどうだ。もしくは通しで聴かせろ。
 彼らは心を持たない機械。道具でしかない。曲を聞き飽きたり、ましてや苦情を言い出したりするなんてありえない。なのになぜだろう。頭の片隅は僕の意思と無関係に起き出し、たまには彼らにオペラでも聴かせてあげようかと考え始めている。

 とりあえずオペラは後でゆっくり選ぶとして、片手を耳の後ろに当てる。まだ熱い。作業を始めてからそんなに時間は経っていないのに。
 集中しすぎたのかもしれない。もしくは焦っているのかも。あまり認めたくはないけれど。八月三十一日、という今日の日付を頭から追い払う。大丈夫、猶予はある。そのために立てたスケジュールじゃないか。

 ディスプレイをつけっぱなしのままデスクを離れる。それにしても静かだ。静かすぎると言ってもいい。元々このマンションに騒がしい住人はいないけど、いつもならもう少し……と、ベランダの窓を開けて気がついた。行きかう車の音に混じって、澄んだ音色が耳に届く。
 ――――リーン、リーン、
 小さな音だが、確かにこれは日本の秋の虫の声だ。そうか、もう夜にセミは鳴かないのか。
 一度キッチンに戻り、ミネラルウォーターのペットボトルをグラスに注いで飲み、ベランダに戻る。柵にもたれると、ひんやりして気持ちいい。夜景から目を落としてエントランス前を見下ろす。マンションの高層階に虫がいるはずもない。音の方向と小ささからして、あの植え込みの中にいるのだろう。
 自分の音楽も、世界からしたらちっぽけな虫の声と同じかもしれない。動画サイトでいかに神と崇められようが、絶対に上には上がいる。生きる道は二つ。世界が認める最強の神になり君臨するか、一握りの人の心に永久に残り続ける作り手になるか。
 答えは決まっている。あのアカウントを削除した時、僕は神の名を捨てたのだ。

「もしもし、父さん。今いいかな」
『いいよ、もう今日の仕事は終わってる。ロランが通話してくるなんて珍しいな。困ったことがあったのか? まさかとは思うけど、宿題が終わってないとか? それはそれで興味深いけど』
「宿題はとっくに終わってるから安心してほしいな。でも、困ってるのは本当なんだ。よくわかったね」
『わかるさ。こういう時くらい父親面させてもらいたいね』
「じゃあ僕も息子面させてもらうよ」
『それは楽しみだ。で、その困ったことは。父さんに力になれることなら何でも言ってくれ』
「ありがとう。ただ、実を言うと父さんの得意分野ではないかもしれない」
『へえ。異業種の話でもいいってことか』
「まあ、そうだね。というか……うん、本当のところを言うと、仕事を抜きにして父さんに話を聞いてもらいたいのかもしれない。感慨にふけってるのかと言われたら、それまでだけど」
『いいじゃないか。父さんも今まさに感慨にふけってるよ。大事な息子にそんなことを言われたんだ。父親冥利に尽きる。何か欲しいものがあるならハッキリ言っていいんだぞ?』
「欲しいものは特にないよ。しいて言うなら母さんの作ったコンフィだけど」
『本当に異業種じゃないか』
 ははは、とスマホの向こうで父が笑った。夜風で冷えた耳が温かくなっていく。

「父さん」
『ん?』
「音楽って本当に難しいね」
『身に染みてわかったか』
「うん、勉強の方がずっと簡単だ。音楽は正解がわからない。やればやるほど、何がいいのか見えなくなっていく。マニュアルがないから採点もできない。結果がわかるのは世に出してからだ」
『そうだな。でも、楽しいだろう』
「……そうだね。楽しいよ、とても。日本にきて本当に良かったと思ってる」
『そうか。なら思う存分やるといい。父さんも協力した甲斐があるよ』
 スマホを手に頷く。
『正解や先行きがわからないのは商品作りも同じだ。ビジネスは、過去のデータや流行、経済をよく分析すれば勝算は上げられるけどね。どんなに綿密にプランを練っても、外れる時は外れてしまう。発売日、広告の打ち方、他社の動き、雑に言うと運も。そういう、売り手の思いもしない理由が予想外の売り上げを作ってしまう。良くも悪くもね。ただ幸いなことに、ビジネスとロランには決定的な違いが一つだけある』
 そこで父さんは言葉を切った。自分で考えてみろ、という合図かもしれない。ぱっと思い浮かんだのは、自分が学生であり大きな資金を動かしていないことだ。

『ロランは失敗が許される。ビジネスと違ってね』
 そう、か。
 スマホを持ちかえる。再び耳から熱が逃げていく。
 星屑旅団は高校生の部活。僕のアレンジが世間に受けなくても、誰かの人生――ましてや社会に影響を及ぼすことはない。大成しなかったらしなかったで、僕には父の会社が待っている。

 だから、普通ならもっと気楽に取り組んだっていい。
 ぎゅっと握り込んだスマホは、ケース越しでもわかるほど熱くなっていた。
「……父さん、僕は本気だよ」
『どうやらそうみたいだな』
 返ってきたのは真面目な声だった。父さんは怒ってもいないし、呆れてもいなかった。

 通話を切って夜風で涼んだ。柵に両腕をのせて小さな虫の声に耳を傾けていると、すぐに耳も体もすっきりしてきた。
 作業部屋に戻る。結局父さんは仕事の話をしていた。でもそれでいい。それでこそ父さんだ。
 もうエアコンはいらないかもしれない。電源を落とし、デスクに戻る。そしてオペラの動画を再生する。イヤーパッドと僕の耳の間はもうすっかり涼しくなっていて、彼らとオペラを楽しむのにうってつけだった。