(65)空 お題:夕暮れ

ゆあじゃず後。3年生優貴の美術の授業。自分と周囲、翔琉に対して考えていること。





「じゃあ始めてください」
 教師の話が終わった瞬間、教室は大量の紙がこすれる音で埋め尽くされた。教科書やノート、テスト用紙とは違う、画用紙の音。各自一枚ずつしかないその音の主はすぐに押し黙り、絵になるのを待ち始めた。もっとも、ちゃんとした「絵」にしてもらえるかは別として。
 明らかに美術が苦手なクラスメイトたちから呻き声が上がる。画用紙を見習え、と優貴は小さく鼻を鳴らし、コバルトブルーのチューブに手を伸ばした。

 窓の外はすっきりとした秋晴れ。教室でクーラーをつけなくなってからどのくらい経っただろう。登校中に、額の汗を拭き前髪の乱れを直すことも減っていた。ウッドベースを背負う背中も、そのうち汗をかかなくなるのだろう。
 いいことだ。やっといい季節になった。やっぱりこの国の季節は春と秋だけでいい。いや、春は花粉症があるからなくなってほしい。一年じゅう秋でいい。そうしたらどんなに弾きやすいだろう。
 思えば、夏は翔琉が暑い暑いとうるさいし、冬は翔琉が寒い寒いとうるさい。春は春で、やっと暖かくなったから吹き放題だと騒がしい。秋が一番静かなのだ。比較的。
 だから、こんなに静かな年は初めてだった。

 頭を振り、コバルトブルーのチューブを置く。代わりに鮮やかなイエローを取りキャップをひねった。
 パレットに出したイエローに、水をたっぷり含ませた平筆をなじませる。画用紙の上から順に、筆を左右に往復させながら全体へ広げていく。上は濃く、下は淡くなるように。次はレッドを少し加え、同じく上から塗り広げ、濃い赤と明るいオレンジのグラデーションを作る。
 オレンジ色の雲をいくつか浮かべたら、今度は深いブルーも混ぜ、空の上の方を暗い紫色に。雲に陰影もつけ、メリハリのある夕焼けにする。

 手を動かしながら片目で周りを見ると、やはり大半のクラスメイトが窓をチラチラ見ながら青空を描いていた。よし、とは思わない。自分はそこまで個性というものに執着はない。そんなものはどこぞの孤高のギタリストだけで腹いっぱいだ。これ以上は胸焼けする。
 ただ「自分のやりたいことを堂々とやる意識」は昔よりさらに強くなったと思う。音楽も、他のことも。周りの顔色を見て萎縮するくらいなら、言いたいことを言って戦ったほうがマシだ。相手からしたらたまったもんじゃないだろうが、こちらは承知の上。一時期は自分を抑えるべきだと我慢もしたが、結局自分にも他人にも腹が立って仕方がなかった。
 両親相手にはそうも言ってられないが、きっと自分はこういう人間なのだろう。だからジャズが合っているのかもしれない。

 暗闇に包まれていく町並みを描いて筆を置いた。無言で手を挙げる。教師はすぐにやってきた。
「神条くん、今日も早かったですね。うん、よく描けています。題材の選び方もいいですね。先生はこういうのが見たかった」
 神条すげえ、夕日かよ、天才じゃん、と小さくどよめく周囲を無視し、道具をまとめて廊下に出る。課題はあくまで「空」。青空なんて誰も言っていない。自分がしたことは特別でも何でもない。ましてや天才だなんて。
 教師の言葉を掘り起こし、怒りに傾いた感情をまっすぐに立て直す。自分に必要なのは、適当なやつらの適当な言葉ではない。真剣な人間による率直な評価だ。
 蛇口を回して絵筆を水に当てる。暗い色はすぐに溶け出し、水の流れにのってすぐに消えた。
 早く弾きたい。